280: 名無し 2017/12/16(土)20:30:13 ID: ID:tGG
そろそろいくで
今日は第七回や

第七回 袁紹は磐河にて公孫と戦い 孫堅は江を跨いで劉表を撃つ 

さて孫堅は劉表に囲まれましたが、程普、黄蓋、韓当の三将が必死に救ったので脱出することが出来、兵の大半を失いましたが、路を開いて兵を引き連れて江東に帰れました。
これ以降孫堅と劉表は仇敵になりました。
>>281
案外さらっと切り抜けたな
>>282
第六回でさんざん危機感煽っておいてこれやからな

さて袁紹は河内に兵を駐屯させておりましたが、兵糧と馬草が欠乏しておりました。
冀州牧の韓馥が、人を遣わして兵糧を送り軍用の物資とさせました。
謀士の逢紀が袁紹に「大丈夫は天下を縦横するもので、どうして人が兵糧を送るのを待って糧食にしようというのですか?
冀州こそ金銭と兵糧が豊富な地なのに、将軍はどうしてこれをとらないのですか?」と説いたので、袁紹は「良策がないのだ。」と言うと、
逢紀は「密かに人を遣わして書を公孫?に与え、兵を進めさせて冀州を取りに行かせ、挟撃すると約束すれば、?は必ず兵を起こします。
韓馥は謀のない輩なので、必ず将軍に州の事を任せるでしょうから、中から奪えば、手に唾を吐くように簡単に得られます。」と言ったので、
袁紹は大いに喜び、ただちに書を発して公孫?の所へ届けました。

公孫?は書を得ると、共に冀州を攻め、その地を平等に分けようと書かれていたので、大いに喜び、即日兵を起こしました。
袁紹は人を遣わして密かに韓馥に報せました。韓馥は慌てて荀諶、辛評の、二人の謀士を集めて相談しました。
荀諶は「公孫?は燕、代の兵を率い、長駆して来るので、その鋒先に当たるべきではございません。
さらに劉備、関、張が彼を助けているので、敵対するのは難しいでしょう。袁本初殿は智勇が人に勝り、手下の名将も極めて多くございます。
将軍が彼と共に州の事を治めたいと要請すれば、彼は必ず将軍を厚遇するでしょうから、公孫?の憂いもなくなります。」と言ったので、
韓馥はただちに別駕の関純を袁紹の元に行かせて呼ぼうとしました。

長史の耿武が「袁紹は孤立し軍を窮迫させながら、我らの鼻息を仰いでおり、例えるなら股の上にいる嬰児は、乳を絶てば、ただちに餓死いたします。
どうして州の事を委ねるのですか?これは虎を羊の群れに引き入れるようなものです。」と諌めると、
韓馥は「私はそれこそ袁氏の元の吏であり、才能もまた本初殿に及ばない。古から賢者を選んで譲るものなのに、諸君はどうして嫉妬するのだ?」と言ったので、
耿武は「冀州は終わりだ!」と嘆きました。
こうして官職を棄てて去った者は三十人余りとなりました。
ただ耿武と関純だけは城外に伏せ、袁紹を待ちました。
>>286
コウ武、まるで董卓が来るみたいな言い方やん
>>287
国に害をなすって点では董卓も袁紹も変わらんからな
>>289
ああ、演義の袁紹はそういう扱いやったな

数日後、袁紹が兵を引き連れて来ました。
耿武、関純は刀を抜いて出ていき、袁紹を刺して殺そうとしました。
袁紹の将の顔良がたちどころに耿武を斬り、文醜が関純を斬り殺しました。
袁紹は冀州に入ると、韓馥を奮威将軍とし、田豊、沮授、許攸、逢紀を分けて州の事を掌握させ、韓馥の権力をことごとく奪いました。
韓馥は後悔しても及ばず、家族を棄て、単騎で陳留太守の張?の元に行きました。

さて公孫?は袁紹がすでに冀州を根拠地にしたと知ると、弟の公孫越を遣わして袁紹に会わせ、地を分けさせようとしました。
袁紹は「お前の兄が自ら来てくれ。私には相談したい事がある。」と言ったので、公孫越は別れを告げて帰りました。
五十里も行かぬうちに、道の傍らから一隊の兵馬が出て来て、口で「我こそは董丞相の部将である!」と言い、矢を乱射して公孫越を殺しました。
従者が逃げ帰って公孫?に会い、公孫越が死んだと報せました。
公孫?は大いに怒って「袁紹は私に兵を起こし韓馥を攻めるよう誘いながら、奴は裏から取り、今また董卓の兵と偽って我が弟を射殺し、この恨みを報いずにいられようか!」と言い、
手勢の兵をことごとく起こし、冀州に向かいました。
カンプクって三国志10で選ぶと固定イベントで滅亡するんだよな
回避方法は董卓討伐連合に参加しない事だけっていう
>>292
まじかよ
でもどうせ早々に董卓に滅ぼされるから変わらんやろ
>>292
イベント死はさすがに草

袁紹は公孫?の兵が来たと知ると、彼もまた軍を率いて出陣しました。
二つの軍は磐河の上で会し、袁紹軍は磐河の橋の東におり、公孫?軍は橋の西におりました。
公孫?が橋の上に馬で立ち、大声で「義に背く輩め、どうして私を売ったのだ!」と叫ぶと、
袁紹もまた馬に鞭うって橋の側に行き、公孫?を指差して「韓馥は才なく、冀州を私に譲ったのに、お前がどうして干渉するのだ?」と言いました。
公孫?が「昔日お前に忠義があると思い、盟主に推したが、今日の行為を見ると、真に狼の心、狗の行いの輩で、どのような面目があって世間に立てるのだ!」と言うと、
袁紹は大いに怒って「誰が奴を捕らえるか?」と言いました。

言い終わらぬうちに、文醜が馬に鞭うち槍を立て、真っ直ぐと橋に上りました。
公孫?は橋の側で文醜と交戦しました。
十合余り戦うと、公孫?は防ぎきれず、敗れて逃げ出しました。
文醜は勢いに乗じて追いかけました。
公孫?が陣中に入ると、文醜は馬を飛ばして真っ直ぐと中軍に入り、往来しながら突撃をかけました。
公孫?の手下の勇将四人が、一斉に迎え撃ちましたが、文醜が槍で一突きすると、一将は刺されて落馬し、三将は皆逃げ出しました。
文醜が真っ直ぐと公孫?を追って陣の後ろから出ると、公孫?は山谷に向かって逃げました。

文醜は馬を走らせ声を張り上げて「早く馬を下りて降伏せよ!」と叫びました。
公孫?は弓矢をことごとく落とし、兜を地面に落とし、髪を振り乱したまま馬を走らせ、山腹を曲がろうとすると、その馬は前脚を躓かせ、公孫?は身を翻して坂の下に落ちました。
文醜は急いで槍を捻り刺しに行きました。
突然坂の左側から一人の少年の将軍が曲がって来て、馬を飛ばし槍を立て、真っ直ぐと文醜に取って掛かりました。
公孫?が坂の上に登り、その少年を見てみると、生まれつき身長八尺、濃い眉に大きな眼、広い顔に重なった顎で、威風凛々とし、文醜と五、六十合大いに戦いましたが、勝負はつきませんでした。

公孫?の部下の救援軍が来ると、文醜は馬を叩いて逃げ帰りました。その少年は追いませんでした。
公孫?は慌てて坂を下り、その少年の姓名を問いました。
その少年は身を屈めて「某こそ常山郡真定県の人で、姓は趙、名は雲、字を子龍といい、元々袁紹の配下の者でした。
紹に忠君救民の心がないと見て、特に彼を見捨てて麾下に投じようとすると思わぬことにここで相見えました。」と答えたので、
公孫?は大いに喜び、共に陣に帰り、甲冑や兵を整えました。

次の日、公孫?は兵馬を左右両隊に分けて作り、陣形は羽翼のようでした。
馬五千匹余りは、大半が白馬でした。
公孫?はかつて羌人と戦った時、白馬をことごとく選んで先鋒としたので、「白馬将軍」と号され、羌人は白馬を見るとただちに逃げ出したので、このように白馬が極めて多いのでした。
袁紹は顔良、文醜を先鋒とし、各々に弓弩手一千を引き連れさせ、彼らも左右両隊に分けて作り、
左にいる者に公孫?の右軍を射掛け、右にいる者に公孫?の左軍を射掛けるよう命じました。
さらに麹義に八百の弓手、歩兵一万五千を引き連れさせ、陣中に並べさせました。
袁紹は自ら騎兵歩兵数万を引き連れ、後ろで応援しました。
白馬陣お披露目と同時に破られそうなんですがそれは

公孫?は趙雲を得たばかりで、その心がわからなかったので、別に一軍を率いさせて後ろに置きました。
大将の厳綱を先鋒としました。
公孫?自らは中軍を率い、橋の上に馬で立ち、傍らに金の糸で大きく「帥」の字を書きそれを紅で囲った旗を馬の前に立てました。
辰の時に太鼓を叩き、そのまま巳の時になりましたが、袁紹軍は進みませんでした。
麹義は弓弩手を皆盾の下に伏せさせ、砲が響き矢が発せられるのを待ちました。
>>309
辰の時って8時でええのかな?
>>313
そそ
その前後二時間分が辰の時や

厳綱は太鼓を騒がせ喚声を上げさせ、真っ直ぐと麹義に取って掛かりましたが、麹義軍は厳綱の兵が来るのを見ても、皆伏せて動きませんでした。
真っ直ぐと近づいてくると、一発の砲が響き、八百の弓弩手が一斉に射掛けました。
厳綱が急いで戻ろうとすると、麹義が馬を叩き刀を舞わせ、斬って落馬させたので、公孫?軍は大敗しました。
左右の両軍が、救いに行こうとしましたが、顔良、文醜が弓弩手を引き連れ射掛けて遮りました。

袁紹軍は並んで進み、真っ直ぐと界橋まで行き麹義は馬を走らせ、先に旗持ちの将を斬り、刺繍の入った旗を斬り倒しました。
公孫?は刺繍の入った旗が斬り倒されたのを見ると、馬を返し橋を下りて逃げ出しました。
麹義は軍を引き連れて真っ直ぐと後軍に突撃すると、正面から趙雲と出くわし、趙雲は槍を立て馬を躍らせ、真っ直ぐと麹義に取って掛かりました。
数合も戦わぬうちに、槍の一突きで麹義を刺して馬から落としました。
趙雲は一騎で馬を飛ばして袁紹軍に入り、左へ右へと突撃し、無人の境に入るようでした。
公孫?が軍を引き返すと、袁紹軍は大敗しました。
>>315
趙雲とかいう1人で戦況ひっくり返すバケモノ
>>316
実際は無理なんやろうけど
小説やとやっぱこういう描写は爽快やわ

さて袁紹はこれより先に騎馬の斥候を使って探らせており、帰って来て麹義が将を斬り旗を抜き、敗軍を追っていると報せたので、備えをしておらず、
田豊と共に帳下の戟を持った兵士数百人、弓箭手数十騎を引き連れ、馬に乗って見に行き、
呵呵と大いに笑いながら「公孫?は無能の輩だ!」と言いました。

まさに話していると、突然趙雲が面前に突撃して来ました。
弓箭手が急いで射ようとすると、趙雲が続けざまに数人刺したので、兵士たちは皆逃げ出しました。
後方は公孫?軍が円形に囲んでおりました。
田豊が慌てて袁紹に対し「主公はしばらく空の塀の中に隠れてください!」と言うと、
袁紹は兜を地に投げつけて、大声で「大丈夫が陣に臨んでは戦って死ぬもので、どうして塀に入り生を望もうか!」と叫びました。
兵士たちが心を等しくして死戦したため、趙雲が突撃しても入れないでいると、袁紹軍の大部隊がふいに来て、顔良もまた軍を引き連れ、両路から挟撃しました。
趙雲は公孫?を保護して厚い包囲を脱出し、界橋まで戻りました。

袁紹が兵を駆り立てて大いに進み、ふたたび追って橋を越えると、水に落ちて死んだ者は、その数を計りきれませんでした。
袁紹が先頭になって追いかけると、五里も行かぬうちに、山の背後から喚声が大いに起こるのが聞こえ、
一隊の人馬が出て来て、先頭の三人の大将こそ、劉玄徳、関雲長、張翼徳でした。
平原で公孫?と袁紹が争い合っていると探知したため、特に戦いを助けに来たのでした。

>>321
第六回はまるまる登場してないからね
後々彼らが中心になるけど

この時三匹の馬、三つの武器が、飛んで前に行き、
真っ直ぐと袁紹に取って掛かりました。
袁紹は驚いて魂が天の外に飛んだようになり、手の中の宝刀を馬の下に落とし、慌てて馬を叩いて逃げ出し、人々が救って橋を越えさせました。
公孫?もまた軍を収めて陣に帰りました。
玄徳、関、張が挨拶をし終えると、公孫?は「もし玄徳が遠くから来て私を救ってくれねば、幾度も狼狽していただろう。」と言い、趙雲と相見えさせました。
玄徳ははなはだ敬愛し、ただちに捨て置けなくなりました。

さて袁紹は一戦して敗れると、堅く守って出陣しなくなりました。
両軍が対峙して一月余りとなると、ある人が長安に行って董卓に報せました。
李儒が董卓に対して「袁紹と公孫?は、当代の豪傑です。現在磐河で戦っているので、天子の詔を偽り、人を差し向けて和解させた方がよろしいでしょう。
二人はその徳に感じ入り、必ず太師に帰順いたします。」と言うと、董卓は大いに喜びました。
正史では影薄いのになんで趙雲あんな有能武将になってるねん
>>329
正史やと趙雲別伝って資料に多くの活躍が載ってて
さらに古参やからキャラとして動かしやすかったんやろ

次の日ただちに太傅の馬日?、太僕の趙岐に、詔を持たせて行かせました。
二人が河北に着くと、袁紹は百里の外まで出迎え、再拝して詔を奉じました。
次の日二人が公孫?の陣営まで行って宣旨を伝えると、公孫?は使者を遣わして書を袁紹に届け、互いに講和したので、二人は都に帰って復命しました。
公孫?は即日軍を引き返させ、また劉玄徳を上表して推薦し平原相としました。
相ってどれぐらいの地位なの?
>>333
平原国のトップ
郡でいうなら太守と同等かな

玄徳と趙雲は別れに際し、手を取って涙を流し、離れるのを忍べませんでした。
趙雲が「某は先日公孫?を英雄と見誤りましたが、今行いを見てみると、彼もまた袁紹と同じ輩でした!」と嘆くと、
玄徳は「公はしばらく身を屈して彼に仕えるのだ。また相見える日もあろう。」と言いました。
涙を流しながら別れました。
>>336
泣くほどのエピソードあったか?
>>336
えっひどない?
公孫サン何も悪いことしてねえじゃん
>>343>>345
ここらへん演義で一切説明されてないから違和感ある
でも昔の小説やからある程度ガバガバでもしゃーない

さて袁術は南陽にいて、袁紹が新たに冀州を得たと聞くと、使者を遣わして馬千匹を求めました。
袁紹が与えなかったため、袁術は怒りました。これ以降、兄弟は不仲になりました。
また使者を荊州に遣わして、劉表に糧食二十万を借りようとしましたが、劉表もまた与えませんでした。
袁術はそれを恨み、密かに人に書を孫堅に送らせ、劉表を討伐させようとしました。

その書のあらましは、 

以前劉表が帰路を断ったのは、我が兄本初の謀であった。
今本初は表と密かに江東を襲おうと議論している。
公が速やかに兵を起こして劉表を討伐し、私が公のために本初を攻撃すれば、二つの仇は報いられる。
公が荊州を取り、私が冀州を取るが、一切誤ってはならぬ!

孫堅は書を得ると「劉表には我慢ならぬ!昔日我が帰路を断ち、今この時に乗じて恨みに報いねば、さらに何時まで待つことになろうか!」と言い、
帳下に程普、黄蓋、韓当らを集めて相談しました。
程普が「袁術は偽りが多いので、信じてはなりません。」と言うと、
孫堅は「私は自ら復讐しようとしており、どうして袁術の助けを望もうか?」と言い、
ただちに黄蓋を差し向けて先に長江の岸辺まで行かせ、戦船を用意させ、多くの武器、兵糧、馬草を載せさせ、大船には馬を載せさせ、日を決めて軍を起こそうとしました。
>>349
正史だと袁術配下だったけど演義だと孫家は独立してるから
扱いが謎なことになってるな

長江の中の間者がそれを探知し、劉表に報せに行きました。
劉表は大いに驚き、急いで文武の将士を集めて相談しました。
?良が「憂慮する必要はございません。黄祖に江夏の兵を率いさせて前進させ、主公は荊襄の兵を率いて救援してください。
孫堅は江を跨ぎ湖を渡って来るのに、どうして武を用いられましょうか?」と言うと、
劉表はその通りだと思い、黄祖に備えをさせ、その後ただちに大軍を起こしました。

さて孫堅には四人の子がおり、皆呉夫人から産まれ、長子の名は策、字を伯符、次子の名は権、字を仲謀、三子の名は翊、字を叔弼、四子の名は匡、字を季佐といいました。
呉夫人の妹は、孫堅の第二夫人で、彼女もまた一男一女を産み、息子の名は朗、字を早安、娘の名は仁といいました。
また側室の兪氏が一男を産み、名は韶、字を公礼といいました。
孫堅には一人の弟がおり、名は静、字は幼台といいました。

孫堅が行くに臨み、孫静は子供たちを引き連れて馬の前に並べて「今董卓が権力を専横し、天子は惰弱で、海内は大いに乱れ、各々が各地で覇を競っております。
江東はやや安寧になったばかりなのに、一つの小さな恨みで大軍を起こすのは、よろしいことではないので、兄は考え直してください。」と諌めると、
孫堅は「弟は多くを言うな。私は天下を縦横しているのに、どうして仇に報いずにいられようか!」と言いました。

長子の孫策が「父上が必ず行くというのなら、子も随行いたします。」と言うと、
孫堅はそれを許し、遂に孫策と船に乗り、樊城に向かいました。
黄祖は弓弩手を長江の岸辺に伏せており、船が岸に近づくのを見ると、矢を乱射させました。
孫堅は諸軍を軽々しく動かさず、船の中に伏せさせて往来しながら誘わせ、続けて三日間、船を数十回岸に近づかせました。
黄祖軍はそれを見るとただただ矢を放ったので、矢を放ち尽くしてしまいました。
孫堅が船の上に刺さった矢を抜かせると、約十数万本ありました。
この日はちょうど順風だったので、孫堅は兵士に一斉に矢を放たせました。
岸の上の兵は支えきれず、やむなく撤退しました。

孫堅軍が岸に登ると、程普、黄蓋は兵を両路に分け、真っ直ぐと黄祖の陣営に取って掛かりました。
背後からも韓当が兵を駆り立てて大いに進みました。
三方から挟撃されると、黄祖は大敗し、樊城を棄て、鄧城に入りました。
孫堅は黄蓋に船を守らせ、自ら兵を統べて追撃しました。
黄祖は軍を引き連れて迎え撃ち、野に布陣しました。
孫堅は陣形を作り、馬を門旗の下に出しました。
孫策も全身に鎧を着て、槍を立て馬に乗りながら父の側に立ちました。

黄祖は二将を引き連れて馬を出し、一人は江夏の張虎、一人は襄陽の陳生でした。
黄祖は鞭を揚げて「江東の鼠賊め、どうして敢えて漢室の宗族の国境を侵すのだ!」と大いに罵り、ただちに張虎に挑戦させました。
孫堅の陣中からは韓当が迎え撃ちました。
両騎が交わり、三十合余り戦うと、陳生は張虎が力及ばぬと見て、馬を飛ばして助けに行きました。
孫策がそれを望み見て、手中の槍を収め、弓を掴み矢を載せ、射掛けると陳生の顔に命中し、弦の動きに応じて落馬しました。

張虎は陳生が地に落ちたと見ると、驚いて動揺し、手向かう暇もなく、韓当に一刀のもと斬られ、頭を半分にされてしまいました。
程普は馬を走らせて真っ直ぐと陣の前に行き黄祖を捕らえようとしました。
黄祖は兜、馬を棄て、歩兵の中に混じって命からがら逃げ出しました。
孫堅は敗軍を急襲し、真っ直ぐと漢水に到ると、黄蓋に船を進ませて漢江で停泊させました。
黄祖とか言うただ自分のやるべきことをやったはずの有能武将なのに
演技の塩対応かわいそう
>>372
魏呉蜀のどれかに属してなければその三勢力のかませになるからな
でも実際の歴史そのまま再現したら小説として面白いかって言われたら微妙やし
黄祖・黄忠・黄月英と荊州には黄姓の名士が多いな

黄祖は敗軍を集め、劉表に会いに行き、孫堅の勢いは当たるべきではないとつぶさに言いました。
劉表は慌てて?良を呼んで相談しました。
?良は「目下敗れたばかりで、兵には戦う心がなくなったので、溝を深くし塁を高くし、その鋒を避け、密かに人を袁紹の元に行かせて救援を求めれば、この包囲も解けましょう。」と言いましたが、
蔡瑁は「子柔殿の言葉は、稚拙な計です。兵が城下に臨み、将が河辺に到っているのに、どうして手を束ねて死を待つのですか?
某は不才ですが、軍を借りて出陣し、決戦したく存じます。」と言うと、劉表はそれを許しました。

蔡瑁は軍一万余りを引き連れ、襄陽城の外に出て、?山に布陣しました。
孫堅は勝ちを得た兵を、長駆させて大いに進みました。
蔡瑁が馬を出しました。
孫堅が「あれは劉表の後妻の兄だ。誰が私と奴を捕らえるか?」と言うと、程普が鉄脊矛を立て馬を出し、蔡瑁と交戦しました。
数合もせぬうちに、蔡瑁は敗走しました。
孫堅が大軍を駆り立て、戦うと屍は野にあまねく横たわりました。
蔡瑁は襄陽に逃げ帰りました。
?良は蔡瑁が良策を聞かず、大敗したため、軍法に照らし斬るべきだと言いました。
劉表は彼の妹を娶ったばかりだったので、刑を加えませんでした。

さて孫堅は兵を四方に分け、襄陽を囲んで攻撃させました。
ある日突然、狂風が吹き起こり、中軍の帥の字の旗を折りました。
韓当は「これは吉兆ではないので、しばらく軍を戻すべきです。」と言いましたが、
孫堅は「我らは連戦連勝し、襄陽を取るのはまさに旦夕にあるのに、どうして風が旗を折っただけで、にわかに戦いを止められようか!」と言い、
遂に韓当の言葉を聞かず、城攻めをさらに激しくさせました。

?良が劉表に「某が夜天文を見ると、一つの将星が堕ちようとしております。天文の分野でそれをはかると、孫堅に該当します。主公は速やかに書を袁紹に送り、助けを求めますよう。」と言ったので、
劉表は書を作り、誰が敢えて包囲を突破するかと問いました。
勇将の呂公が、声に応じて行くと願い出ました。
?良は「お前が敢えて行くというのなら、我が計を聞け。お前に兵馬五百を与えるので、多くの射撃が上手い者を帯同して陣に突撃して抜け出し、ただちに?山に向かうのだ。
奴等は必ず軍を引き連れて追って来るから、お前は百人を分けて山に登らせ、石を拾って準備させ、もう百人には弓弩を取らせて林の中に伏せさせておけ。
追手が来たときには、真っ直ぐと逃げてはならず、曲がりながら、埋伏した場所に引き入れ、矢と石を共に放つのだ。
もし勝てたなら、連珠砲を合図として放て。城内からただちに出陣して応援する。
追手がないようなら、砲は放たず、そのまま行け。今夜は月がはなはだは明るくないから、黄昏にただちに城を出でよ。」と言いました。

呂公は計策を受け、兵馬を集めました。黄昏の時分に、密かに東門を開き、兵を引き連れて城を出ました。
孫堅は帳の中におりましたが、突然喚声を聞いたので、急いで馬に乗り三十騎余りを引き連れ、陣を出て見に行きました。
兵士が「一隊の人馬が出陣し、?山に向かって去りました。」と報せると、
孫堅は諸将に会わず、ただ三十騎余りを引き連れて追いました。
呂公はすでに山林の草むらの生えた所の、上下に兵を埋伏させておりました。

孫堅が馬を飛ばし、単騎単独で進むと、前軍は遠くありませんでした。
孫堅が大声で「止まれ!」と叫ぶと、呂公は馬の手綱を引いて戻り孫堅と戦いました。
馬を交えるとただの一合で、呂公は逃げ出し、山路へと入っていきました。
孫堅が後を追って入ると、呂公は見えなくなっておりました。
孫堅が山を登ろうとすると、突然一発の銅鑼が響き、山の上からは石が乱れて落ちて来て、林の中からは矢が一斉に乱射されました。
孫堅の身体には石と矢が当たり、脳漿が迸り、人馬は共に?山の中で死に、寿命は三十七?で止まりました。

呂公は三十騎の退路を断ち、全てを殺し尽くし、連珠砲を合図として放ちました。
城内から黄祖、?越、蔡瑁が、分かれて兵を引き連れて出陣したため、江東の諸軍は大いに乱れました。
黄蓋が喚声が天を震わせるのを聞き、水軍を引き連れて向かうと、黄祖と正面から出くわしました。
二合も戦わぬうちに、黄祖を生け捕りました。程普は孫策を保護し、急いで路を探していると、呂公と正面から出くわしました。
程普が馬を走らせて前に向かうと、数合も戦わぬうちに、矛の一突きで呂公を馬から落としました。
両軍は大いに戦いましたが、夜が明けると、各自軍を収めました。
劉表軍は城に入りました。

孫策は漢水まで戻ると、父親が矢の乱射で死に、屍はすでに劉表の兵士に担がれて城に入れられたとようやく知ったので、声を放って慟哭しました。
諸軍も皆号泣しました。
孫策が「父の屍が向こうにあるのに、どうして郷里に帰れようか!」と言うと、
黄蓋は「今黄祖をここに生け捕っているので、一人を城に入れて和を講じ、黄祖と主公の屍を交換させましょう。」と言いました。
言い終わらぬうちに、軍吏の桓楷が出て来て「某と劉表は旧交があるので、城に入る使者となりましょう。」と言うと、
孫策はそれを許しました。

桓楷は城に入って劉表に会うと、その事をつぶさに言いました。
劉表は「文台殿の屍は、私がすでに木の棺に入れてここにある。速やかに黄祖を開放しろ。両家は各々戦いを止め、ふたたび侵犯をしないようにするのだ。」と言いました。
桓楷が拝んで感謝して帰ろうとすると、階の下から?良が出て来て「駄目です!駄目です!私の一言で、江東の諸軍は甲冑の欠片すら帰れなくなります。先に桓楷を斬り、しかる後に計を用いてください。」と言いました。
黄祖、黄蓋、黄忠と黄姓は有能なやつ多いな

まさにこれは、 

敵を追って孫堅は初めて命を落とし、和を求めて桓楷もまた禍に遭う。 

桓楷の生命がどうなるかはまだわからないので、
まずは次回の説き明かしをお聞きください。
じゃあこれで第七回は終わりや
見てくれた人サンガツ
明日以降の予定表を張っておくで

時間は毎日20:30を予定
12/16(土) 三国志演義第七回
12/17(日) 三国志演義第八回
12/18(月) 三国志演義第九回
乙やで
次も楽しみすぎるわ
ちなみにワイは学生のときの卒論で三国志時代の食文化についてまとめたで
>>418
こちらこそサンガツ
あと二回やけど明日からはかなり展開が変わるからぜひぜひ見に来てくやで

>>422
三国志で論文書けるってええな
ワイそもそも違う学科やから出来へんかった
このスレにおると三国志13欲しくなってくるけどアレ面白いん?
信長の野望革新みたいな感じだとええんやけど
>>376
ワイは好き
ただ面白いかは人によるからなあ
>>376
400時間やった結果11pkの方が面白いという結論が出た
でも個人プレイでは最高傑作かな
7より面白かった
買っても損はしないと思う
>>379
7より面白いとか神ゲー確定やん
とはいえSLG三国志全タイトル含めるとまだ9が最高な感じ?
最後にやったの10なんだよな…
>>383
単純に7より出来ることが多いから楽しい
個人プレイのいい所ってロールプレイの幅やと思うから
あと9もやっぱり面白いけどワイは11pkが最高傑作と思ってる
>>387
9は黄巾の乱から蜀滅亡魔であるから好きなんよな
11pkはやったことないから良く分からんのや…
PS4で出来るだろうか…
遅くなったがイッチ乙やで

調べたら三国志13には五丈原どころか樊城までしかなくて草ァ!
馬鹿にしてるのか
>>428
コーエー的には関羽が主人公なんやな(白目)
三国志は五丈原までは、吉川英治御大が言ってるから…
>>428
13はシナリオがネックなんだよな
後期好きやと悲しくなる

>>429
吉川先生がカットしたせいでわけわからなくなってるけどそもそも三国志演義って晋の成立までを説明するみたいな目的もあるんだよなぁ
>>433
はえ~演義ってそういう側面もあったのか
横浜三国志みたいにこうして三国志は蜀滅亡で終わりを告げましたちゃんちゃんみたいなんじゃないのか

鄧艾、洋コ、ドヨ、陸抗、諸葛恪、姜維と後期武将好きやから辛いわ
三国志後半のあのどんどん武官がいなくなっていく終末感と焦燥感がたまらんのじゃ~
>>433
三国志のクライマックスは確かに中盤にこそあると言われるけど、
ワイは終盤の人事を尽くしても抗えない栄枯盛衰感も嫌いやないけどな
そういう人も多いやろし