50名無し 02/01/05 06:43
ちなみにこの時代で、私の好きな人物も、やはりダントツで馮道なのですが、意外と悪役に見られ勝ちな、朱全忠もプチ曹操みたいで好きです。でも、唐室を絶やしてしまった。と言う点では心象は悪く成らざるを得ません。 

その点、後周の元皇族を家訓にまでして保護した宋は、良いと思います。(中国史の中でも、前王朝の皇族を保護したのは、三国魏と、宋だけですよね?) 

この時代も、某歴史ゲーム会社がゲームの題材にしてくれないかな?なんて思います。(三国志とは別に)そうすれば一気にメジャーに成るでしょうね。

51名無し 02/01/07 00:53
>>50 
かつて、曹操再評価運動ってありましたよね。 
朱全忠も再評価の動きはあったようですが、「黄巣政権の裏切り者」ってことでお釈迦になったことが。。。政権奪取のやり口も陰惨でしたしね。 
(それをいったら西晋の司馬氏も該当しそうだが) 

宋の保護政策は好感が持てますね。おかげで、(創作だけど)水滸伝にも宋王室の末裔が登場してます(小旋風柴進)。 

皇族保護政策、戦国時代とか五胡十六国あたりはどうでしょう? 
全部は詳しくわからないので(^^;
52名無し 02/01/07 03:17
>>51 
五胡十六国だと後燕が前秦の苻氏を、 
北魏が南涼の禿髪氏を保護しましたね。
53名無し 02/01/09 00:01
>>52 
ありがとうございます。 
少なくとも一例か二例くらいはありそうかな、と思っていましたし。 

五代十国の例でいけば、南唐は一時期呉の楊氏を保護していました。 
しかし、中主李景は、後周の世宗柴栄が南征の折に楊氏を撫安する 
よう詔を下していることを聞いて、楊氏の郎党を根絶やしにしたようです。
54名無し 02/01/13 17:52
南唐の中主元宗・李璟は「ビン」・「楚」を併呑して、一時期(柴栄の南征前)その勢力図を見ると、当時の五代、後周と同等、またはそれを凌ぐ版図を誇っている。 

と言う事は、柴栄の南征は、後周・南唐両国に取って当時の中国では天下分け目の戦いと言う様な認識だったと思うんですが、当時両国で大規模な会戦、有名な戦いは有ったのでしょうか? 

また、当時、特に南唐側に名が残る将軍・人物は居たのでしょうか? 

一応自分でも調べて見ます。
59名無し 02/01/16 01:02
>>54 
後周・南唐の攻防は、955年(後周の顕徳二年、南唐の保大十三年)11月に柴栄が南征したことが発端です。このあたりの南唐において有名な武将というと劉仁贍ですね。 
『新五代史』では、王彦章・裴約と並んで「死節伝」に伝が立っています。 
南唐の諸将が柴栄に恐れをなす中で、ひとり奮闘している様が描かれています。 

例えば、緒戦の方で後周の李穀が北に兵を退いたとき、南唐の将軍劉彦貞はこれを追撃しようとしました。劉仁贍は李穀の行動を「偽りの退却」とみなし、深追いすることをやめるよう諫言しましたが、劉彦貞に受け入れられずして敗北を喫しました。
60名無し 02/01/16 01:05
(>>59の続き。) 
ところで、後周と南唐の国境は淮水が担っていました。 
南唐では、水位が低くなる冬にのみ、淮水に沿って防備の兵を配置していました(これを「把浅」といいます)。 

寿州の監軍であった呉廷紹は、国境が安泰であるゆえ軍費を無駄にすべきでない、として「把浅」を廃止しようとします。ここで、劉仁贍は上表して「把浅」の存続を求めるものの、棄却されてしまいました。これは、柴栄南征の遠因のひとつだと思います。 

後周・南唐の全体的な流れについては、こちらでも調査中です。
65名無し 02/01/17 03:48
”劉仁贍”ですか、全く初めて聞く名前だ(汗) 

自分でも調べるとか何とか言って、殆どの資料元は似たり寄ったりで全く進展が有りませんでした。そんな中、お調べに成って居て凄いですね。 
”劉仁贍”面白い武将ですね。やはり文化国で武に劣る南唐でも、流石は当時五代最大勢力南唐!やっぱり人材は居たんですね。 

ちなみに、この南征を、あの馮道が柴栄に対して諫言していたんですよね。 
まぁ馮道の懸念を他所に、戦争は大勝利に終りましたが・・・
67名無し 02/01/18 00:39
>>65
劉仁贍についてもうちょっと掘り下げてみます、

956年正月、劉仁贍が治めている寿州に柴栄が攻め込んできましたが三ヶ月持ちこたえています(4月に長雨が十日以上も続いて淮水溢れたため、柴栄が撤退しました)。その後、李重進という者が招討使なって寿州を狙っていました。彼の軍中に不和が生じていることを探っ劉仁贍は、李重進を攻撃するよう進言しますが、斉王の李景達から許可を得られませんでした。

957年正月、柴栄がふたたび南征してきました。南唐の諸将がつぎつぎと降伏したり逃げたりする中で、劉仁贍はひとり城を堅守します。しかし、病に倒れてしまい、子の劉崇諫が降伏を企みます。父はこれを知り子を殺そうとしましたが、監軍の周廷構に泣きすがられて止めます。

同年3月、劉仁贍の病はいよいよ重くなります。ここで副使の呉羽が書状を偽造し、寿州は柴栄の手に落ちました。劉仁贍はほどなく死亡しました。

>馮道の諫言
馮道としては、柴栄の遠征が危ない(天下がますます乱れる)と思ったのかもしれませんね。
69名無し 02/01/19 02:12
陳舜臣著「中国傑物伝」読んだけど、馮道仕官最初の王朝って、一般的には後唐と言う事に成って居るけど、実はその前に五代十国の中にも入らなかった小国、(格好良く言えば”幻の王朝”)「大燕」と言う国が最初です。
でもこの「燕」実際は五代十国に数えられなかった位なので、とっても小さい国(勢力)だった。

と言う事で、ちょっとこの番外編王朝「燕」について書いてみます。

創設者は”劉守光”。その父親”劉仁恭”は、盧竜節度使の配下に有ったが、その後、晋陽に割拠する独眼竜”李克用に援助を受けてその勢力を乗っ取った。しかし、以前愛妾と通じてしまい追放した、実子”劉守光”に攻められて幽閉。守光は兄”守文”をも殺し、その地位を奪った程の野心家だった。

そしてとうとう「大燕国皇帝」を名乗るのだが、彼が割拠する勢力は、後梁の”朱全忠”・晋陽の”李克用”の二大勢力に挟まれた環境。そこで彼らに抗する勢力に拡大させる為に、易定節度使の”王処直”勢力を攻め取ろうと侵攻するも、”王処直”は晋陽の主、当時既に克用は世を去り、息子の”存勗”に救援を求め、連合軍に滅ぼされてしまった。

ちなみに、当時の馮道は、例の得意技”諫言”を、主君にしていた為に投獄されて居たので、難を逃れている。
70名無し 02/01/20 00:41
>>69
おお、河北(河朔)三鎮のひとつ、廬龍節度使の流れを汲んでいる燕の登場ですね。
個人的には、三国時代の燕と似ているなんて思ったりもしています。
劉仁恭が公孫度・康・恭(二代で半独立を保ち、三代目で追放される)
で、守光が公孫淵というように。
公孫淵もまた、独立する際に諫言した者を殺していましたね。
71名無し 02/01/22 01:53
最近良いんじゃ無いかなぁ~?と思うのが前蜀の王健。 

若い頃は、悪だったけど、成人してその行動力から国情動乱期にその頭角を表し始め、次第に周囲に人望を集め、僖宗の成都避難時代には、それに従いその下で黄巣軍討伐にも 貢献し、僖宗が長安帰還後は、四川の節度使の地位を奪って蜀に割拠。 

その上、王朝開闢後は中央の文化人を迎え入れたりして、なかなか骨の有る人物だったんですよね。



80名無し 02/01/23 01:23
>>71 
王建は結構したたかな人物ですね。 
即位のときは、劉備に倣って独立せよと、蜀人から要請があったようです。 
文化人で有名どころというと、詩人でもある韋荘ですかね。 
72名無し 02/01/22 02:04
それともう1つ最近興味が有るのが、黄巣の乱時代の唐王朝内勢力図。 
これも三国時代前の後漢の様に、やはり五代十国体勢が整うまでは、かなりの群雄割拠状態だったのでしょうか? 
後の五代十国体勢に繋がる以外の節度使等で面白いエピソードを持った人物とかは居るんでしょうか? 

例えば、黄巣の乱自体が、足掛け10年も続いている(しかも黄巣は一時期では有っても「斉」王朝を作っている位だし、それなりの体制は出来ていたと思います。 
と言う事で、黄巣配下でも朱温以外にも名の有る将軍等も居たのかな?と思います。 
特に王健と戦った黄巣配下の将軍とかは記録に残ってたりするんですか?
80名無し 02/01/23 01:23
>>72 
あくが強い人物ですが、まずは李罕之を推挙します。 
無頼→托鉢僧→賊→黄巣軍→唐軍という経歴を持っています。 
政治のいろはを知らず、食料に事欠いたときは人をさらってその肉を食らったそうです。李克用をして「わしのもとに李罕之がいるのは、董卓のもとに呂布がいるようなものだ」といわしめています。 
実際、彼は後に朱全忠の陣営に寝返りましたが、その翌年に死亡しました。 
74名無し 02/01/22 02:22
それと、この時代の”軍師”に当る人でお勧めな方は誰だと思います? 
普通に考えると、直ぐに”馮道”と言う名前が出ると思うんですが、でも、馮道と言うと、どちらかと言うと、やはり”政治家”だと思うんですよねぇ~ 

と言う事で、漏れはマニアな所(でも無いか?)で、朱全忠配下の策士”李振”を推します。 こいつは何か全忠の悪どい計画の立案を良くした。と言う印象が有り、三国志で例えると童卓派配下の李儒みたいな印象です。
81名無し 02/01/23 01:37
>>74 
李振は激情家ですね。科挙に及第しなかったので、「普段から『清流』と気取っている彼奴らを黄河に投げ入れて『濁流』にしてやりましょう」と朱全忠に進言して、科挙あがりの高官を殺してますし。 

その一方で、朱全忠は曹操のように私怨で忠賢の士を殺したりはしない、と説いて青州の王師範を帰順させていますね。 

李振と同じ後梁の臣で、敬翔という人がいますね。 
常に朱全忠の行軍に扈従し、帷幄に出入して朝から晩まで働き詰め、馬上でのみ暫しの休息を得たといいます。 

馮道は私も政治家だと思います。李存勗が帝位につくのを諫めた張承業もまたしかり。 
76名無し 02/01/22 02:58
そういえば「岐」っていう国もあったな。 
なんかよくわかんない幕切れだったけど。
77名無し 02/01/22 20:03
>>76 
何それ?
78名無し 02/01/22 22:52
私も初めて聞きました。詳細お願いします。
83名無し 02/01/24 00:53
>>76-78 
長安の西、鳳翔節度使の李茂貞による政権ですね。<岐 

本名を宋文通といい、神策軍(近衛)の一兵卒でしたが、皇帝僖宗から功績を認められて李姓を賜り、鳳翔節度使、後に岐王となります。 

唐の昭宗が宦官に擁せられて鳳翔へ逃げてきたときにはこれを庇護するも、朱全忠と争って敗れます。後梁が建国されると、王建と組んでこれと対抗しています。後梁滅亡後は、後唐に従います。 

李茂貞の死後、その子が後を継ぎますが、任地を移転されたり戻されたりでいまいち安定しません。彼の死後、岐王の位は定かでありません。
84名無し 02/01/25 20:30
岐って李茂貞閥の事だったんですね。 
李茂貞は知っていましたが、彼が岐王と言う地位に成ったと言うのは初めて聞きました。 

彼は、朱全忠の勢力が余り強く成り過ぎるのを警戒した唐朝廷が、近衛軍強化を打ち出した時、朱全忠に”朝廷が軍備増強するのは李茂貞討伐の準備だ”と言う情報を流され、それを真に受けて長安へ攻め込んでしまいましたね。
85名無し 02/01/25 23:21
>>84 
朱全忠はこの手の謀略を結構使ってきますね。 
李克用もひっかかってますし。 
李茂貞の勢力、唐末は盛んでしたが、後梁期に入って下火に 
なってますね。王建と組んでもなお。
86名無し 02/01/26 04:21
ふと思ったんですが、この時代って分裂期なので、対外的には相当危なかった様な気がするんですが、どうなのだろう? 

確かに”遼”はこの時代に介入はして居るけど、本格的に華北地方に進出しようと言う意思は感じられないし(後晋の時は占領しても馮道に説得されて素直に退却して居るし)その他の周辺国では、大理国・吐番等は十国の国々よりも版図は大きかった。 

それに東には高麗も居る(まぁ、遼に国境線塞がれては居るが)と言う事で、周辺国が中華に進出するには絶好の機会だと思うのだけれども、実際に進出しようと言う動きとかは有ったのかな?
88名無し 02/01/28 00:23
>>86 
党項とか吐谷渾あたりは小競り合いがあったかもしれませんが、他は通交の方が多いかと。吐蕃はというと、五代では弱体化しているようですし。 
102名無し 02/02/02 03:31
この時代の、更に次代創始者、趙匡胤って、実際には五代十国がメインな活動時期だったと言う事が改めて確認。調べて見ると色々出て来て面白いね? 
生まれは後唐。と言う事でモロ五代十国! 

若い頃は仕官の先を求めて陝西・甘粛等辺境地帯にまで浪人として渡り歩いた。 
そんな中、後の後周創始者で、当時後漢の軍事実力者郭威が広く豪勇の者を募っているのを聴きつけ士官。此れが彼の立身出世の出発点と成った。
103名無し 02/02/02 03:32
趙匡胤は、武人の家に生まれたが、小さい頃、儒者の辛文悦に教育されたので、学問を収めるのに熱心な人物に成った。 

成人して、後周世宗柴栄に従い淮南を攻めた時、友軍の者に「趙匡胤は重い荷物を運びながら行軍している。」 と密告され、柴栄に略奪した物を私していると疑われるが、その実荷物は全て書物だったと言う。 

本人曰く、「学の足りない自分が陛下に失礼な事をしては成らないと例え軍中で有ろうと、常に学を広める為に書を持参している」と答えたエピソードが残っている。
104名無し 02/02/02 03:33
と、実は趙匡胤の父親も面白い人物だと思ったので書く。名を趙弘殷。後唐・後漢・後周に仕えた。後漢将軍時代、後蜀と陳倉の戦いで、流れ矢が左目に当りながらも先陣を切って敵陣を突破、敵を大破した猛者だった。 

この時代の隻眼将軍と言うと李克用が有名だが(実際には隻眼では無いが)趙弘殷も、この時代の代表的な隻眼将軍と言えると思います。


108名無し 02/02/04 00:46
>>102-104 
趙父子、調べ甲斐がありますね。 
趙匡胤の仕官はいかにも五代風ですし。 
(郭威自身もまたしかり。彼の場合、はじめの主君は李継韜でしたが) 
李克用は右目が「すがめ」ゆえの「独眼竜」ですが、 趙弘殷はまさしく隻眼の将ですね。 
105名無し 02/02/02 03:36
最近、この時代で一時期一番盛況を誇った南唐に興味深々なのですが、南唐が、閩・楚に攻め込んで併呑した時の様子に詳しい方が居れば(多分五代潰瘍さんだと思いますが(笑))教えて欲しいです。 

と言うか、この2国滅亡時を中心に、十国の国が滅ぼされた様子が全般的に知りたいですね。五代潰瘍さん以外でも御詳しい方居ましたら御教授下さい。
106名無し 02/02/03 11:54
>>105 
南唐の創業者たる李昪は外征を好みませんでした。 
楊呉の時代からの宿敵であった呉越が大火に見舞われた頃、これを機に攻め立てよという群臣の意見を退け、逆に弔問の使者を遣わせて厚く援助を施しています。李景には、「隣国とは友好関係を結び、よく社稷を保て」と遺言を残しています。 

ところが、李景はというと、父が築いた富裕なる財産、(自称でありながらも)唐の皇族の末裔という肩書きを背景に外征の野心を持ち出します。そして、隣国の情勢不安を衝いていくわけです。 

びんや楚の滅亡過程については後述します。
107名無し 02/02/03 22:42
実は今、陳舜臣の『小説十八史略』を読んで知ったのですが北周から宋への禅譲って「無血革命」で、これはすごいことだなあと、イギリスの名誉革命に匹敵する、歴史的な快挙だと思ってたんですけど・・・ 

実は北周の臣の韓通という人一人だけが「これは明らかな簒奪だ!」と言って兵を集めて趙匡胤を迎え討とうとしたので急いでこれを斬って捨てたそうです。しかもその一家も皆殺しにしてるし・・・・ 

う~ん、惜しいと言いますか何といいますか、世の中、なかなか「完璧」って訳にはいかないんもんですね。それでも「石刻遺訓」が南宋滅亡まで(ほぼ)守られ続けたのは感動的であります。 

あと、朱全忠の開封への遷都は「近世」への道を切り開いた快挙であるという内容の事が『大唐帝国』(宮崎市定著)の最後のほうで書かれてました。この本は、中世は(唐ですら)暗黒時代という主観に基づいて述べられてます。

長安を軍事都市としての象徴だとすると、開封は経済都市としての象徴として、後の宋の時代の繁栄ぶりを見るに、なるほど、朱全忠の着眼点は鋭かったんだなあ、と思う今日この頃・・・ 
108名無し 02/02/04 00:46
>>107 
お久しぶりです。 
韓通は、柴栄時代に趙匡胤と肩を並べていた将軍ですね。 
それだけに、許せないものがあったのかもしれません。 
創業時の暗い話はなかなか避けられないものなのでしょうか。。。 
でも、私も宋王朝は好感持てます。知識は浅いですが(w 

朱全忠は、黄巣軍から官軍へ寝返った際に開封の節度使になった 
というのも大きいです。 
しかも、それをよく活用したというのは評価してしかるべきですね。
109名無し 02/02/04 22:36
びんについて以下に記してみます。 

びんの創業者たる王審知の死後から、王一族による骨肉の争いが頻発していました。李景が南唐の主となったときのびんもご多分に漏れず、五代目の王延羲が実弟の王延政(建州で自立し、国号を殷と定めています)と諍いを起こしています。王延羲は驕慢淫虐の人で、宗族や臣下を多く殺しています。中でも、陳光逸という者は王延羲の五十余にわたる悪事を咎めたところ、王延羲に鞭打たれること百回、それでも死ななかったので。。。 絞首刑にされてしまいました。
111名無し 02/02/04 23:01
さて、王延羲は閩の将軍たる朱文進と連重遇によって擁立されましたが、死の道もまたこの2人によって導かれました。2人が主から粛正を受けることを恐れたからといいます。 

その後、朱文進が閩王となり、福州にいる王一族を皆殺しにします。これより閩は分裂、李景は朱文進討伐を名目に南下します。緒戦で敗北するものの、保大四年(946)、建州を占拠して王延政の一族を金陵に遷します。これで閩に対して矛を収めますが、福州節度使に任じていた閩の旧臣・李仁達に背かれます。 

南唐の臣・陳覚が兵を南に発しますが、呉越の援助を受けた李仁達軍に大敗します。結局のところ、閩の旧領のうち、福州のみが呉越の領土となりました。 
112名無し 02/02/08 01:23
楚は、三代目の馬希範が豪奢な宮殿等を立て続けてきたあたりから破綻が生じてきます。そして、彼の死後に骨肉の争いが表面化し出します。 

馬希範の後を継いだのは、同母弟の馬希広でした(947年)。その兄である馬希萼はこれに不服を唱え、当時中原を支配していた後漢の隠帝劉承祐に対して、楚王と同等の地位を自分に賜るよう請いました。 

しかし、拒絶されます。そこで馬希萼は南唐に救援を求め、弟の楚王を攻めます。緒戦こそ敗れるものの、その後巻き返して遂に馬希広を捕らえ、縊死させます(ちなみに、馬希広は後漢に援軍を請いましたが、ことは叶いませんでした)。

かくて五代目の楚王となった馬希萼は、政治や軍事などを弟の馬希崇にことごとく委ね、昼夜を問わず酒浸りの日々を送ります。そのため、馬希崇に背かれ、衡山に幽閉されます。そんなごたごたのうちに南唐が介入、潭州(長沙)へ入城します。951年、楚の滅亡です。

代わって湖南を統治するようになったのは、南唐の将軍で「辺羅漢」或いは「辺菩薩」の名を持つ仁慈なる仏教徒、辺鎬です。しかしながら彼は政治に疎く、湖南には再び戦乱の嵐が吹き荒れます。それが、劉言・王進逵・周行逢といった独立勢力の台頭です。 

結局、南唐は楚の旧領をおさえることができず、南漢の進出も許してしまいます。楚の旧領のうち南は南漢の、北は独立勢力の領土となった次第です。
113名無し 02/02/08 01:30
とりあえず、『新五代史』や『資治通鑑』、『南唐国史』あたりの文献から閩と楚の滅亡について探ってみました。この一連の遠征で、南唐も疲弊したようです。不足している部分もあるかと思いますが、補足あるいは指摘いただけるとありがたいです。 
115名無し 02/02/09 00:25
>>112 
劉言等の朗州(武陵)勢力の台頭は南唐の介入以前からですね。 

『全唐文』に馬希広の上奏が載っていますが、 
南唐・荊南・南漢が連携して馬希萼を支援していること 
を後漢に訴えていて興味深いものがあります。 
南唐は鄂州(武昌)の税収を荊南経由で朗州に支給していたそうです。
117名無し 02/02/09 00:54
>>115さん 
訂正ありがとうございます。 
馬希広の代あたりから楚はがたがただったわけですね。 

五代十国って、後梁Vs後唐(晋)、呉Vs呉越とかいうような一対一の関係が多いように見受けられますが、こういう連携は確かに興味深いです。 
ほぼ創業以来の荊南の仲介策が、ここでも生かされていますね。 
(もっとも、荊南が長らえるにはそういうことが欠かせなかったのですが)