群雄割拠

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    にて今後更新していきます。

    ★中国史★

    78: 無名武将@お腹せっぷく 2005/03/28(月) 00:55:36
    単純に考えて、趙雲にはもっと兵をつけとけば良かったな
    トウ芝も副将についてんだし、兵数さえしっかりしてれば、
    曹真に勝てずとも、陣を抜かれはしなかったと思う
    諸葛亮伝を見る限りでは、兵の錬度は高かったようだし

    【魏延の長安攻めを孔明がオーケーしていたら その2】の続きを読む

    66: 無名武将@お腹せっぷく 2010/02/15(月) 22:17:48
    初め,朝廷では孫秀、孫楷を尊寵していた,以って呉人を招來せんと欲してのことであった。呉が亡ぶに及んだ,孫秀(の位階)を降して伏波將軍と為し,孫楷を渡遼將軍と為した。

    琅邪王の司馬[人由]は使いを遣わして孫皓及び其の宗族を送りだし洛陽に詣でさせた。
    五月,丁亥朔,孫皓が至ると,其の太子である瑾等と泥頭面縛し,東陽門に詣でた。
    詔があって謁者を遣わして其の縛めを解かせ,衣服、車乘、田三十頃を賜り,歳ごとに錢谷、綿絹を給わること甚だ厚かった。

    孫瑾を拝して中郎と為し,諸子で王と為っていた者は皆郎中と為し,呉之舊望は,才に隨って擢敘した。孫氏の將吏で渡江してきた者は十年を復し,百姓は二十年を復すこととした。

    庚寅,帝は軒に臨み,文武で位に有るもの及び四方の使者をあつめ大會したが,國子學生は皆預ること焉れなったのである。歸命侯の孫皓及び呉の降人を引見することとなった,孫皓は登殿すると稽顙した。

    帝は孫皓に謂って曰く
    「朕は此れに座を設けて以って卿を待つこと久しかったぞ。」

    皓曰く
    「臣も南方で,亦た此れに座を設けて以って陛下を待っておりました。」

    賈充が孫皓に謂って曰く
    「聞けば君は南方に在りしおり人の目を鑿ち,人の面皮を剥いだというが,此れは何の刑に等しいかな?」

    皓曰く
    「人臣で其の君を弑し奸回不忠に及ぶ者が有れば,則ち此の刑を加えるのみですな。」

    賈充は默然として甚だ愧じいったが而して孫皓の顔色は怍すところ無いものであった。帝は從容として散騎常侍の薛瑩に孫皓が亡びし所以を問うた。

    對して曰く
    「皓は小人を暱近し,刑罰は放濫であったため,大臣も諸將も,人は自らを保てませんでした,此れが其れ亡びし所以であります。」

    它日く,又た吾彦に問うたところ,對して曰く
    「呉主は英俊で,宰輔は賢明でありました。」

    帝は笑って曰く
    「是れに若かば,何故に亡んだのだ?」

    吾彦曰く
    「天は永らえるさまと終わりのさまを祿しておるもので,
    歴數には屬すものが有るものです,故に陛下の為に禽われとなっただけです。」
    帝は之を善しとした。

    【三国志好きな俺が資治通鑑晉紀を呉が滅亡するまで訳し続けるスレ その11(完結)】の続きを読む

    60: 無名武将@お腹せっぷく 2010/02/15(月) 21:20:07
    世祖武皇帝中太康元年(庚子,西暦280年)

    春,正月,呉は大赦した。
    杜預は江陵に向かい,王渾は横江に出て,呉の鎮、戍を攻めたたところ,向う所で皆克った。二月,戊午,王濬、唐彬は丹楊監の盛紀を撃破した。呉人は江磧に於いて要害となる処には,並んで鉄鎖を以って之を橫截していた;又た鐵錐を作した,長さは丈餘で,江中に暗置し(隠れるように配置し),以って舟艦を逆い拒もうとしたのである。

    王濬は大筏數十を作した,方百餘歩,草を縛って人と為し,甲を被せて仗を持たせると,水を善くす者を令て以って筏を先行させた,鐵錐に遇うと,錐は輒ち筏に著わされて而して除去された。又た大炬を作った,長さ十餘丈,大なるものは數十圍ともなり,麻油を以ってそれに灌がせると,船の前に在させた。

    鎖に遇うと,然るに炬が之を燒き,須臾にして,融液となって斷絶された,是に於いて船は礙す所無くなった。庚申,王濬は西陵に克ち,呉の都督である留憲等を殺した。壬戌,荊門、夷道の二城に克つと,夷道監の陸晏を殺した。杜預は牙門の周旨等を遣わして奇兵八百を帥させて泛舟させ夜に渡江させ,樂郷を襲った,旗幟を多く張りたて,火を巴山に起てた。

    呉の都督であった孫歆は懼れて,江陵督の伍延に書を与えて曰く
    「北より來たる諸軍は,乃ち江を飛び渡ってきた。」

    周旨等は樂郷の城外に伏兵していた,孫歆は軍を遣わして王濬を出て拒もうとし,大敗して而して還った。周旨等はそこで伏兵を発して孫歆の軍に隨って而して入ったが,孫歆は覺らなかったため,直ちに帳下に至り,孫歆を虜にして而して還った。

    乙丑,王濬は呉の水軍都督の陸景を撃ち殺した。杜預は江陵に進み攻め,甲戌,之に克つと,伍延を斬りすてた。是に於いて沅水、湘水以南から,交州、廣州に於けるに接するまで,州郡は皆が風を望み印綬を送りつけてきたのである。杜預は節を杖にして詔を稱え而して之を緩撫した。凡そ斬獲する所となった呉の都督、監軍は十四,牙門、郡守は百二十餘人となった。胡奮は江安に克った。

    乙亥,詔がくだった
    「王濬、唐彬は既にして巴丘を定めたなら,胡奮、王戎と共になり夏口、武昌を平らげ,流れに順いて長騖し,直ちに秣陵を造せ。杜預は當に零、桂を鎮め靜め,衡陽を懷輯すべし。大兵の既にして過ぎたれば,荊州の南の境は固められようから當に檄を傳えて而して定むべし。杜預等は各おの兵を分けて以って王濬、唐彬に益してやり,太尉の賈充は屯を項へ移すように。」

    王戎は參軍であった襄陽の羅尚、南陽の劉喬を遣わし兵を將いさせて王濬と合わさって武昌を攻めたところ,呉の江夏太守の劉朗、督武昌諸軍の虞昺は皆降った。
    虞昺は,虞翻之子である。
    【三国志好きな俺が資治通鑑晉紀を呉が滅亡するまで訳し続けるスレ その10】の続きを読む

    55: 無名武将@お腹せっぷく 2010/02/15(月) 20:42:51
    東萊(出身の)王彌の家は世に二千石たりてきており,彌は學術勇略を有し,騎射を善くしたため,青州の人は之を謂うに「飛豹」とした。然して任俠を喜んでいたため,處士であった陳留の(人)董養が見えて而して之に謂って曰く
    「君は亂を好み禍ちを楽しんでおりますが,若し天下に事が有れば,士大夫に作れないことでしょう。」

    劉淵は王彌と友となり善くしていたため,謂って稱えて曰く
    「王、李とは郷曲を以って見え知っている,こと毎に相稱え薦めあってきた。適足為吾患耳。」
    因って歔欷して涕を流した。

    齊王の司馬攸は之を聞くと,帝に於いて言って曰く
    「陛下には劉淵を除かずにおりますが,臣は并州が久しく安んずることを得ないと恐れます。」

    王渾曰く
    「大晉は方(まさ)に信を以ってして殊俗を懐けてきたものだ,奈何(いか)でか無形之疑いを以って人の侍子を殺すというのか?それで何で徳度を弘められようか!」

    帝曰く
    「渾の言や是なり。」
    劉豹が卒すに会い,淵を以って代わりとし左部帥と為した。


    四月,大赦した。部曲督以下の質任を除くこととした。呉の桂林太守である修允が卒し,其の部曲は應じて分けられ諸將に給されることになった。

    督將の郭馬、何典、王族等は舊軍で世を累ねてきており,離別することを楽しまず,呉主が廣州の戸口の實を料ろうとしてきたことに会って,郭馬等は民心が不安になったのに因って,衆を聚めて廣州督の虞授を攻殺し,郭馬は自らを都督交、廣二州諸軍事と號すと,何典を使て蒼梧を攻めさせ,王族をして始興を攻めさせた。


    八月,呉は軍師の張悌を以って丞相と為し,牛渚都督の何植を司徒と為し,執金吾の滕修を司空と為した。未だ拜さぬうちに,更めて滕修を以って廣州牧と為して,萬人を帥して東道に従い郭馬を討たせることとした。郭馬は南海太守の劉略を殺し,廣州刺史の徐旗を逐いだした。

    呉主は又た徐陵督の陶浚を遣わして七千人を將いさせると,西道に従い交州牧の陶璜と共に郭馬を撃たせることとした。呉には鬼目菜が有り,工人である黄耇の家に生じた買菜というものが有り,工人である呉平の家に生じた。

    東觀では圖書を案じて,鬼目と名づけられているのは曰く芝草のことで,買菜とは曰く平慮草のことである。呉主は黄耇を以って侍芝郎と為し,呉平を平慮郎と為し,皆銀印青緩とした。

    呉主は群臣を宴にまねく毎に,鹹(みな)沉醉せ令めた。又た黄門郎十人を置いて司過と為し,宴の罷わりし之後に,各おの其の闕失を奏上させ,迕視や謬言など,余すところなく挙げさせた。大なるは即ち刑戮を加え,小なるは記録して罪と為し,或いは人面を剝がし,或いは人の眼を鑿った。是に由って上下は心を離し,為に力を盡くそうとするもの莫くなったのである。

    【三国志好きな俺が資治通鑑晉紀を呉が滅亡するまで訳し続けるスレ その9】の続きを読む

    49: 無名武将@お腹せっぷく 2010/02/15(月) 20:00:04
    それでは晉紀2の続きを始めるのだ

    世祖武皇帝上之下咸寧三年(丁酉,西暦二七七年)


    正月,丙子朔,日食が有った。
       皇子裕を立てて始平王と為したが;庚寅,裕は卒した。

    三月,平虜護軍の文鴦が涼、秦、雍州の諸軍を督して樹機能を討ち,
       之を破ったため,諸胡二十萬口が來たりて降った。


    五月,呉の將である邵、夏祥は眾七千餘人を帥して來降した。
     

    七月,中山王の睦が逋亡を招誘したことに坐して,貶されて丹水縣侯と為った。
       流れ星が紫宮の分野に没した。

    衛將軍の楊珧等が建議して,以って為すに
    「古には諸侯を封建するとは,王室を籓衛せんとの所以がありました;今諸王公は皆京師に在りますが,扞城之義に非ざることです。又た,異姓の諸將が邊に居りますが,宜しく親戚を以って参じさせるべきです。」

    帝は乃ち詔をくだして諸王は各おの戸邑の多少を以って三等を為すこととし,大國には三軍五千人を置き,次國は二軍三千人,小國は一軍一千一百人とした;諸王で都督と為っていた者は,各おの其の國を徙して相近づけ使むこととした。

    八月,癸亥,扶風王亮を徙して汝南王と為し,出して鎮南大將軍と為し,都督豫州諸軍事とした;琅邪王倫を趙王と為し,督鄴城守事とした;勃海王輔を太原王と為し,監并州諸軍事とした;東莞王人由を以って徐州に在らしめ,徙封して琅邪王とした。汝陰王駿が關中に在ったため,徙封して扶風王とした;又た太原王顒を徙して河間王と為した,汝南王柬を南陽王と為した。

    司馬輔は,司馬孚之子である;司馬顒は,司馬孚之孫である。其の無官の者は,皆遣わして就國させた。諸王公で京師に戀こがれるものは,皆涕泣して而して去っていった。又た皇子瑋を封じて始平王と為し,允を濮陽王と為し,該を新都王と為し,遐を清河王と為した。

    其れ異姓之臣で大功有る者は,皆郡公、郡侯に封じることとなった。賈充を封じて魯郡公と為し,王沈を追封して博陵郡公と為した。巨平侯の羊祜を徙封して南城郡侯と為したが,羊祜は固辭して受けなかった。

    羊祜は官爵を拝す毎に,常に避讓すること多く,その至心は素より著わされていたた,故に特に分列之外に申しのべられたのである。羊祜は二世に歴事し,職は樞要を典じてきたが,凡そ損益を謀議すると,皆其の草稿を焚きすてたため,世は聞くを得るもの莫かったし,進達する所の人も皆由る所を知らなかった。

    常に曰く
    「官を公朝より拝受しながら,私門に恩を謝すなどということは,吾の敢えてせざる所である。」
    兗、豫、徐、青、荊、益、梁の七州で大水があった。

    【三国志好きな俺が資治通鑑晉紀を呉が滅亡するまで訳し続けるスレ その8】の続きを読む

    42: 無名武将@お腹せっぷく 2010/02/13(土) 20:07:32
    是歲(274年),邵陵厲公の曹芳が卒した。
    初め,曹芳之金墉に廢遷せらるや,太宰中郎であった陳留の范粲は素服にて拜送し,哀しみは左右を動かした。遂に疾と称して出ず,陽狂して言わなくなり,寢所は乘車とし,足は地を履まなかった。子孫に婚宦の大事が有ろうとも,輒ち密かに焉れを諮り,合えば則ち顔色は變わらず,合わざれば則ち眠寢しても安んぜず,妻子は此れを以ってして其の旨を知ったのである。子の喬等三人もまた,並んで學業を棄てて,人事を絶ち,侍疾家庭,足は邑裡を出なかった。

    帝が即位するに及び,詔がくだされて二千石の祿を以って病を養っているものに,帛百匹を加え賜るものとしたが,喬は父の疾が篤いことを以って,辭して受けること敢えてしなかった。粲は言わざること凡そ三十六年,年八十四,所寢之車に於いて終えた。

    呉は比三年の大疫があった。


    世祖武皇帝上之下咸寧元年(乙未,西暦275年)


    正月,戊午朔,大赦し,改元した。
    呉で地を掘ったところ銀尺を得た,上に刻文が有った。呉主は大赦し天冊と改元した。
    呉の中書令賀邵は,中風となり言うこと能わざることとなった,職を去ること數月して,呉主は其の詐りを疑い,酒藏に收め付けると,掠考すること千たび數えたが,卒するまで一言も無かったため,乃ち燒いた鋸で其の頭を断ちきり,其の家屬を臨海に於けるに徙した。又た樓玄の子と孫を誅した。


    六月,鮮卑の拓跋力微が復た其の子沙漠汗を遣わし入貢してきた。 
    將に還ろうとするにあたり,幽州刺史の衛瓘が表して之を留めんことを請い,又た密かに金を以って其の諸部大人に賂して之を離間させた。


    七月,甲申晦,日食が有った。


    十二月,丁亥,宣帝の廟を追尊して曰く高祖とし,景帝を曰く世宗とし,文帝を曰く太祖とした。大疫があった,洛陽の死者は萬を以って數えることとなった。

    【三国志好きな俺が資治通鑑晉紀を呉が滅亡するまで訳し続けるスレ その7】の続きを読む

    36: 無名武将@お腹せっぷく 2010/02/13(土) 19:34:59
    それでは晉紀2をはじめるのだ。

    世祖武皇帝上之下 泰始九年(癸巳,西暦273年)



    正月,辛酉,密陵元侯の鄭袤が卒した。
    二月,癸巳,樂陵武公の石苞が卒した。
    三月,皇子祗を立てて東海王と為した。
       呉は陸抗を以って大司馬、荊州牧と為した。


    四月,戊辰朔,日有食之(日食が有った)。
    初め,鄧艾の死せるに,人は皆之を冤罪であるとしたが,而して朝廷では之が為に辨ず者など無かった。
    帝が即位するに及び,議郎であった敦煌(出身)の段灼が上疏して曰く
    「鄧艾の心は至忠を懐いておりました,而るに反逆之名を荷わせられ,巴、蜀を平定しながら而うして三族之誅を受けました。艾の性は剛急でありまして,功を矜(ほこ)って善を伐し,朋類と協同すること能わなかったものですから,故に之を肯理すもの莫かったのです。

    臣が竊いますに以為らく艾は本もとは屯田掌犢の人でありました,寵位(寵遇と位階は)已にして極まり,功名已にして成されたからには,七十の老公は,復た何をか求む所あったでしょうか!正しく以って劉禪が降りし初めには,遠くの郡は未だ附かずにおりました,そのため令を矯め承製し,權力で社稷を安んぜんとしたのです。

    鍾會は悖逆之心を有しておりまして。鄧艾の威名を畏れたため,其の疑似に因って,其の事を構成したまでなのです。艾は詔書を被るや,即ち強兵を遣わし,身を束ねて縛に就き,顧りみ望むこと敢えてしませんでした,誠に自ら知ることに先帝に奉り見えたなら,必ずや當に死すべき之理など無くなろうとみていたのです。

    會が誅を受けて之後,艾の官屬將吏は,愚かしくも戇して相聚まり,自ら共になって艾を追いかけ,檻車を破壊して,其の囚執を解きました。
    艾は困地に在って,狼狽して據るものを失ったとはいえ,未だ嘗て腹心之人と平素より之謀など有したことなどなかったわけですが,獨り腹背之誅を受けてしまいました,豈に哀しからざることでしょうか!

    陛下が龍興せられ,その大度を闡弘せらるからには,謂わば艾を舊墓に歸葬し,其の田宅を還し,平蜀之功を以って其の後に封を継がしめ,艾の闔棺を使て謚を定めしむことをお聴きいれる可きことかとぞんじます。

    そうなさるなら死しても恨む所とて無くなりましょうし,則ち天下の徇名之士も,立功之臣を思いかえし,必ずや湯火に(身を)投げだし,陛下の為に死すことを楽しみとすることでございましょう!」
    帝は其の言を善しとしたが而して未だ從うこと能わなかった。

    帝は給事中であった樊建に以って諸葛亮之蜀を治めたことを問うに会うと,曰く
    「吾獨りだけは諸葛亮の如かる者を得て而して之を臣とできないのか?」

    樊建は首を稽げて曰く
    「陛下は鄧艾之冤罪を知りながら而して直すこと能いませなんだからには,諸葛亮を得ると雖も,得らるのは馮唐之言に如くものさえ無いのでは!」

    帝は笑って曰く
    「卿の言は我が意を起たせたわ。」
    乃ち鄧艾の孫の朗を以って郎中と為した。

    【三国志好きな俺が資治通鑑晉紀を呉が滅亡するまで訳し続けるスレ その6】の続きを読む

    31: 無名武将@お腹せっぷく 2010/02/12(金) 20:10:05
    初め,万彧は忠清之士を選んで以って近職を補わせるのを請うた,呉主は大司農の樓玄を以って宮の為に鎮に下し,殿中の事を主(つかさど)らせた。

    樓玄は身を正して衆を帥し,法を奉って而して行い,對に応じては切直であったため,呉主は浸されて悅ばなかった。

    中書令にして領太子太傅の賀邵は上疏して諫めて曰く
    「近頃の年より以来,朝の序列は紛らわしく錯じりあい,真偽は相貿まりあって,忠良は排され墜とされ,信(まこと)の臣は害を被っております。以って正士が地方で摧かれているのに而して庸臣は苟媚するを是とするなら,意に先んじて指図を承り,各おの時の趣くことを希うこととなりましょう。

    人は反理之評を執り,士は詭道之論を吐き,遂に清流を使て濁りに変じさせ,忠臣に舌を結ばせてしまうことでしょう。陛下は九天之上に処し,百里之室に隠れ,言は風靡に出て,令は景從に行われております。

    寵媚之臣に親しみ洽わせておりまして,日ごと聞くは順意之辭,ですが將に謂わく此の輩が實に賢なれば而して天下は已にして平げられておりましょう。臣が聞きますには興國之君は其の過ちを聞くを楽しみとし,荒亂之主は其の譽めるを聞くを楽しむものです。其の過ちを聞けば過ちは日ごと消えてゆき而して福が臻(いた)るもので,其の譽を聞けば譽が日ごと損なわれて而して禍ちが至ることになるのです。

    陛下は刑法を厳しくして以って直辭を禁じ,善士を黜退させて以って諫めの口に逆らい,酒を杯について次つぎに造しております,その死生が保たれざるため,仕えている者は退くを以ってして幸いと為し,居る者は出るを以ってして福と為しております。

    これは誠に洪緒を保ち光らせ,天道王化を熙隆させる所以に非ざることでございます。何定は本もと僕隸の小人でして,身は行いも能(力)も無かるのに,而して陛下は其の佞媚(佞りや媚び)を愛でられ,以って威福を假しあたえられました。夫れ小人は求められ入れば,必ずや奸利を進めるものです。定間者忘興事役,江邊より戍兵を徴発して以って麋鹿を驅せさせ,老弱は饑え凍え,大も小も怨み歎いております。

    《傳》に曰く
    『國之興らんとするや也,民を視ること赤子の如く;其の亡びなんとするや,民を以って草芥と為さしむ。』今法禁は苛(むご)きに轉じ,賦調は益すます繁く,中官、近臣の所在では事を興こし,而して長吏は罪を畏れ,苦民は辦を求めています。

    是れ人の力を以ってしては堪えられず,家戸は離散し,呼嗟之聲は,和気を感傷しています。今や國には一年之儲さえ無く,家には經月之蓄えさえ無いというのに,而るに後宮之中で食に坐す者は萬有餘人となっております。又た,北の敵が注目しており,わが國の盛衰を伺っております。

    長江之限りは,久しく恃む可からざるもの,苟しくも我らが守ること能わざるなら,一葦も杭とす可きです也。願わくば陛下には基(もとい)を豊かにし本(もと)を強められ,情を割かちて道に従われますよう,なれば則ち成、康之治も興こり,聖祖之祚も隆ぶることでしょう!」
    呉主は深く之を恨んだ。

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    26: 無名武将@お腹せっぷく 2010/02/12(金) 19:41:35

    汶山の白馬胡が諸種を侵掠したため,益州刺史の皇甫晏が之を討とうと欲した。

    典學從事であった蜀郡の何旅等は諫めて曰く
    「胡夷は相殘しあっておりますが,それは固より其の常の性でありまして,未だ大いなる患いを為しておりません。今盛夏で出軍すれば,水潦は將に降りなんとしておりますから,必ずや疾疫の有ることでしょう。宜しく秋となるを須ち、冬となって之を圖るべきです。」皇甫晏は聽きいれなかった。

    胡人の康木子燒香が軍出れば必ず敗れると言ったため,皇甫晏は以為らく衆を沮すものだとし,之を斬りすてた。
    軍が觀阪に至ると,牙門の張弘等は以って汶山の道は險しいとし,且つ胡衆を畏れ,因って夜に亂を作し,皇甫晏を殺したため,軍中は驚き擾した。兵曹從事である犍為の楊倉は兵を勒して力戰して而して死んだ。

    張弘は遂に皇甫晏を誣し,云うに「己を率いて共に反そう」としたため,故に之を殺したとして,首を京師に傳えてきた。皇甫晏の主簿であった蜀郡の何攀は,方(まさ)に母の喪に居しており,之を聞くと,洛に詣でて皇甫晏の反せざること證(明)した。
    張弘等は兵を縱にして抄掠した。

    廣漢主簿の李毅は太守である弘農の王濬に於いて言って曰く
    「皇甫侯は諸生より起ったとか,何ぞ求めて而して反らんか!且つ廣漢と成都は密邇しております,而して梁州を統め者に,朝廷が以って益州之衿領を制させようと欲するのは,正しく今日之變を防がせようとしてのことです。今益州に亂が有るは,乃ち此郡の憂いです。張弘は小豎,衆の与せざる所ですから,宜しく即時に赴き討つべきです,(機会を)失う可きでありません。」

    王濬は先ず上請を欲したが,李毅曰く
    「主を殺した賊は,惡を為すこと尤も大きいもの,當に常制に拘らざるべきです,何ぞ之を請うこと有りましょうや!」

    そこで王濬は乃ち兵を徴発して張弘を討った。
    詔がくだり王濬を以って益州刺史と為すこととなった。
    王濬は張弘を撃つと,之を斬りすて,夷三族とした。
    そこで王濬を封じて關内侯とした。

    初め,王濬は羊祜の參軍と為ると,羊祜は之を深く知った。
    羊祜の兄の子の暨は王濬のことを白して
    「その為人は志大きいものの奢侈であります,專任す可きでありません,宜しく以って之を裁くこと有るべきです。」

    羊祜曰く
    「王濬には大才が有る,將に以って其の欲す所を決濟させれば,必ずや用う可きこととなろう。」更めて轉じて車騎從事中郎と為った。
    王濬が益州に在ると,威信を明らかにして立てたため,蠻夷の多くが之に歸附した;俄にして大司農に遷った。

    時に帝は羊祜と陰ながら呉を伐すことを謀っていた。
    羊祜は以為らく呉を伐すには宜しく上流之勢いに藉るべきだとし,密かに表して王濬を留めて復た益州刺史と為し,水軍を治めせ使むようにとした。
    尋くして龍驤將軍を加えられ,監益、梁諸軍事となった。

    【三国志好きな俺が資治通鑑晉紀を呉が滅亡するまで訳し続けるスレ その4】の続きを読む

    20: 無名武将@お腹せっぷく 2010/02/12(金) 18:59:36
    それでは270年から始めるのだ。
    世祖武皇帝上之上 泰始六年(庚寅,西暦270年)


    正月,呉の丁奉が渦口に入ってきたため,揚州刺史の牽弘が之を撃ち走らせた。
    呉の萬彧が巴丘より<自>建業に還った。


    四月,呉の左大司馬の施績が卒した。鎮軍大將軍の陸抗を以って信陵、西陵、 夷道、
    樂郷、公安の諸軍事を都督させ,樂郷を治めさせた。

    陸抗は以って呉主の政事は闕けること多かったため,上疏して曰く
    「臣が聞きますに德均(ひと)しければ則ち衆き者が寡なきに勝ち,力侔(ひと)しければ則ち安んずる者が危うきを制すとか,此れは六國が秦を並べのんだ所以でありまして、西楚が漢に屈した所以であります。

    今敵が據る所は,關右の地や、鴻溝以西だけを特とするに非ざるというのに,而して國家は外では連衡の授けが無く,内では西楚の強きに非ず,庶政は陵遲しており,黎民は未だ乂されずにおります。

    議者の恃む所は,徒らに長き江、峻しき山が帶びなし限る地域を封ずるを以てするばかりとしております。此れ乃ち守國之末事でありまして。智者之先んず所に非ざるものです。臣は念じて此れに及ぶ毎に,中夜(夜中となっては)枕を撫で,餐に臨んでは食を忘れております。夫れ事君之義(主君に事える義)は,犯そうとも而して欺くこと勿るものです,謹しんで時宜を十七條にして陳べ以って聞かせもうしあげるものです。」
    呉主は納れなかった。

    李勖は以って建安道は利ろしからずとし,導(道案内の)將の馮斐を殺して,軍を引きあげて還った。初め,何定は嘗て子の為に李勖に於いて求婚したが,李勖は許さなかった。そこで乃ち李勖は枉げて馮斐を殺し,擅じて軍を撤退させて還ったと白したため,(呉主は)李勖及び徐存,並びに其の家屬を誅すと,仍ち李勖の屍を焚いた。

    何定は又た諸將を使て各おの御犬を上らせ,一匹の犬が至っては縑數十匹分に値し,纓紲は錢一萬に値し,捕兔を以って廚に供されることとなった。呉人は皆が罪を何定に帰していたが,而して呉主は以って忠勤であると為して,賜爵して列侯とした。

    陸抗は上疏して曰く
    「小人は道を理めるに不明なもの,所見が既にして浅薄なようでは,情を竭くし節を盡くさ使むと雖も,猶も任すに足りぬものです,況んや其の奸心が素より篤いとあっては而るに憎愛の移ろうこと易きことですぞ!」
    呉主は從わなかった。

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    11: 無名武将@お腹せっぷく 2010/02/11(木) 21:15:43
    世祖武皇帝上之上泰始三年(丁亥,西暦267年)


    正月,丁卯,子の衷を立てて皇太子と為した。
    詔すにあたり以って「近世では太子を立てる毎に必ず赦が有ったものだ,今は世運は將に平らかであるから,當に之を示すに好惡を以てすべきであろう,百姓を使て多幸の望みを絶たしむべきである。曲げて小人に恵むなど,朕は取ること焉れ無いものだ!」
    遂に赦さなかった。

    司隸校尉である上黨の李喜は故の立進令であった劉友、前の尚書であった。 
    山濤、中山王の司馬睦、尚書僕射の武陔らを劾奏すると各おの官の稻田を佔じているから,山濤、司馬睦等の官を免ずよう請い,武陔については已に亡くなっていたため,其の謚を貶めるよう請うた。

    詔に曰く
    「劉友は百姓を侵し剝ぎとり以って朝士を謬まらせ惑わした。其の考は竟として以って邪佞を懲らしむるものとす。山濤等は其の過ちを貳びせぬのだから,皆問う所を有すこと勿れ。李喜は志を亢らせて公に在った,官に當って而して行ったことは,邦(くに)の司直と謂う可きである。光武が云ったことが有る:『貴戚且斂手以避二鮑。』其れ群寮に申しわたし敕すものとす,各おの所詞を慎むよう,寬宥之恩は,何度も遭遇で
    きるものではないぞ!」司馬睦は,宣帝の弟の子である也。

    臣光曰く
    政の大本は,刑賞に於けるに在るもので,刑賞が明らかでないなら, 政は何をか以って成るものであろうか!晉の武帝は山濤を赦して而して李喜を褒めたが,其れ刑、賞に於いて両つながら之を失ったものであった。

    李喜の言いし所を使て是と為さしむなら,則ち山濤は赦す可からず;言う所を非と為すなら,則ち喜は褒めるに足らず。褒之使言,言っても而して用いられざるなら,怨みが
    下に於いて結ばれようし,威(権柄)が上に於いて玩ばれよう,將に安んぞ之を用いようか!且つ四臣は同罪なのだから,劉友が誅に伏したのに而して山濤等が不問とされ,(罰すのにあたり)貴を避けて賤に施すなど,政と謂う可きか!

    創業之初めなのに,而して政の本が立たざるなら,將に以って後世を垂統せん
    としても,亦た難しいことではなかろうか!
    帝は李喜を以って太子太傅と為し,犍為(出身)の李密を徽して、 (太子)洗馬と為した。李密は祖母が老いていたことを以って,固辭したため,之を許した。

    李密は人と交わり,公で其の得失を議す毎に而して之を切責し,常に言うことに
    「吾は(党与となる仲間がいず)獨りだけで世に立つこととなり,影を顧みても儔(ともがら)など無かった。然りながら而して(外の党人から陥れられて罪を得ることを)懼れずにいられたのは,どの人に於いても彼我など無くしていたことを以っての故であろう。」

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    1: ヽ┃・∀・|ノ 2010/02/11(木) 19:25:14
    資治通鑑晉紀を呉が滅亡するまで訳し続ける

    訳の鉄則
    1.分からん箇所は訳さず飛ばす。
    2.あやふやな箇所は訳さず飛ばす。
    3.気力の限り訳し続ける予定だが途中逃亡しても勘弁な。



    ※大作です。難しい所もたくさんありますが、素晴らしい訳でした。

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    1: 風吹けば名無し 2013/01/02(水) 17:22:44.49 ID:lVv1xvGC
    呉はどのメディアでも空気やな
    空気なせいで赤壁と樊城戦になると唐突に色気出してくるから敵わん
    良将は多いのに名将が数えるほどしかいないし孫権の晩年は人材不足やったしな

    無双で使えんオリキャラたくさん出しまくるのって結局そういうことやろ

    【三国志で孫呉が異常な不人気の理由って】の続きを読む

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