1: 名無し 2005/05/15(日) 23:04:31
暴君信長を誅した光秀は日本史上最高の人物でしょう。
光秀の再評価願う!
2名無し 2005/05/15(日) 23:45:52
日本史上最高かどうかはわからんけど 
でもやっぱり2ゲット。
5名無し 2005/05/18(水) 18:17:43
もっと明智光秀を評価するべきだ!
6名無し 2005/05/18(水) 18:21:44
真面目だけど陰気な男
9名無し 2005/06/21(火) 23:47:59
天王山 
物事の重大な局面を表わすときに使う「〇〇の天王山」ということばについて 
山崎の合戦で天王山は羽柴・明智の攻防の的になったのは確かだが
実際には秀吉軍の右翼方面の軍の層が厚く、これが明智の左翼を圧倒し
つまり斜線陣の形となって雌雄は決した。 
すると天王山は戦いの決定的な勝因にではないことにならないか。
10名無し 2005/06/21(火) 23:54:18
おい、天王山で光秀と秀吉の軍勢が争奪戦してないぞ 
秀吉の軍が天王山を先に占拠してたし
光秀の軍勢は淀城辺りでの迎撃しようとしてますが
11名無し 2005/06/22(水) 00:18:19
だから天王山は関係ないという話。
23名無し 2005/07/05(火) 11:34:56
山崎の合戦の際には既に近江一国を完全に掌握しており、 
丹波、山城、近江の兵(計130万石)を動員できた。さらに、 
上杉と対戦していた柴田程度に秀吉の行動が遅れれば、 
日和見の、摂津、河内、泉、大和、丹後の諸将、もともとが 
近畿管領的な立場の光秀の組下の立場なので、なびいただろう。 
それだけでも300万石だが、中央を抑えているので経済活動での実入りも多い。 
これだけ、実力差があれば、光秀の天下取りの確率は95%だろう。
13名無し 2005/07/04(月) 22:46:37
質問されて困ってます。
もし、明智光秀と真田幸村が合戦したら、どっちが勝ったんでしょうか?
14名無し 2005/07/04(月) 22:53:58
真田幸村が死ぬ気でやったら誰でも大怪我させられると思われ。
15名無し 2005/07/04(月) 22:57:07
明智光秀と石田三成とが重なる時がある。
8名無し 2005/06/08(水) 23:53:55
天海大僧正ですか
17名無し 2005/07/05(火) 00:53:21
天海が明智光秀と同一人物と言われた背景のひとつは、家光の乳母であり
三代将軍家光の時代に江戸城に君臨した春日局が
光秀の最側近の斉藤利三の娘だったことにある。 

天海と晩年親交があった藤堂高虎の養子・高吉(丹羽長秀の子)が
慶長十三年に名張に津藤堂藩の藩内領主として入城したが、
この名張藤堂家の家紋は桔梗紋である。
名張城の建っていた丘を「桔梗ケ丘」と呼び、
現在近くに近鉄の「桔梗が丘」駅があるが
これは天海・光秀同一説を裏付ける残照ではないか。
20名無し 2005/07/05(火) 01:53:14
やり方はどうあれ、信長に勝利したので、信長より評価は上だ。 
もし、毛利が和平に応じず、秀吉が、あれほど早く戻れなければ、 
明智の天下になっていた。 

21名無し 2005/07/05(火) 03:09:16
>>20 
わけが無い!
16名無し 2005/07/04(月) 23:05:07
はぁ?こいつのおかげで金喰い&無能な朝廷が存続し 
徳川体制による連邦国家になり 
おまけに国がひきこもって 
近代社会への移行を大幅に遅らせた。 

信長が生きて入れば 
天皇や皇族、貴族を断絶させ 
強力な中央政権を完成させ 
日本全体の技術革新や生活の質の底上げが実現し 
国際的な植民地政策全盛時代には 
東アジア~東南アジア一帯は日本の植民地に成っていた。 

資源を確保した日本はベルサイユ会議などでも 
対等にアメリカやイギリスと渡りあうアジア随一の国になっていただろう。
26名無し 2005/07/05(火) 12:12:51
>>16 
天皇家の断絶は無理だね。 
朝倉勢が叡山に寄り、信長は大軍を長期間、張り付けざるをえなくなり、 
八方ふさがり状態のとき、朝廷の仲介で和睦しているし、
本願寺勢との和睦でも天皇の権威が必要だった。 

馬揃えの威嚇で、天皇に自分の息のかかった親王への譲位をせまったが 
柳に風とばかりに受け流された。
24名無し 2005/07/05(火) 11:54:33
>>16 
ずば抜けた先見性、柔軟な思考、 
いいものは素直に受け入れる、こんなどえらい事が出来ても、 
最終的に、やり方が強引で 
家臣や庶民に不審や恐怖を与える独裁者のやり方では
長く天下泰平を維持できないという教訓を信長は後世の我々に教えた
25名無し 2005/07/05(火) 12:02:46
>>24 
本当にその教訓は現代に生かされているのだろうか? 
小泉氏を見ているとつくづくそう思うのである。 

すいません。 
ちょっと格好つけてみたかったんです。orz
27名無し 2005/07/05(火) 13:27:28
明智?足利義昭に踊らされた馬鹿
28名無し 2005/07/05(火) 13:42:51
>>27 
くだらない陰謀説に毒されているね。 
朝倉に仕えていた時は、あまりの朝倉のヘタレぶりに失敗したが、 
織田を太らせ、後で自分が乗っ取る作戦はうまくいった。 
織田の軍団長(畿内の軍を全て掌握)レベルの人間は、人に踊らされる 
ようでは務まらないよ。明智にすれば義昭は出世のための道具にすぎない。 
29名無し 2005/07/05(火) 21:15:31
本能寺の真相は秀吉に踊らされて、やっちゃった!って感じだと思う。 
なので秀吉ほ方が一枚上手っぽい。 
信長<家康<光秀<秀吉 
これに1票。
31名無し 2005/07/06(水) 17:22:50
踊らされるほど光秀は甘くないよ。 
下克上で天下をとるのに最良の条件がそろったので、 
天下取りを目指しただけさ。 
いつもは岐阜にいる信忠(すでに織田家の当主)、安土の信長が 
共に小勢で洛中に宿泊し、有力な武将が畿内に光秀しかいないという 
真空状態は、家康・義昭・秀吉が作り出せるわけもない。 

このようなチャンスがなかったら、今現在でも、 
近畿管領として絶対的な信頼を受けているくらいなので、 
天下統一後も織田家の執政的な立場を維持できたろう。 
33名無し 2005/07/07(木) 10:51:41
公家の日記に、信長を討つことについて光秀と談合した
という記述があるようだが
たまたま利害が一致したということでは?
34名無し 2005/07/08(金) 19:45:56
>公家の日記に、
信長を討つことについて光秀と談合した、
という記述があるようだが 

晴豊日記の別記に
斎藤利三について「かれなと信長打談合衆也」と書いてるのであって
立花のオバはんがいうような 
公家が光秀側と談合したという文章ではないよ 

これを額面通り読めば、斎藤利三が明智光秀の家臣で、
本能寺の変を画策した首謀者の一人と書いてあるだけ 
言経卿記でも似たような記述してあるよ 

ただ兼見卿記の別本では
吉田兼見が誠仁親王の意を受けて行動しているような節があるので 
朝廷関与は確実かとは思うけど
36名無し 2005/07/15(金) 12:35:39
明智光秀の最大の功績は、本能寺で織田信長を葬ったことであろう。 
しかしながら、信長が死んだ時点で、
光秀はその存在価値を失ってしまったのではないか。 

光秀が真に天下をめざしていたのなら
信長をもうすこしの間生き長らえさせておいて
信長の権威を最大限に利用しつつ
羽柴や徳川らのライバルたちの力を削いでおくべきだったろう。 

37名無し 2005/07/15(金) 12:41:52
本能寺の直前に領地を召し上げられていたので信長を利用するも何も...
38名無し 2005/07/15(金) 13:11:40
>>37 
領地召し上げは本当に事実なの? 
領地取られたら中国に出兵できないと思うんだが。
39名無し 2005/07/15(金) 14:19:05
>>38 
領地を召し上げは、俗説なのでご安心を。 
史料的裏づけはありません。 

>>36 
羽柴や徳川、滝川、柴田などはライバルとは思っていなかった。 
なにしろ、当時光秀は実質は近畿管領で、細川、筒井、摂津の諸将 
への上級命令権があり、近畿の行政、対朝廷工作、各地方方面軍への 
補給業務など、実質織田家を動かしていたのは光秀である。 

また、義昭を擁しての上洛後の最初の2、3年は、信長は京に滞在する場合、 
ほとんど明智邸に宿泊していたし、天王寺砦で玉砕の危機になれば、 
自身で手傷を負いながらも救出してくれる、大名にも真っ先に取り立てられるし、 
佐久間への折檻状でも功績第一と激賞され、信長は光秀に絶対の信頼を置いていた。 

光秀は、織田をある程度太らせた後で、自分が取って代わる(下克上) 
つもりだった(義昭をつかっての朝倉義景のかつぎだしには失敗)ので、 
ちょうどタイミングだと思ったのでは? 

羽柴の大返しが柴田なみに遅れていたら、光秀が天下人になっていたのは確実だ。
40名無し 2005/07/15(金) 14:30:11
>>39 
俺の妄想だが、佐久間信盛・林通勝の事件のあと、重臣の間には
「いつかは自分も同じ目に遭うのでは」
という不安感は共通してあったのではなかろうか? 

「自分が信長殺害に手を下すのは嫌だが、誰かがやってくれるなら歓迎する」
という空気はなかったのだろうか?
41名無し 2005/07/15(金) 19:11:33
林は兎も角、佐久間信盛の追放は 
織田家に対する影響力の大きさ、権限の大きさから排除されたと思うのだが 
美濃・尾張で織田家を除けば、一番の実力者だった訳だし


45名無し 2005/07/16(土) 02:07:55
安国寺恵瓊が言ってた通り
信長のやり方では光秀がやらなくともいずれ誰かに寝首取られたと思う。
信長の歴史的役目を背負ったサガみたいに俺は感じる。 

結局、天下統一への強力な意志と合理性と
権威や価値観に縛られず徹底的に敵を殲滅できた信長が
ある程度の地域をスピード進行し、 
人を纏めるのがうまい秀吉が後腐れなく残りをまとめ、
政治力のあった家康が最終的に丸くおさめたというのは、 
必然的な歴史の流れだったのではないかと思う。
42名無し 2005/07/16(土) 01:05:42
光秀ほどの才覚の持ち主が、前々より天下をうかがっていたならば
もう少し慎重に根回しができたはず。 

毛利・長宗我部・上杉らと語らい連携して兵を動かすとか
朝廷を動かし信長追討の勅状を仰ぎ大義名分が立つようにするとか
のちのちの事を考えて織田家の他の重臣を味方に引き入れておくとか
そういった事前のはたらきかけなしに謀反とはいかにも御粗末。 

裏切り者、卑怯者、大逆人のレッテル貼られてどの面さげて天下に号令できようか? 
事実、本能寺の変後に組下の細川や筒井にもそっぽを向かれている。 


44名無し 2005/07/16(土) 01:56:49
>>42 
禿同。 
その点があったから多くの小説家は光秀をノイローゼ気味に描いて
本能寺の変を発作的のものにしてる。 

てか、自分の推測を断定調に語るのはやめよう。 
49名無し 2005/07/16(土) 02:30:27
>>42 
秀吉の大返しなんて奇跡のようなものなのだが。 
光秀はそういう事態は10%もないだろうと思っていたに違いない。 

①本能寺の変を毛利が知れば、講和は不可能で「大返し」は実現しない 
 (光秀は当然そういう連絡網を、毛利ならもっていると思っただろう) 
②もし、情報を知らないで講和を結んだとしても、一両日中には変を知る 
 だろうから羽柴軍を追撃するハズで、「大返し」は実現しない 

「大返し」がなく柴田程度に動きがモタモタしていれば、既に、丹波、 
山城、近江を支配した光秀の圧力に摂津衆や筒井、はては細川もなびく。 

すでに朝廷からは京の治安維持を命じられていたし、信長が朝廷に対して 
大逆を企てていたということにすれば、君側の奸を除いた英雄ということになる。 
織田家の重臣など味方にせずとも、丹羽・信孝軍のように空中分解するか、 
分解せずとも、近畿の圧倒的な石高による兵力の前には蟷螂の斧でしかない。
46名無し 2005/07/16(土) 02:15:20
根回しは相当やってる。これがまた巧妙な方法なんだよ。 

毛利に宛てた密書は、まるで羽柴秀吉に見せるために、 
送ったかのような、不思議な密書なのである。 

ちなみに秀吉が毛利と和睦交渉を始めたのは「本能寺の変」が 
起きる少し前からである。不思議だと思わないかね?
48名無し 2005/07/16(土) 02:16:37
毛利とは停戦交渉であって、そんなのは鳥取城でもやってるがな。
47名無し 2005/07/16(土) 02:16:09
これから光秀軍や信忠を総大将にした、織田本隊が来ると 
分っていながら、一方で秀吉は和睦交渉を進めているわけだ。 

この不思議な秀吉の行動の理由は、ただ一つ。 

「まもなく、都周辺で何かが起こる可能性は高い。(気がする) 
 だからと言って、密書のことを上様に知らせて、密書が偽者だった場合、 
 これは色々な意味で、上様は激怒するであろう。そうなれば、 
 無能の烙印を押され、当然毛利攻めからも外されるだろう。 
 最悪の場合、追放されるかも知れない。それだけは避けねば。」 

三日後「本能寺」で信長は光秀の謀反により非業の死を遂げる。 

その後、秀吉は「中国の予定返し」を予定通り行っただけなのだが、 
何故か史書には「中国の大返し」と記されることになったのでした。
50名無し 2005/07/16(土) 10:32:12
>>47 
光秀は状況判断が甘かったんだろうな。 
以下のようなことは充分予測可能だったろうに。 

①秀吉は、自分(光秀)に不穏な動きがあることを、事前に察知するかもしれない。 
②秀吉は、本能寺の変よりずっと以前から、小早川や安国寺らと内通しており、すでに毛利とは大筋で和睦の方向で話ができているかもしれない。 
③主君信長が討たれるの報が届くやいなや、秀吉は予定通り毛利と和睦し、自分(光秀)を討ちに畿内に兵を向けるかもしれない。
51名無し 2005/07/18(月) 04:02:28
もし和睦が成立、そして追撃もないとなれば
羽柴軍団が非常に危険な存在になるのは確かだ。 

なにしろ、秀吉は毛利軍が大軍で反撃してきたので、 
単独では毛利を支えきれないということで、信長に援軍を要請。 
明智軍はその先発隊となるはずだった。 

ところが、秀吉の大返しはこの援軍の準備の転用なのだ。 
光秀軍が通るので、中国へ伸びる街道沿いの村々には援軍のための食料や水、 
馬匹のためのの飼葉などが準備されていた。 
55名無し 2005/07/18(月) 09:07:51
細川殿や右近とか、京都周辺の光秀との似た者同士が仲間にならなかったというのは 
二義的な事で、やはり秀吉の毛利和睦とUターンの早さだろ。 

思うんだけど、光秀はとても天下を狙う器じゃないだろ。 
なんつうか、人事権をもつ上官に解任されかけた大蔵省の次官クラスが 
とつぜん閣僚に反旗を翻したようなもので、 
「事後は誰かに道を譲るからともかくおれの味方をしろ」 
て暴れたはいいが、結局百戦錬磨の政治家に殺されたようなもんだろ?
56名無し 2005/07/18(月) 09:40:15
>>55 
結局、秀吉が戻ってきた時点で、光秀あぼーんは決定ってとこか? 
しかし、光秀の戦場での強さってどうだったのか? 
Uターンしてきた羽柴軍を返り討ちにすることは、光秀には無理だったんかな?
57名無し 2005/07/18(月) 10:13:14
>>56 
羽柴軍 vs 明智軍 
の戦ですが、下馬評で互角と見ていた人が多かったため、 
後世に筒井の「洞ヶ峠」なる逸話が語り継がれることになりました。 

つまり展開のアヤ一つで、明智の天下も充分あったと考えられます。
58名無し 2005/07/18(月) 10:16:57
光秀は大筒使用の城攻めとか、将軍調停工作とか、近畿一円の官領検地とか 
軍事テクノクラートとか、民生官、行政官として信長に重宝されたけど、 
結局、幕僚というか官僚タイプだと思うんだけどな。 
誰も彼が勝てるとは思わなかったんじゃないかな? 

6月2日本能寺の変と、信長の嫡子信忠殺し
6月4日~9日、近江平定、安土入城、京都 
ここまでは順調にみえるとけど

秀吉はそれと平行で3日夜には毛利と講和。 
11日は尼崎までUターン。 

本能寺直後、細川親子に味方を断られて
9日に再び援助を求める手紙(光秀絶筆)を出している。
権力の空白で、いくら光秀が暴れても
やがて誰かに押し潰されるとみな思ったんでしょ 

13日山崎の合戦も秀吉35000と光秀15000じゃ
いくら隘路決戦を光秀が選んでもな。 
結局、ほとんど2:1の力押しで光秀右翼の天王山をとられて2時間で壊走してるしね
65名無し 2005/07/18(月) 15:44:00
>>58 
光秀は、文武に秀でた大変有能な武将だったが、官僚的な印象は少ない。 

光秀の欠点は「忠」と「義」が欠如していたとこにあるのでは? 
「忠」がないから信長を殺せたし
「義」がないから支持する人がいなかったんだろう。 

己の力を過信し、天下をとるには「大義名分」を軽んじすぎたのが失敗だった。
72名無し 2005/07/18(月) 23:07:46
>>58 
光秀は文武両道でテクノクラートだけの能力ではない。 
もし、軍事能力に不安をもっていたら、金ヶ崎撤退戦で羽柴とともに 
しんがりを、まかせなかっただろう。 
また、信長も佐久間信盛への折檻状でも軍功第一とし、各軍団長の 
中でも最も重要な畿内、近畿軍を任せている。だいたい、能力のない 
人間に軍事指揮権を渡すほど信長は甘くはない。 
(譜代だったら、ある程度、能力がなくても任せるかも) 
59名無し 2005/07/18(月) 10:19:04
なんで光秀って謀反を起こしたの? 
それを知りたい
60名無し 2005/07/18(月) 12:33:00
自分のお袋、信長に殺されたから
72名無し 2005/07/18(月) 23:07:46
>>60 
未だに、領地召し上げとか、母が殺されたとか、
俗説を信じるやつはいないだろう。 

信長は京都に宿泊する場合、わずかな供回りで明智邸に宿泊する 
ことも多く、まさに全面的に信頼しきっている。 
津田信澄(一門衆)を通じて親戚にもなったし、細川や荒木とも 
婚姻させたり、柴田、羽柴らを差し置いて大名に最初に取り立ててくれる 
し、果ては近畿管領、むしろ、信長のほうが光秀のご機嫌をとっているようだ。
76名無し 2005/07/19(火) 18:45:45
>>72 
で、結局、なんで光秀はご機嫌取りの信長を殺したの?
77名無し 2005/07/19(火) 19:08:05
>>76 
それは永遠の謎 
でもやっぱり怨恨説はかなり薄いな。 
あの時信長の周辺に光秀軍1万5千しかいなかったということは 
それだけ光秀を信頼してた証拠。 

それに信長の中国出兵の先陣みたいな形での 
出陣命令だからこれは名誉なことだろう。 
信長が出陣することで別に光秀が 
秀吉の与力的な存在になるわけじゃないし。 

大体信長は光秀に日向守を与えてるから 
少なくとも九州出兵までは大切に扱おうと考えてた 
と考えるほうが自然ではなかろうか。 
86名無し 2005/07/20(水) 05:09:43
俺にはわかる。光秀の気持ちが。 
俺は岐阜県の明智村にも丹波笹山にも 
京都四条にも行った事がある。 

明智光秀は優れた人物だったが故、陥れられたのだ。 
家臣は当然やきもちをやき足を引っ張る。 
信長もなにかと辛く当るようになり、 
一種のノイローゼに陥っていたのだろう。 

信長の傍にずっといるというのはそういう事なのである。
87名無し 2005/07/20(水) 10:33:39
>明智光秀は優れた人物だったが故、陥れられたのだ。 
ふつうは、優れた人物=陥れられないんだよ。説得力ないんだよな。 
優れた光秀は、陥れられたんじゃなくて、全て自ら選んだ道。 

>一種のノイローゼに陥っていたのだろう 
こうやって片付けるが、一番手っ取り早いんだよな
85名無し 2005/07/20(水) 01:47:58
しかし、明智は運が悪かった。 
まさか、秀吉さんがすぐに戻ってくるとは計算外だたし。 
明智さんは、毛利にも裏切られたのか・・・。