1: 名無し 2009/06/06(土) 23:48:31 .net
自分で立てた天下三分の計なのに。

2名無し 2009/06/06(土) 23:50:57 .net
>>1 
魏と呉の二正面に敵を抱えるわけにはいかなかったから、 
妥協案に落ち着いたんだよ
3名無し 2009/06/06(土) 23:57:30 .net
赤壁の後に自力で取った荊州4郡はともかく、他はの地は呉に返却するか、呉に貢物でも送って、機嫌をとるなりするべきだったのだろうが 

蜀にとって荊州はなんとしても領有していなければいけない場所 
劉備の夷隆の戦いも仕方ない問題はそれが大敗に終わったことだ 
(これを私憤だとかほざくコーエーはゆとり) 
4名無し 2009/06/06(土) 23:57:52 .net
でも、それじゃ蜀は天下三分にしては小さすぎる勢力になるよね? 
諸葛亮は何かしら奪還の策を立てる事が出来たと思うけど、それが出来なかったこと自体、政治中心の能力しかなかった証拠なのかな?
6名無し 2009/06/07(日) 00:03:23 .net
>>4 
その「何かしら」を説明してみてよ 
呉に大敗し、新帝が即位したばかりの状態ではあれが最善だったと思うよ
5名無し 2009/06/07(日) 00:01:01 .net
荊州は隆中策にもあるように必要不可欠な所 
外に出にくい益州だけでは詰んだようなもんだ 

劉備は関羽というより荊州のために出兵したんだろう 
自分は劉備びいきだが劉備が人情に厚い人間だったとは思わない 
(人情に厚いふりはしただろうが) 

関羽を見捨てて、自分の義兄弟の公孫サンを死なせた袁紹の下に逃げたり 
自分の養子を後継者争いの元になるからという諸葛亮の進言を聞き入れて殺したりと 
冷徹な判断を下している。
8名無し 2009/06/07(日) 00:04:32 .net
>>5 
たしかにね。そう見ると冷徹だわ。 

荊州を落とされてからというもの、益州の拠点から荊州を取り戻すには攻めにくい地形だったのかな? 
益州は守りやすい複雑な土地柄な反面、出て行くのも容易じゃ無さそうだし。
10名無し 2009/06/07(日) 00:07:24 .net
むしろ孔明はすごいと思うよ 
当時、政治の中枢にいたのは孔明をはじめとする荊州名士だったけど、母体の荊州を失陥した時点で益州の旧勢力が政権奪還のために動いてもおかしくなかった 

そうすれば荊州奪還どころか、内部分裂で国が潰れる 
それを防ぎ、これまでの体制を維持した上に呉と同盟まで結んだんだからすごいよ
12名無し 2009/06/07(日) 00:11:08 .net
>>10 
そこが孔明の政治手腕は天才と言われる由縁なのかもね。
13名無し 2009/06/07(日) 00:15:48 .net
呉が滅ぶと蜀としても困る 
同じ労力なら北を切り取った方がいい
14名無し 2009/06/07(日) 00:18:14 .net
>>13 
その呉も大して期待に応えてくれなかった訳だよね。 
実は呉としても計算ずくの行動なのかな。
17名無し 2009/06/07(日) 00:20:19 .net
>>14 
2カ国の連携というのも困難なものなんだよね 
2カ国とも自国の事情が最優先になるわけだし
18名無し 2009/06/07(日) 00:23:14 .net
いっそのこと魏と結んで呉を滅ぼし、赤壁の戦いのようにそのまま呉を吸収。 
その後に魏で公孫淵やその他異民族などの各地反乱を起こせば攻めやすくて良かったのでは?


20名無し 2009/06/07(日) 00:27:20 .net
>>18 
漢を滅ぼした魏と結ぶというのはないでしょう
19名無し 2009/06/07(日) 00:23:18 .net
もし劉備が孫権討伐を行わず北伐してたらどうなったかな
20名無し 2009/06/07(日) 00:27:20 .net
>>19 
実在の北伐と大して変わらなかったと思うよ 

補給不足によって撤退 
21名無し 2009/06/07(日) 00:34:56 .net
>>20 
そう考えると、そもそも天下三分の計自体が間違いだったのかな? 
益州・漢中からじゃ何度やっても補給不足で撤退。 

荊州からなら上手く行ったんだろうか?
22名無し 2009/06/07(日) 00:37:16 .net
荊州益州二方向からの北伐が三分の計だったのでは? 
益州からだけ、荊州からだけの北伐は成功しないという
31名無し 2009/06/07(日) 15:51:41 .net
>>21 
そう。天下三分の計自体が根本的に間違い。 
周瑜や甘寧らの天下二分の計なら良かった。
32名無し 2009/06/07(日) 16:43:48 .net
>>31 
仮に二分できたとしても孫権末期からの混乱を思うと 
より弛緩した感じで自壊してた恐れが強い 

それは置いといて、隆中策時点の状況なら 
漢中(張魯)、涼州(馬超)がまだ健在だった気が…
34名無し 2009/06/12(金) 22:31:46 .net
>>32 
周瑜らの天下二分の計は襄陽まで押さえているので、江陵付近までしか押さえていなかった呉末期よりは外敵を守り易そう。 
孫権自身の問題はちょっとアレだが…天下二分で蜀方面から賢妾を得て孫和より先に優秀で長生きする跡継ぎを得てほしいものだ。
35名無し 2009/07/01(水) 03:33:08 .net
>>31 
劉備が王を名乗り、国を持つには天下三分にしないとダメだったし 
劉備が呉に降るようには思えないしなぁ
36名無し 2009/07/11(土) 22:40:43 .net
後の北魏と南朝 
元と宋を見るに 
天下二分しても 
結局だめだった様に思う
39名無し 2009/07/12(日) 01:45:44 .net
仮に奪還出来たところで、治める事が出来なければ意味がない様な… 
当時の蜀に荊州を任せられる人間はいたのか? 
関羽でも無理だったのに。 

結局、あの状況からでは何やってもジリ貧にしかならないと思う。 
蜀と魏では国力も人材も差がありすぎる。 
呉との関係が悪化した時点で既に詰んでた。
42名無し 2009/07/12(日) 08:02:09 .net
>>39 
関羽でも無理だった、というより 
関羽だから無理だった、が正しいんじゃね? 
蜀入りする前ならともかく、蜀入り後は人材は豊富。 
少なくとも関羽より適した人材は多い。 
関羽は傲慢な性格で同僚との軋轢が絶えなかったし、 
またそれまでは劉備の一部将でしかなく、政治的な官職に就いた事も無かった。 

とはいえ、蜀入り後に関羽と入れ替えで荊州太守送り込んでも、 
関羽が素直に従ったかどうかは疑問だが。
43名無し 2009/07/12(日) 10:49:13 .net
関羽よりはっきり適してると言える人材って具体的に誰だろうか 
全員何らかの実績が足りてない気がする
44名無し 2009/07/12(日) 13:24:21 .net
生え抜きでそれなりに実績があり、信用出来て、名士からの信頼も厚い人物… 

…諸葛亮くらいしか思い浮かばないな。 
やっぱり人材が足りない。 
せめて関羽の暴走を止められる人間が居れば良かったんだろうが…
45名無し 2009/07/12(日) 15:28:10 .net
失敗が目立ちすぎて評価は低いが李厳もなかなかの人物だと思うんだが 
李厳は益州の旧臣のなかでも代表格、劉備が死ぬとき諸葛亮とともに後事を託され常に大事な方面を任されてた 
やはり補給の失敗を隠蔽しようとしたのが最大の失策かな
46名無し 2009/07/12(日) 15:59:53 .net
李厳は劉表に取り立てられていたのに戦乱を避けて荊州から益州に逃げてるから 
最前線に立たせるには軽すぎる印象がある 

人間関係を見ると関羽なら諸葛亮によるとりなしが必要な気ガス 
意外と軍務:張飛、内政:潘濬の分業体制の方が上手くいったかも
49名無し 2009/07/12(日) 18:08:32 .net
李厳は法正、劉巴の死後に尚書令になった人物だから、219年頃の荊州督を任せるには格が全然足りないだろう。 
法正ですら新入りすぎて、最古参の関羽と交替しても諸将が尚更言うことを聞かなくなるだけ。 

馬超を北方方面から外すと言う手は無いし、荊州に配置しても意味は無い。 
すると軍事的には安定して格も十分な張飛だが、より上位の関羽と交替する理由は無い。 
軍の統監が出来て人格的にも評価されており、助言役として優れていたホウ統が生きていて、関羽の補佐として上手くやってくれれば、或いは…というところか。
55名無し 2009/07/13(月) 14:22:47 .net
対呉外交が、関羽の場合は滅茶苦茶だった。 
呉蜀で魏に挑むという戦略を、知らなかったんじゃないかとすら思うわ。 
荊州失ったのも関羽のせいみたいなもんだし、好き勝手し過ぎだよ・・・・・・・
58名無し 2009/07/14(火) 01:14:59 .net
>>55 
217年に呉が魏に降伏したから事実上同盟は消失してるんじゃね?
56名無し 2009/07/13(月) 18:11:20 .net
結果論になるんだが馬ショク配置したらどうだったんだろうか? 
失敗して馬ショク死んだら後の災いがなくなるし、もしも万に一つの確率で成功したら大出世
57名無し 2009/07/13(月) 18:48:31 .net
>>56 
若造の馬謖が、関羽を上手く操れるとも思えない。 
それに、失敗したら馬謖の命どころじゃなくなるし、逆に関さんが 
殺しかねん気もする。
59名無し 2009/07/14(火) 13:41:12 .net
関羽と孫権絡みの逸話は時間が不明なものが多いので判断が難しいんだよな 
219年の北上の際に初めは関羽が十分な守兵を置いたことからも、和睦は形だけのもので、呂蒙が荊州の残りを奪取する意図は公然のものだったと察することが出来る。
 
その状況で孫権が娘を関羽の息子に娶らせるというのは遜りの度が過ぎる。 
関羽は対劉備強硬派の呂蒙が退いて、若く孫権の寵臣や親族でもない陸遜が赴任して低姿勢の手紙を寄越したから初めて南郡の守兵を減らしたのだから、 
214-219年ごろの劉備孫権関係は同盟と言えるようなものではなかったのだろう。
60名無し 2009/07/14(火) 14:05:24 .net
呉の立場としては、魏蜀を天秤に掛けていたんだろう。 
孫権の娘の件は、その表れでもあると思うが、これを蹴られたせいで蜀よりも魏に追従した戦略になった。 
つまり、完全な対立関係になったのは、魏に降伏したからというより、関羽が呉を軽く見ていた結果かと。 

関羽北上は、襄陽辺りで止まってた方が良かった気もする・・・それでも、戦線維持出来たかは分からないが。 魏呉と対立関係の中での北進を考えると、やっぱり関羽の暴走としか思えないんだよなぁ。 しかも、結構軽い気持ちで樊城まで突っ込んだとしか思えない。
61名無し 2009/07/14(火) 14:55:48 .net
>>60 
劉備の一将に過ぎない関羽に孫権の縁談を持ち込んで、関羽が勝手に蹴った上に侮辱する、という話が史実だとして、それが曹操への降伏の前か後かさえ解らないのだから 

>孫権の娘の件は、その表れでもあると思うが、これを蹴られたせいで 
>蜀よりも魏に追従した戦略になった。 

なんてことは言えないかと。 
そもそも、劉備の元から孫氏を引き上げさせている状態で関羽と単独で姻戚になろうとするのは、つまり離間策だろう? 

つまり孫権が関羽を抱き込もうとした。それを関羽が屈辱と感じれば、「狗に虎の子はやれぬ」が意味不明な激怒ではなくなる。 

尤も、一端の外交能力を持つ者なら、それを堪えて丁重にあしらうべきであり、関羽に政治的配慮が欠けたことは疑えないわけだが。 

ついでに、樊城ってのは襄陽の対岸にある城だよ。襄陽だけ確保して樊城を落とさないなんてのは有り得ない。 襄樊防衛において、曹仁は北岸にある樊城を主城に設定した。それを関羽が攻めたってだけ。
62名無し 2009/07/14(火) 18:08:44 .net
孫権が息子で関羽が娘だった筈。 
後… 
「虎の娘を犬の子にはやらん」 
これって正史にも記述あったっけ?
63名無し 2009/07/14(火) 19:41:01 .net
>>62 
すまん、無いみたいだな 
あるのは使者を罵り侮辱したってことだけだ
64名無し 2009/07/14(火) 20:03:26 .net
そのあとに「権大いに怒る」とあるから相当ひどい侮辱だったのは確かだろうな。
66名無し 2009/07/15(水) 00:30:21 .net
そもそも劉備自体行き当たりばったりで 
戦略なんて何も考えちゃいないだろ 
荊州から漢中を右往左往するあたり計画性ゼロ 

関羽は使いづらい使われる人であって使う人じゃないな 
張飛も使われる人だけど使う人としては関羽以下。部下に暗殺されるって駄目じゃん 

そういうやつらが側近として幅を利かせてた初期劉備に 
天下を取る意識があったとは思えない
67名無し 2009/07/15(水) 00:43:51 .net
入蜀から漢中奪取までの劉備の動きは神レベル 
曹操・孫権・劉璋と三面を相手にして一州を切り取るとか有り得ん。 
荊州を守りきれなかったのは、そもそも元手の兵力が根本的に足りなかったという面が大きいな。