1: 名無し 2018/02/12(月) 22:58:12.34 0
偉業を成し遂げたけど無名の人物含め、色々挙げてけ
2: 名無し 2018/02/13(火) 01:04:46.27 0
ステファン・ドゥシャン
セルヒア帝国の王で黄金期を築き、皇帝を名乗る

ポール・バラス 
フランス革命で恐怖政治に終止符を打つ
しかしその中身は革命を食い物にした悪徳の士

レオポルド2世 
極悪人ながらあまりその事実は知られていない

3: 名無し 2018/02/13(火) 12:47:31.02 0
>>2 
レオポルト2世はスターリンなみにやばい 
ベルギーとコンゴという国自体がマイナー

9: 名無し 2018/02/13(火) 19:19:34.34 0
レオポルトってスターリンみたいに人民代議員の97%を粛清したり
20代男性の人口を9分の1になるレベルの虐殺や戦争をしたの?

4: 名無し 2018/02/13(火) 12:54:45.30 0
超マイナーというほどかな?
下手すれば高校教科書に載っていそう。

130: 名無し 2018/07/17(火) 23:22:38.11 0
レオポルドも最初の動機は悪人じゃなかったんだがな……


3: 名無し 2018/02/13(火) 12:47:31.02 0
ハーバーとボッシュ
(アンモニアの人工合成法の発明者) 
これにより大量の化学肥料と爆薬の製造が可能に 
20世紀の人口爆発と世界大戦の創出者 

184: 名無し 2018/09/27(木) 22:30:28.45 0
>>3
ハーバーさんに比べてボッシュさんの影の薄さは異常
と思って調べてみましたら、ハーバーさんより超重要人物のうえ
人間的な深みも感じられる逸話などもあり
ちょっとビックリしました

ハーバーさんみたいに一般受けする
派手なエピソードがないと流行らないんでしょうねぇ

5: 名無し 2018/02/13(火) 13:01:30.99 0
高校理系化学履修者は知ってて当然だよ ハーバー・ボッシュ法
灯台受験生ならばその名を全員知ってるんじゃないかな

8: 名無し 2018/02/13(火) 18:36:12.78 0
バラスとかハーバーとか、そんな有名人の名を挙げるとはどういうつもりか。

12: 名無し 2018/02/13(火) 21:40:19.18 0
>>8
世界史に残る偉業をなしとげた人物なのにマイナー
偉業を成し遂げた人物は当然有名なわけで
つまり矛盾するから視点によっては有名人が挙がるのは仕方ない

10: 名無し 2018/02/13(火) 19:55:37.40 0
述律皇后
耶律阿保機の皇后。八部大人を抹殺して耶律部の独裁を確立したのも、
渤海を落したのもすべて皇后の謀略による。
阿保機自身は渤海を落してすぐに崩御しており、
大興山脈以西の版図はすべて、皇后が自ら戦陣で馬を駆って平定したもの。
事実上、遼の実質的な建国者である。

ホエルン
夫のイェスゲイ亡きあとボルジギン氏を率いる。
ジャムカを破って覇権を確立した十三翼の戦いもチンギスではなく
指揮を執っていたのはホエルン。

睿智蕭皇后
南征軍を起こし澶淵の盟を結び、遼の北宋に対する優越性を確立する。
史書では三軍を統率していたのは睿智蕭皇后だと明記されているのにも関わらず
なぜか教科書では聖宗の功績にされている。

三娘子
アルタン・ハーンの王妃。
騎射を得意としアルタン亡きあともトゥメトの首領を率いて
オイラート部の覇権を維持し
明からは宣府、大同、甘粛に至るまで20年間、
兵を用いる必要がなかったと称される。

女の軍事指導者というのは
どうも学者の女性像からは大きくかけ離れてるらしく
大抵その功績は夫か息子か
もしくは最初からなかったこと扱いされることが多い。

13: 名無し 2018/02/13(火) 22:10:53.76 0
シャナクダケト
紀元前2世紀以降
それまで女王が基本的に存在しなかったスーダンには
「カンダケ」の称号を持つ
女王たちが相次いで出現したが、その初代に当たる人物。
自らを「ラーの息子」と称し、レリーフには武装して描かれているが
同じカンダケで後にローマと衝突
するアマニレナスも武名で知られた。
『ナショナル・ジオグラフィックス』は
世界史上の偉大な女王50人の1人に挙げている。

けっこうな偉人だと思うのですが、
スーダンの歴史自体がエジプトのおまけのような扱いを受けている
せいか、某やる夫聖杯戦争スレで初めて知りました。
同じスレで>>10の述律皇后やティン・ヒナンも出ていて
初耳ではなかったものの感心。

11: 名無し 2018/02/13(火) 21:25:08.18 0
ムカリ ボオルチュ チラウン ボロクル
ジェべ ジェルメ クビライ スブタイ
いずれも四駿四狗でチンギスハンの優秀な側近

15: 名無し 2018/02/13(火) 22:32:52.86 0
倪瓚(げい・さん)(1301-1374)
字は雲林。元末明初の文人。
富裕な家に生まれて仕官せずに風雅を事としていたが、後に
混乱の中で52歳にして故郷を離れ、74歳にして帰郷し、親戚の家に没した。
山水画で後世に名を残した人物であるが、彼ほど渇筆を利用して描いた人物も珍しい。

余白を大胆に使用して空間と水を表現したが、
そこに現れたのは水を見て水を欲するほどに乾いた世界であって、
花鳥はおろか人物すらまず描かれることがなかった。

近代日本の文人画家である長井雲坪(死後、夏目漱石が評価)は
山水に人物を描き込むことを好まず、
頼まれれば後姿の人物を一人描いたというが、
倪瓚の場合は人物を描いた作品は一点だけであり、
誰も居ないことを指摘されると
「この世に人間というものがいたとは知らなかった」
と答えたという逸話が残されている。

文人画家というのは近代に至るまで変わり者が多いが、
倪瓚は極度の潔癖症であり、例えば客が庭にあった桐の木を汚した際には、
根元から切らせたという。
孤高の気を漂わせた彼の絵は、絵の境地は真似がたいものであるが、
後世惹かれる者が多く、贋作も筆意に倣った作もおびただしく作られ、
影響は現代東洋画にも及んでいる。

16: 名無し 2018/02/13(火) 22:56:18.06 0
日本史の話になって恐縮だけど物部氏永
国衙軍や後に武士へと発展する軍事貴族が台頭する遠因を作った人物
なのに教科書や概説書では何故かスルーされがち
奇しくも同年新羅で反乱を起こし後三国時代のきっかけを作った哀奴、
元宗とはえらい違いである

18: 名無し 2018/02/14(水) 05:56:50.60 0
王維(699~759or701~761)
詩人として著名な人物ではあるが、
マイナーなのは彼の偉業の内、文人画の祖としての絵画面である。
文人画とは、要は職業画人の絵に対する、
文人が詩の素養と書の技能で以て描いた絵を意味する。
王維が詩・書・画の三者(この三者に秀でた人物を三絶と呼ぶ)
に秀でていたからこそ可能となった技であり、
山水画の皴法の一つである披麻皴は、彼の創案にかかるという。

実に器用な人物であり、音楽にも詳しく、
どんな曲を演奏しているのか分からない絵を入手した人がいた時、
王維に見せるとたちどころにどの曲のどの場面かを言い当てた
という逸話が残されている。

後世、文人画は技量以上に感性と閃きで魅せる絵であると言われたが、
技能的にも優れた面を発揮して
「(気韻よりも)技巧に走り過ぎている」
と却って批判されたほどであった。

残念ながら、
宋代にはまだあったらしい王維の絵は(真作らしき物は)現存しない。
阿倍仲麻呂と懇意にしていたことから、
彼が帰国していれば貰った絵を持ち帰って日本国内に伝えていた
可能性もあるが、帰国が叶わなかったのは周知の通り。

同様に絵画面での偉業が知られない人物に、与謝蕪村がいる。
かつては俳人蕪村を知る者が画人蕪村を知らず、
画人蕪村を知る者が俳人蕪村を知らぬことがあった。
しかし、今では俳人蕪村の方が著名であろう。
文人画を能くし、また俳画を極めた偉人である。
「偉業を成し遂げたのに知名度に繋がっていない」
という意味で挙げた。

19: 名無し 2018/02/14(水) 06:12:22.73 0
韓志和
唐の穆宗に仕えたとされる日本人。
鳥の木彫りが得意であったが、
内部にカラクリをとりつけると鳥は百尺も飛び上がり、
彫ったのがネコであれば、ネズミやスズメを捕らえてみせたという。
足を踏み入れれば竜の姿が現れるカラクリを披露した際には
皇帝を驚かせてしまい、その謝罪として蜘蛛の集団の細工を披露、
これは涼州舞を舞って見せ、勿論ハエも捕らえて見せた。
皇帝は喜んで褒美を下賜したが、それらは人にやってしまった。
終わる所を知らずという。

金剛三昧
晩唐の随筆『酉陽雑俎』に、著者の知人として名を挙げられた日本人の僧侶。
中天竺を二度訪問してナーランダー僧院で玄奘三蔵の壁画を見たといい、
四川にも足を運んでいたという話が書かれているが、
日本側に記録はなく、伝記は不明である。

霊仙三蔵
興福寺の僧侶で、最澄や空海と共に唐に入り、
後に日本でも珍重された『心地観経』の翻訳事業に参加、
皇帝から訳経僧の称号である「三蔵法師」を下賜される。
玄奘が最も有名であるが、同じ称号を持つ僧侶は複数存在する。
しかし、日本人で中国皇帝に認められた三蔵法師は、霊仙だけであった。
最後は名声を妬まれて毒殺されたといい、
円仁の『入唐求法巡礼行記』に記録が残されている。

20: 名無し 2018/02/14(水) 21:09:23.95 0
奝然(938~1016)
平安中期の僧侶。
東大寺に入って華厳宗・三論宗を学び、また真言宗も学んだ。
972年、友人の義蔵と
「愛宕山に一大伽藍を建立し、仏法を興隆せしめ、
 死後は兜卒天に転生して弥勒菩薩の弟子となり、衆生を救済しよう」
という誓いを立てる。
それから11年後、呉越国を経由して宋に入り、太宗に拝謁。
よくネットでここだけコピペされている
「宋の太宗が日本では王朝が途絶えていないことを聞いて嘆息した」
という逸話は、この時のことである。

中国ではすでに廃れていた『鄭注孝経』等を献上し、
紫衣と旅費・物品を与えられて文殊菩薩の聖地である五台山(清涼山)に巡礼。
巡礼後に都に戻って太宗に再度拝謁すると法済大師の号を授けられ、
完成したばかりの勅版大蔵経5048巻を始めとした経典を下賜されると、
帰国の途に就く。
当初は中天竺までの巡礼をも考えていたらしいが
現実不可能と判断されたらしい。

台州で印度から伝来した「生きた釈迦を写した」という像を模刻するよう
工匠に依頼、完成した像を携えて帰国すると、
天皇・貴族に歓迎される中、愛宕山に念願の大伽藍建立を企図した。
しかし、延暦寺の反対により頓挫。
東大寺別当に上るものの計画は果たせず
代って没後に弟子が愛宕山下に新寺を建立した。
五台山(清涼山)を意識した寺の号は、五台山清涼寺。
宋の工匠によって手がけられた本尊と共に現存する同寺は
現在浄土宗に属している。

22: 名無し 2018/02/15(木) 06:17:35.75 0
>現実不可能と判断されたらしい。
現実的に不可能、の間違いです。失敬。
高岳親王、栄西、明恵らも中天竺行きを計画して果たせませんでした。
明恵に至っては道中の日数まで計算して実現出来なかった。
もっとも明恵が天竺行きを諦めた年には、
ヴィクラマシーラ僧院がイスラーム勢力により破壊されており、
その10年前にはナーランダー僧院も破壊されていたので、
この時期には就学ではなく聖跡の巡拝が目
的になっていたとはいえ、行っても居づらかったでしょう。

25: 名無し 2018/02/15(木) 19:13:08.87 0
インドと中東の学者全般
教科書に載ってるのってイブン・スィーナーぐらいか?

27: 名無し 2018/02/15(木) 20:15:27.25 0
>>25
こういうスレで真っ先に挙げられるのはラマヌジャンでしょうか。
かつては扁鵲と並び称された名医の耆婆(ジーヴァカ、ジーワカ)も今やマイナー偉人。
マキャベリは有名なのに、『実利論』の著者に仮託されたカウティリヤは無名。

学者では初期の進化論者であるウォレス(ウォレス線に名を残す)
感染防止のための手洗い
を主張したゼンメルヴァイスも功績の割に無名。
ゼンメルヴァイスと同時代人のナイチンゲールは
当時の常識通りに包帯を使いまわしていたところ
感染したせいでナイチンゲールが来る前に放置されていた頃より兵士が死亡
統計の結果、自分に問題があることに気付き、
新規の包帯を大量に用意する様かけあっています。

1、原因を数字で突き止める 
2、自分に問題があったことを認める 
3、物資を全力で確保する
これを全部やったところが、ナイチンゲールのナイチンゲールらしい偉業。
運もありますが、ゼンメルヴァイスの中身がナイチンゲールなら、
あんな最後は遂げずに済んだ
やもしれず、その辺りが同じ偉人でも知名度を分けたと言えるかも知れません。

子供向けの伝記小説・漫画にするにしても、救いが無さ過ぎる。

75: 名無し 2018/03/05(月) 17:40:47.01 0
>>25
今年受験生だったけど他にもかなりいるぞ
イブンルシュドとかイブンバットゥーダとか
センター試験にもラシードゥッディーン出てたし

28: 名無し 2018/02/16(金) 06:07:16.92 0
牧谿
日本限定の中国の偉人、というややこしい人物。
13世紀後半に活躍した禅僧であり、水墨画で名をなしたが、
その作品は線を用いない没骨という描法を用いた物であった。
中国では画の六法といって踏まえるべき六つの要諦が存在していたが、
牧谿の作品は穏当に過ぎ、かつ筆跡による感情表現に乏しかったことから、
六法中最も重視された「気韻生動」に欠けるところありとし、
中国では重んぜられなかった。

ところが、ちょうど禅文化を輸入していた日本では
牧谿の作品がおおいに好まれた。
元々日本では掛軸と言えば仏画・神画の礼拝用であり、
観賞用には屏風や絵巻が用いられていたのだが、
日常生活の万事に仏道を見出す禅宗の影響で、
山水や花鳥、禅宗史上の人物の姿も掛軸で鑑賞されるようになっていた頃であった。
温雅な作風が、画の六法について知られていなかった
日本人の好みに合致したのである。

足利将軍家では、夏珪や梁楷と並んで最上級に位置づけられ、
模倣する画家が続出した。
ただの後追いではなく、
実力も見識もある一流の画家も牧谿の作品を意識した作品を残した。
漫画『へうげもの』には牧谿の作品や名前が何度か登場しているが、
主人公古田織部が俵屋宗達に対し「いまだ牧谿の模倣」と言っていたのは、
その影響の甚大さを前提にしている。

全ての画家があからさまに模していたわけではないが、
意識するなというのは
「永井と富野を連想させることなくロボットアニメを作り、
 かつ名作化せよ」というくらいの難題であった。
現在、作品の多くは日本に伝存しており、
日本向けに明から贋作も輸出されたと考えられている。

近代日本で最も上手い日本画家である竹内栖鳳
(弟子の上村松園や、同時代の横山大観よりもマイナー)
は画室に牧谿の竹雀図の複製を掛けていたが、
雀図を得意としていた彼ですら、
牧谿ほどに上手い雀を描くことは容易ではないと、自ら述べていたという。

33: 名無し 2018/02/17(土) 06:35:02.92 0
国友一貫斎(1778~1840)
江戸後期の銃工。京都新聞の連載小説で主人公を務めたこともあるので、
同紙の読者にとってはマイナーでもないか。
ロシアやイギリスの船が日本近海に出没する緊張した時代
西洋の知識を貪欲に吸収し
オランダ製品を調べた上で改良した空気銃を製作したこと、
硝石の不足を懸念しつつロシアの樺太襲撃に悩んでいた幕府の命を受け、
鋼鉄製の弩を製作したこと
銃の製法を公開した上で規格化したことが、武器に関する主な功績である。

空気銃を製作した際、充填する空気から
「空気に重量がある」ことに気付いた最初の日本人ともいう。

彼の空気銃は、最終的には20連発が可能な性能となっていた。
また倍率60倍の反射望遠鏡を製作し、月面等のスケッチを残したことから、
小惑星の名前にもなっている。
実際に飛ぶような構造ではなかったが、
グライダーのような飛行機械の図面も残していた。

スケッチも含め画力も優れていたらしく、
彼の肖像画は、彼が自分が描いた鷹が絵から飛び出したという夢を見たので、
絵師の山縣岐鳳に描いて貰った物である。

同時代人の久米通賢(1780~1841)も
空気銃を含む技術者としての成果を出した有能な人物。
1815年に中国の兵書からホイールロック式の銃を考案し、
1839年には雷管式の銃も開発している。
しかし、戦後の平和教育の影響か、
この二人が「郷土の偉人」とされる場合でも
銃器関係は等閑にされている気がします。

35: 名無し 2018/02/17(土) 16:54:43.61 0
ヘンリー・キャヴェンディッシュ(1731~1810)
イギリスの化学者であり、両親とも父が公爵という名門に生まれた。
家柄相応の莫大な遺産を相続しており、英国有数の資産家であったため、
引きこもって好きな研究に熱中することが出来る環境にあった彼は、
生涯に多くの重要な発見をした。
水素やアルゴンの発見、シャルルよりも早いシャルルの法則の発見、
オームよりも早いオームの法則の発見などである。
しかし、極度の人間嫌いであり、人と会っても会話をしない程であったため、
彼の研究成果の多くは死後に発見されたものである
(応答は基本的にジェスチャーや筆談)。
とにかく変わり者であり、以下のような逸話が伝えられている。

(仲良くしている夫婦を見て)「あれは何をしているのか?」
(肉は羊しか食べなかったが)「羊は何本脚があるのか?」
(死の前に告解僧を呼ぶことを勧められて)「僧とはなんだ?」

係累のジョン・キャヴェンディッシュ(?~1879)も
極端に風変わりな人物であった。
父が死ぬと十年の歳月と莫大な遺産の一部を費やして
屋敷の地下に一大空間を建設、中心には100m四方を超える居室があり、
一角にはどういう訳か古い髑髏が飾られていた。

主のジョンは常に仮面をつけており、死んだ時にも仮面を外させず、
そのまま葬られたという。
地下空間からは五十以上の出入り口が伸びており、
出しぬけにどこからか現れると使用人たちに命を下したり、
なまけているのを叱責していた。

また地下室から直接馬車を繰り出させてロンドンへ行ったが、
その際従者たちは馬車を置き去りにして一旦立ち去り、
また迎えに来なければならなかった。
主がその間どこで何をしているかは誰も知らず、
そもそも窓も閉められているので、
主が本当に馬車の中にいるのかすら分からなかったという。
貴族院議員であったが、議会にも顔を出さなかった
(こういう人は結構いたらしいが)。

182: 名無し 2018/09/26(水) 23:17:48.92 0
>>35
ちなみにヘンリー・キャヴェンディッシュさんは
日本国の高校の教科書にけっこう載ってるんじゃないかと思うので
あんまりマイナーな感じはしないっすねぇ

実は本人が作っても計算してもなかったというのは驚きでしたがww

36: 名無し 2018/02/17(土) 16:56:24.92 0
数学者の岡潔(1901~1978)も、天才と変人で著名な人物。
突然道端で数式を書き出す、くらいならよくある行動であるが、
滔々と喋り出しもした。

ネクタイは締め付けるので嫌い、
着物を着ても帯で締め付けるのは嫌い、革靴も嫌い。
天皇陛下の御前に革靴を履いていかせるのに
家族が必死になったという、5歳下の本田宗一郎のような逸話がある。

広島で教鞭をとっていたことがあるが、
ある日精神を病んで突発的に強盗
(複数の中学生から所持品や自転車を奪う)
を働いて外で寝ていたのを逮捕され、療養生活を送ったことがあった。

数学の問題に熱中しすぎたためともいう。
療養させてくれたのは、雪の結晶で有名な一つ上の友人である中谷宇吉郎。

憂国者であり、
神代には健康的であった日本人の精神が
大陸文化の影響で衰えてしまったという持論を展開していたが、
山崎弁栄(これも変人)の思想に帰依した、熱心な仏教徒でもあった。

しかし、大学へ行く途中にあった石の地蔵に石を投げるのが日課であり、
当たればそのまま行き、外れると帰って休講にしてしまっていたという
(真偽不明とも)。

ある講演に呼ばれた際には、呼んだ方が待ち合わせ場所を間違えてしまい、
相手が間違えていることには気付いたが
「正しい側が間違った側に合わせることはない」
とそのまま帰ってしまった。

39: 名無し 2018/02/17(土) 17:47:47.71 0
>>36
ドラマ化される程の超メジャーな有名人

43: 名無し 2018/02/18(日) 21:27:28.55 0
航海で思い出したので。
ロドリゴ・デ・トリアナ
コロンブスの「アジア航路」探索の航海で使用された三隻の船の内、
ピンタ号に乗っていた人物。
初めて陸地を見つけた人物に褒賞を出すと約束していたコロンブスは、
ピンタ号の合図の大砲の音により、
「あと三日で陸地が見つからなければ引き返す」
という約束は守らなくてもよいことを悟った。

コロンブスが「あと3日」と約束したのは10月10日、
発見は11日の午後10時、確認は12日の午前2時。

まさにぎりぎりの所であり、どの道ヨーロッパ人により
「新大陸」は「発見」されたであろうが、
コロンブスが失敗していれば、
細かいずれが大きな流れを変えていた可能性もあろう。
アメリカの人工衛星ディスカバーの初名はトリアナであり、
同名の競走馬も存在する。

コロンブスたちは「発見」の前に、
人工物にしか見えない杖が流れているのを見つけていた。
それで士気が上がったようであるが、
まさか流した当人もそれで地元が悲惨な目に遭うとは思うまい。

50: 名無し 2018/02/19(月) 21:05:05.61 0
生物学者なら

岩崎卓爾
30歳で気象台職員として石垣島に赴任、69歳で死ぬまで石垣島の自然を研究
イワサキクサゼミなどその名がつけられた生物多数

堀川安市
32歳で台湾へ渡り自然を研究するも
63歳で終戦を迎え財産を失い研究成果も台湾に残したままいち引揚者に
しかしそこから96歳で亡くなるまで長崎の貝類を研究

51: 名無し 2018/02/19(月) 21:44:55.20 0
藤原実方

平安時代中期の貴族。
百人一首の
「かくとだに えやはいぶきの さしも草 さしも知らじな 燃ゆる思ひを」
を読んだことで知られる。

あるとき宮中でほかの貴族と口論のすえ、彼の冠を放り投げる。
それを帝に見とがめられ、陸奥の国に左遷されてしまった。

死後にスズメに生まれ変わり、
出世できなかったことを恨んで宮中の米を食い荒らしたという。

なんてみみっちい…
天神さんくらい、壮大な祟りをなせないものか

52: 名無し 2018/02/19(月) 22:31:13.37 0
>>51
恋の熱さを灸に喩えたのが面白い歌ですね。
百人一首には上手い歌なのに入っていないという意見もありますが、
文屋康秀といい、春道列樹といい、
上手さ(定家基準ということもある)以上に「外せない歌」を入れています。

『源平盛衰記』にある話ですが、
死因は道祖神を侮ったことへの神罰というものでした。
出典が同じ話で、物部守屋は死後啄木鳥となって寺をつついたとされています。
当時の鳥の性質の起源に関する伝承を取り込んだものでしょう。
実在する入内雀(ニュウナイスズメ)は、
秋になると東北地方から南下するそうです。

なお、喧嘩を売ったとされるのは日記『権記』の記主であり、
三蹟でも知られる藤原行成。
父の藤原義孝も百人一首に歌が収録されており(因縁のある右近の歌もある)、
日本初の往生伝である
『日本往生極楽記』に往生人として記載される、知る人ぞ知る人物でした。
義孝は兄の挙孝と同日に病死して両親を嘆かせていますが、
行成は藤原道長と同日に死んだせいで
ほとんど注目されたなかったという話があります。

慶滋保胤の『日本往生極楽記』は
源信の『往生要集』、源為憲の『法華経賦(現存せず)』と共に
宋の有志宛てに送られたものの、流布はしなかった様ですね。
保胤の父の賀茂忠行は陰陽師で、弟子が安倍晴明。
本レス中、知名度が高いのは晴明と源信くらいなのが残念なことです。

53: 名無し 2018/02/19(月) 22:40:40.54 0
アッラー・ヴェルディハーン

サファヴィー朝のシャー・アッバースの忠実なるグラームの将軍
グラームとはサファヴィ版イエニチェリみたいなもの
アッバースの黄金期を支えた将軍でイスファハーンに彼の建設した橋が残る
この橋はアッラー・ヴェルディハーン橋もしくはスィー・オ・セ橋と呼ばれ
世界で最も美しい橋として知られている

54: 名無し 2018/02/20(火) 05:49:21.55 0
釈迦の妻子
まずヤショーダラーとラーフラ、この二人は有名。
マノーダラー:詳細不明。死別か別居かは不明であるが、
釈迦出家時には城内にいなかったらしい。
ゴーパー:美貌で知られた釈迦族の娘であるが、
釈迦が成道後に帰還した頃には亡くなっていた。

ウパマナ:釈迦の息子
スナカッタ:釈迦の息子とする説もあるが
釈迦の教えに反逆した人物として知られている。

以上は出典により異なる。
とりわけ妻については三人とする複数の文献があるが、
名前は一致しないものが多い。
祖父の代に現在のアフガニスタンあたりに移住し、
更に本人が中国に移住して鳩摩羅什と問答したという仏駄跋
陀羅は、釈迦の父の子孫であるというが、釈迦の子孫とはされていない。
事実とすれば釈迦の異母弟の子孫であろう。
少なくともナンダという人物がおり、本人も妻も美貌であったという。

58: 名無し 2018/02/22(木) 07:40:28.95 0
文天祥も日本ではマイナーよね
政治家では緒方竹虎とか

60: 名無し 2018/02/23(金) 03:47:33.57 0
>>58
昔の日本では文天祥は常識的知識だった
文天祥に習って「正気の歌」を自作した人も多い

第二次大戦後になってから文天祥が日本人の常識の範囲から外れた
太平記と同じ

昭和の軍人達が「正気の歌」を信奉してたのがまずかったのだろうな

62: 名無し 2018/02/23(金) 19:49:51.15 0
>>60
>文天祥に習って「正気の歌」を自作した人も多い
藤田東湖の「和文天祥正気歌」は歴史上の「英霊」を謳い上げ
死しても護国の鬼となることを述べたもの。
文部省の『国体の本義』にも引用されたもので、
靖国神社の「英霊」と典拠と考えられています。
国のために殉じた死者を顕彰することは、
儒教の影響下に成立したものと考えるべきでしょう。

謝道清(1210~1283)
宋の理宗の皇后。生まれた時は色が黒く片目が見えなかったが、
後宮に入ってから病にかかり、本復すると
同時に色は白くなり、目も見えるようになったという。
賢明な人物で、皇后に立てられてからも皇妃たちに嫉妬することはなかった。
ちょうどモンゴルの脅威が迫る頃であり、
理宗は遷都も考えていたが、皇后に諌められて取りやめている。

理宗が60で崩御すると皇太后に、
跡を継いだ甥の度宗が35で過度の飲酒により崩御すると太皇太后となり、
恭帝が5歳に過ぎなかった為、摂政を務めた。
その直後、「百雁来たりて宋滅ぶ」という予言の流行していた宋に
元将伯顔(バヤン)が襲来。
つまり、百雁=伯顔が襲来したのである。迎撃した宋軍は大敗した。
かくして、宋の運命は謝氏に委ねられる。
彼女は三日間江海に祈り、いっそ栄華全てを押し流して空虚にして
欲しいと望んだが、波涛が変わるはずもなく、
降伏を決意せざるをえなかった。

国家としての体面に拘る文天祥(謝氏が降伏交渉のため右丞相に任命)の要求を、
バヤンは拒絶。
他の宋の臣はただ要求を持ち帰るばかりであった。
「臣妾謝道清」。
宋朝最後の太皇太后にして摂政が行った、
屈辱的な降伏文書への署名の名義である。
かつての皇帝、皇太后、太皇太后は大都に送られることになった。
謝氏は心労で出発が少し遅れたという。
謁見後、元朝から寿眷郡夫人に封ぜられ、74歳で波乱に満ちた生涯を終えた。

59: 名無し 2018/02/23(金) 02:15:34.92 0
ソフィア
イヴァン3世の妻 最後のビザンツ皇帝の姪

64: 名無し 2018/02/23(金) 22:37:08.25 0
地保奴
フビライの子孫としては最後の元の大ハーンであった、
トグス・テムル(天元帝)の次男。
父と兄である天保奴がアリクブケ系のイェスデルに殺され、
地保奴が洪武帝によって琉球に流された
ことで、フビライ系の皇統は断絶した。
ここでいう「琉球(明代に定着した表記)」は
台湾とする説もあるが、沖縄だとすれば
沖縄県内でフビライの子孫が続いているのかもしれないという話になる。
なお、大琉球が現在の沖縄、小琉球が現在の台湾を指した言葉である。

66: 名無し 2018/02/25(日) 20:12:33.03 0
南インドからもどうぞ一つ

67: 名無し 2018/02/25(日) 21:33:23.01 0
ラージャラージャ1世

チョーラ朝の王で南インドを征服し、スリランカへも遠征した
チョーラ朝の偉大な王として知られ、
その栄光は戦利品で作られた
タンジャーヴールのブリハディーシュヴァラ寺院に残る

68: 名無し 2018/02/26(月) 16:52:41.38 0
インドネシアまで勢力伸ばしてたね
あと東チャールキヤ朝と婚姻合体

70: 名無し 2018/02/28(水) 20:33:45.74 0
要離
呉王の臣。
主が王子慶忌を殺めたいが手段が無いと悩んでいた際、刺客に立候補した。

呉王は
「かつてわしが六頭立ての馬車で追ったが追いつけず、
 矢をあるだけ射たが当たらなかった。
 お前は剣を振るおうにも持ち上げられず、
 車に乗ろうにも軾を登りきれぬではないか。
 なんで刺客が務まろうぞ。」
と言ったが、要離は退かなかった。

「士は勇気のないことを憂うだけで御座います。
 なんで力の及ばぬことを憂いましょうや。王が誠意を
 以てお膳立てをして下さるのであれば、臣は達成して御覧にいれましょう。」

そこで翌朝、要離の要求通りに彼を追放し、妻子を火刑にして灰を揚げた。
要離は衛に亡命していた慶忌の所に駆け込み、信用を得てから
「呉王の無道は甚だしいものです。
 帰国して王位を奪われるべきでしょう。」
と進言、信用した慶忌はこれを受け入れる。
そして帰国途中、
要離は大河を渡る船上でやおら剣を抜き、
慶忌を刺したのであった。

慶忌は全てを悟ると要離をつかみ、水中に投げ入れて言った。
「汝は天下の国士である。生かして名を成さしめようではないか。」
帰国した要離を呉王は歓迎して国を分け与えようと言ったが、要離は死を望んだ。
「妻子を殺して不仁。形式とはいえ仕えた主を殺して不義。
 殺した相手に救われて恥をかいて、
 この三つを得た身で、生きてはおられません。」
遂に自刃して果てた。

以上は『呂氏春秋』によるが、『呉越春秋』によれば、
要離を刺客に推挙したのは伍子胥であった。

かつて斉王の使者として呉に赴いた椒丘欣という者がいて、
途中で水神を倒して驕り、呉の人々を
あなどる振る舞いがあったが、要離は
「馬を失い、御者を失い、片目を失って勇を誇るのか。」と言い、
怒った椒丘欣が報復に赴いたが抵抗もせず
「最初に恥をかかされた時に報復せず、堂に入る前に入ることを伝えず、
 相手が剣を抜いていないのに自分だけ抜いて勝ち誇った」
という三つの不肖を述べたので、
椒丘欣は「天下の国士」であると讃嘆したという。

71: 名無し 2018/03/02(金) 08:30:05.13 0
明治・大正時代の成金とか面白そう

91: 名無し 2018/03/18(日) 11:18:30.11 0
>>71
中居屋重兵衛さん

たぶん日本で始めて天井式の水族館をつくった

94: 名無し 2018/03/20(火) 22:48:13.68 0
>>91
天井をガラスの水槽にして金魚を泳がせたのは、淀屋辰五郎が最初でしょう。
中居屋の方が金魚の品種改良が進んでいて見栄えはしたでしょうが。

148: 名無し 2018/08/13(月) 11:11:12.89 0
>>94
めっちゃ今さらですが
訂正ありがとうございました

こういうの調べるの難しいので
ネットのいいところですねぇ

152: 名無し 2018/08/13(月) 22:44:29.52 0
>>148
勿論最後は書籍で確認しないといけませんが、便利になりましたね。

72: 名無し 2018/03/02(金) 18:24:51.89 0
ゼウクシス
小アジアに生まれ、古代ギリシャ文化圏で活躍した画家。
師のアポロドロスは陰影の技術で知られ、
ゼウクシスも本物そっくりの絵を得意としたとされる。
マケドニア王アルケラオス1世は不正な手段で王位に就いたことを
プラトンに批判された人物であったが、内政を整備し、
都をアイガイよりぺラに移し、多くの文化人を王都に招聘するなど、
業績は名君と言いうる物であった。
ぺラの新宮殿の壁画を描いて名物としたのが、
当時高名であった画家のゼウクシスである。

パラシオスもまた高名な画家であったため、後世に二人の画力争いの逸話を生んだ。
ゼウクシスが自分の作品を持参したところ、葡萄の絵であったが、
小鳥が下りてきて啄ばもうとしたというくらい迫真の出来であった。
ゼウクシスは勝ち誇り、パラシオスに対し、
早く絵に掛けられた布を取るように迫った。
しかし、その布は描かれたものであったという。
目を欺かれたゼウクシスの負けであった。
不面目な逸話ではあるが、
それでもルネサンス期にはアレクサンドロス大王時代の画家である
ニキアスと共に讃えられている。

74: 名無し 2018/03/05(月) 11:55:37.78 0
シャカ ズールー
南部アフリカの一部族であったズールー族を
南アフリカの大半の部分を支配する一大国家へと導いた指導者である。
彼の軍事力と戦略、敵を殲滅し生存者を部族に同化させていく力量は
ズールー族の中でも抜きん出たものがあった

76: 名無し 2018/03/05(月) 17:43:17.08 0
個人的にはリチャード3世
薔薇戦争終結させたのにほとんど教科書触れてなくてかなc

77: 名無し 2018/03/05(月) 17:59:31.38 0
リチャード3世はシェイクスピア劇に取り上げられたことで
業績を超えてメジャーな存在になってると思うが

78: 名無し 2018/03/05(月) 23:21:46.78 0
その流れだとエドワード六世
ねーちゃん達はあれだけ有名なのに

80: 名無し 2018/03/06(火) 03:18:44.52 0
>>78
エドワード6世は教科書乗ってるんや
百年戦争開始させた人物やろ??

81: 名無し 2018/03/06(火) 03:19:44.03 0
>>78
ごめん勘違いしとった
ヘンリ8世の息子か
どっちにしても教科書にはでかでか乗っとるわ

79: 名無し 2018/03/05(月) 23:31:11.48 0
プタハヘテプ
古代エジプト第5王朝の宰相。
後世賢人として知られたためか、
彼と同一人物と思われる名前を冠した教訓集が、
第12王朝や第18王朝でも編纂されている。

わが子に与える教訓という形をとっており、
「無教養で卑怯な人と論争して怒ったりせず、
 彼自身に任せておけば、彼は自分で自分を追い詰めるだろう(取意)」
という教訓は、現代のネット上での論争にも通ずるものがある
(『戦国策』にも大意として同じような文言があるが)。

勿論、現実における論争にも已然として言いうることである。
他の教訓もいちいち現代に通じるものがあり、
人間の生活の変わらなさを実感させてくれる。

82: 名無し 2018/03/11(日) 21:37:17.00 0
セオドア・モーデ(1911~1954)
アメリカの探検家。
第二次世界大戦中に中米で白の都(シウダー・ブランカ)と呼ばれる
幻の遺跡を発見したと主張。
遺跡は本人いわく
「最盛期には数千人が生活していたであろう」規模の物であった。
遺跡ではかつて奇妙な形をした猿の神が信仰されており、
壁にはその姿が彫られ、人身供犠もあったという。
第二次大戦後、場所を明らかにする前に急死した。

88: 名無し 2018/03/14(水) 00:29:18.04 O
耶律迭刺

契丹小字の考案者。遼の耶律阿保機の弟に当たる。
並外れた天才で有名だった。

ある時、ウイグルの使者がやって来た。
宮中ではあいにくウイグル語を理解できる者が誰もいなかった。
耶律阿保機の皇后は迭刺に白羽の矢を立てた。
迭刺は使者からウイグル語を学んだ。
恐ろしいことに、わずか20日でウイグル語を完全にマスターしてしまった。
発音だけじゃない文法も。
こんな生徒がいたら英会話塾は商売上がったりである。

迭刺の更に恐ろしいところは、
マスターしたついでに新しい契丹文字を作ればどうかと思いついたことだ。
阿保機考案の契丹大字があったけど、いまいち不便だった。
ウイグル文字をヒントに片手間で考案したのが契丹小字となった。

ただ、迭刺には欠点があった。この男、謀反大好き人間だったのだ。
4回謀反を起こしているが、
どういうわけかその度に「迭刺だから仕方ないね」と許されている。

93: 名無し 2018/03/19(月) 21:29:11.67 0
道祖王(ふなどおう)

奈良時代後期の皇族
聖武上皇の遺勅により、孝謙女帝の皇太子にたてられる。
だが「夜遊びが過ぎる」「国家機密を漏らした」
あげく「聖武帝の喪中に、お仕えの小姓とホモ行為をした」
ことなどを理由に廃嫡される

同年、宮中の独裁者だった藤原仲麻呂の排除を画策したクーデター計画が発覚。
道祖王はクーデターの首謀者だった橘奈良麻呂とともに捕えられ、
「まどひ」(惑い者)なる名に改名された挙句
棒打ち拷問で打ち殺されてしまった。


ホモで廃太子…

94: 名無し 2018/03/20(火) 22:48:13.68 0
>>93
四文字年号の採用などから
光明皇后に武則天の影響を指摘する説がありますが、
娘の孝謙天皇も武則天に影響されたのか改名好きでしたね。
天平勝宝は七年から九年まで年ではなく歳で表記されています。
和気清麻呂と姉が悪名に改名させられた話も有名。
かなり実力のある暴君です。

95: 名無し 2018/03/21(水) 05:01:53.22 0
キモい名前に強制改名って
かなり陰湿だよなあ(・ω・`)

97: 名無し 2018/03/21(水) 22:22:39.62 0
不破内親王

奈良時代後期の皇族
聖武天皇の皇女、孝謙女帝とは異母姉妹にあたる。

重祚した孝謙=称徳女帝を
「女帝の髪をドクロの中に入れる」
というおぞましい方法で呪った咎で
「厨真人厨女」(台所の飯炊き女)なる
恥ずかしい名に改名されられたあげく追放
ネット上で相手を「厨房」と呼んで罵る風習は、
まさにここに始まった…わけがない。

数年後に許され都に復すが、
その10年後に息子が謀反をたくらんだのに連座してまた追放される。
以後の消息は不明。

なお不破内親王の同母姉である井上内親王は、
伊勢の斎宮を20年間務めたのちに皇族の白壁王と結婚。
45歳という当時としては超高齢出産で他戸親王を生む。
夫の白壁王は天智天皇系、井上内親王は天武天皇系だったわけなので、
他戸親王は壬申の乱以来分裂していた両系統を融合させる
期待の星であったわけだ。

ところが白壁王が奈良時代最後の天皇・光仁天皇として即位したのち、
井上内親王は天皇を呪ったかどで
他戸親王とともに捕えられ、ほどなく母子ともに死去。
これは山部親王(のちの桓武天皇)の擁立をたくらんだ藤原氏の陰謀らしい。

桓武天皇が弟・早良親王の怨霊に苦しめられた故事は有名だが、
同時に井上内親王母子の怨霊にも苦しめられていたらしい。
こうして、怨霊に万全の対策をほどこした平安京へと都は移る。

現在、井上内親王は奈良県五條市の御霊神社で、早良親王とともに祀られている。
彼女が高齢出産したので、高齢出産の守り神だとか

98: 名無し 2018/03/23(金) 18:11:13.06 0
誰か欒大について書いてくれー
諸星大二郎の漫画で武帝の臣として出ていた

99: 名無し 2018/03/24(土) 10:53:02.89 0
欒大のウィキは日本版無
中文版より英語版のが詳しいな

でも英文から訳したら、登場人物や地名の漢字表記が解らん

100: 名無し 2018/03/24(土) 15:56:42.39 0
ああ、武帝の時代の。
最初に『漢書』を読んだ時には、粛清と詐欺だらけの時代で驚いたものです。
丞相だけでも獄死が三人、処刑が一人。
失敗して責任を問われて死んだ者、謀反人は不可勝計。
よく天下統一後の劉邦の時代が酷いと言われますが、
意味があまりなさそうでより酷いですよ。
対匈奴戦が有名ですが、朝鮮も含め、周辺国がしょっちゅう背いています。
徹底的に人望がない。

欒大
前漢の武帝の元鼎四年(紀元前113年)の夏に楽通侯・上将軍に任ぜられた方士。
翌年になって宝鼎が土中から得られ
水中から馬が出現するという奇瑞が見られた。
これに応じて宝鼎の歌、天馬の歌が作られている
(現代の歌以上に政治的・宗教的意味が重い)。
武帝に重用されたらしいが、翌年九月には腰斬の刑に処せられている。

武帝紀にあるのは、これだけですね。
『漢書』郊祀志にもあるようですが、今手元にありません。
以下は『史記』孝武帝本紀参照。
欒大はかつて方術を学び、
膠東王の尚方(古代に重要であった音楽を司る官)となった。
膠東王が代替わりすると、
子供のなかった先王の正妻は妾の子である現王とそりが合わず、
武帝に取り入るために弟を介して欒大を推薦した。
これより先武帝は方術に凝って李少君なる博学の者を、
彼が病死すると少翁なる者を重用していたが、
詐欺が発覚して処刑しており、後悔していたところであったので、
同門の欒大が来たことを喜んだ。
背が高く美丈夫で、話すことは謀計に富み、
大言して疑わぬ人物であったという。
彼は師匠が
「丹砂を黄金と化し、黄河の流れをせき止め、
 不死の薬を手に入れ、仙人を降ろす」法を知っていたと称し、
方術で双六の駒を戦わせ、四個の金印を生み出して信用を得た。

武帝は金印を帯びさせ、五利・天士・地士・大通の四つの将軍号を与えている。
屋敷は広大、家来は千人、武帝の公主は黄金万斤を持参して降嫁し、
車馬珍宝は満ち、貴紳は争って欒大を宴に招いた。
常に自邸で祭を行い、神はなかなか降りて来なかったが、百鬼はよく使役したという。
後に「師匠を探しに行く」と行って会いもせず、
会ったと出鱈目を言ったことが発覚して誅された。

101: 名無し 2018/03/24(土) 16:45:54.54 0
水中から馬が出現するという信仰は『河童駒引考』参照。
西遊記で竜が三蔵の馬になったり、
千一夜物語で海から馬が出て来たりしていますね。
『平家物語』の宇治川の先陣争いで有名な生喰は竜の、
磨墨は海驢の子であったと言います。

102: 名無し 2018/03/24(土) 21:53:25.36 0
そうか
諸星マンガで欒大がイケメンに描かれていたのは史実だったのか

106: 名無し 2018/03/31(土) 17:19:52.28 0
なぜかまだWikipediaに記載がなかったので。

李淳風(602~670)
唐代の人。出生地は岐州。本貫地は太原。
父は隋に仕えていたが地位は低く収入も見合わなかったため、
官を捨てて道士となり、自ら黄冠子と号して
『老子』に注を加えるなど文才があったという。
淳風も幼い頃から学才に富み、諸書を博捜して倦むことがなく、
特に天文・暦算・陰陽の学に精通していた。

貞観の初めに当時の天体観測が北魏の遺風で古くなっていることを奏上し、
太宗の命を受けて貞観七年に
銅製で三層構造になった天体観測機「渾天儀」を完成させる。
『晋書』と五代史の天文・律暦・五行志は、淳風が執筆したものである。
また、彗星の尾が、太陽とは反対方向に伸びることを発見した人物でもある。

さて、古代より天文観測と切り離せなかったのが占星術である。
当時の中国も例外ではなかった。
太宗の世に
「唐三世の後、女主武王が代わって天下をとる」という予言があり、
太宗も気にしていた。
後世に中国七大予言書の一つ『蔵頭詩』の作者とされた淳風とのやり取りは、
以下の通り。

淳風
「すでにその兆しは御座います。
 その人は陛下の宮中におり、今から三十年以内には天下をとり、
 唐朝の子孫を殺害してしまいましょう。」

太宗
「疑わしい者を、ことごとく殺してしまえばどうであろうか。」

淳風
「天命は避けがたい者で、王者は死なず、
 ただ無辜の者を殺めるばかりになりましょう。
 また更に三十年が経てばその者は老い、老いては慈悲を知る様になります。
 たとえ易姓に至るとも陛下の子孫を甚だしく損なうことは御座いますまいが、
 もし殺そうとなされば、怨んで厳しくなり、陛下の子孫を残しますまい。」

かくして、太宗は天下をとるという女主を殺そうとする計画を止めた。
武則天が周の皇帝として即位するのは、淳風の死から二十一年後のことである。

107: 名無し 2018/03/31(土) 17:25:18.01 0
>太宗の世に「唐三世の後、女主武王が代わって天下をとる」という予言があり、
 太宗も気にしていた。

あ、それ、ほんとの話だったんだ。

中国の大ヒット時代劇「武則天」(武媚娘伝奇)の全96話は、
いつも、その予言の話で長孫無忌たちが大騒ぎして、
モメにモメ続けるというストーリーだったよ。

李淳風の名は、あれを見れば嫌でも記憶に残る(笑)。