1: 名無し 2010/10/26(火) 00:05:03.32
朝鮮軍より
4名無し 2010/10/26(火) 00:10:25.08
100年間内戦ばっかしてた連中がそのまま雪崩れ込んだんだから
当然強かった
10名無し 2010/10/26(火) 01:38:37.10
強かったが補給いわゆる兵站線が延び切っちゃったんだよな 
14名無し 2010/10/26(火) 01:52:34.91
兵質は高かったがいかんせん戦略が稚拙すぎた
16名無し 2010/10/26(火) 02:12:42.62
海を渡って攻略するのは今の米軍並みの物量がないと難しい 
言語の問題もあるから秀吉お得意の宣撫工作も奏功しなかったろうし 
17名無し 2010/10/26(火) 02:32:18.04
日清戦争で戦ったのは
清朝正規軍じゃなくて李鴻章とかの漢人軍閥だし

日露戦争は旅順占領して
バルチック艦隊沈めたところで講和に持ち込んだ 

北京やモスクワ占領した訳じゃない 

海を渡っての戦は 
向こうが降参しない限り終わらないから 
兵站がもたなくなる 
26名無し 2010/10/26(火) 05:58:18.64
日本人が思ってるほど強くなかった 

一つの町を占領したとき日本軍の占領範囲はあくまで町の中だけで
領土を得れたわけでなかった 
そんな感じで補給線もままならないまま中国軍と接触して
すぐに平壌からソウルまで押し返された
28名無し 2010/10/26(火) 06:01:58.30
>>26 
日本人がどれくらい強いと思ってるか知ってるのか? 
知らないだろ
33名無し 2010/10/26(火) 06:09:51.56
>>28 
いや知ってるぞ 
朝鮮の役の兵士の死亡率は戦国最悪と言われる川中島を上回る凄惨さ 
あのまま東国の兵士を送り込んだところで征明は不可能
37名無し 2010/10/26(火) 06:13:04.34
>>33 
でも兵士が死ぬ原因が弱くて戦死したのではなく 
餓死と凍死だという事までは知らなかったんだね
46名無し 2010/10/26(火) 06:18:56.28
>>37 
いや知ってるぞ 
それも>>26に書いている通り
日本軍の勢力範囲が城周辺だったため補給線が保てなかったせいだからな 
それは明らかに軍事的敗北だから
49名無し 2010/10/26(火) 06:20:43.07
>>46 
朝鮮への補給が絶たれたのは 
中国が対馬海峡の制海権を握ったからなんだけど 
それも知らなかったの?
58名無し 2010/10/26(火) 06:26:55.00
>>49 
時期にもよるけど釜山までは食糧は届いてたよ 
序盤に朝鮮水軍にちょっとだけ邪魔されたけど 
占領地域の陸路の補給線が確保出来なかったし
朝鮮の南西部を占領できなかったので前線に兵を送りこめなかった
31名無し 2010/10/26(火) 06:08:03.52
朝鮮征伐は中国征服が真の目的だった 
これは豆知識な
36名無し 2010/10/26(火) 06:11:33.43
>>31 
いざ上陸してみると当の大名達は征服する気満々だった 
でもそれが無理だとすぐにわかった 
唯一清正だけがそのとっかかりまでいっただけ
39名無し 2010/10/26(火) 06:13:24.88
>>36 
やる気満々な大名なんかいなかったよ 
秀吉に命じられて仕方なく適当に戦っただけ
40名無し 2010/10/26(火) 06:14:50.22
>>39 
みんなやる気満々だったよ
41名無し 2010/10/26(火) 06:14:53.78
仕方なく海の向こうに命を放り出す奴がいるわけないだろ 
中国での○○守に任命してもらえるだろうという欲望を持って
張り切って行ったんだよ
44名無し 2010/10/26(火) 06:17:03.33
>>40>>41 
アホだお前ら 
捏造教科書で習ったのかwww
56名無し 2010/10/26(火) 06:24:20.00
>>44 
文禄の役の時点では大名にもよるけどやる気満々だったよ 
大名に課せられた兵役が九州大名で
100石につき5人その他で100石につき4人だったが 

小早川とか小西とか宇喜多とか加藤とか佐竹とかetc
課せられた以上の兵員を動員してる占領してうる物を見込んでたって
52名無し 2010/10/26(火) 06:23:19.54
朝鮮の土地なんかどうでも良かったんだよ 
倒す相手は明なんだから 
大名にすれば邪魔すんなお前らって感じだろ
57名無し 2010/10/26(火) 06:25:45.67
明との戦いだよ普通に 
朝鮮関係ないじゃん明の下っ端なんだから
59名無し 2010/10/26(火) 06:27:03.11
>>57 
お前は戦いが始まった経緯とか交渉の流れとかも知らないの?
66名無し 2010/10/26(火) 06:32:08.46
明史 
「自倭乱朝鮮七載、喪師数十万、餉数百万、
 中朝与属国無勝算、至関白 死而禍始息」 

(日本との七年に及ぶ戦争によって我が明は膨大な犠牲を強いられた。 
 我が国と属国朝鮮に勝算は無かったが、
 関白豊臣秀吉の死によって戦争は終わった)
70名無し 2010/10/26(火) 06:34:35.75
属国とか表現露骨すぎワラタ
69名無し 2010/10/26(火) 06:34:25.28
明史は清が作った史書だよ
72名無し 2010/10/26(火) 06:47:05.07
>>69 
シナの正史はみんなそうですが 
73名無し 2010/10/26(火) 06:58:29.35
>>72 
訳が「我が明」とかなってるので初出で読む人は勘違いすると思った
74名無し 2010/10/26(火) 07:01:32.18
中朝は中華王朝だから継承王朝の清からすれば
明朝を「我が」と訳すのも 
間違いとは言い切れないな
76名無し 2010/10/26(火) 07:02:30.08
ヌルハチと加藤清正の軍勢が満州で小競り合いしたらしいね
78名無し 2010/10/26(火) 07:05:06.54
加藤清正は、「オランカイ」
(朝鮮人は女真族の事を「野蛮人」という意味をこめて 
 「オランケ (兀良哈)」と呼んでいた。 
 これが転じて日本人は女真族を「オランカイ」と呼んだ)
の戦力を試すために、 豆満江 を渡って満州 に入り、
近在の女真 族の城を攻撃してみる事にした。 

それまで女真は度々国境を越えて朝鮮を襲撃していたため、 
咸鏡道の朝鮮人3,000人もこれに(加藤清正の軍勢8,000人に)加わった。 
まもなく連合軍は城を陥落させ、国境付近に宿営した。 

朝鮮人が帰国した後、日本軍は女真からの報復攻撃に悩まされた。 
依然優位には立っていたものの、
加藤清正は大きな損害を被ることを避けるために撤退した。 

この女真侵攻を受けて、女真族の長ヌルハチ は明と朝鮮に支援を申し出た。 
しかしながら、両国ともこの申し出を断った。 
特に朝鮮は北方の「野蛮人」の助けを借りるのは
不名誉な事だと考えたと言われている。 

二番隊は東へ向かい、鍾城 、穏城 、慶源 、慶興 を占領し、 
最後に豆満江の河口のソスポ に達した。 
こうした転戦の後、日本軍は咸鏡道の内政に努め、
一部地域に朝鮮人の自治を認めた。 

こうして日本軍は北西部の平安道の平壌より北方と、
全羅道を除く朝鮮全土を制圧した。
81名無し 2010/10/26(火) 07:10:59.96
>>78 
この咸鏡道統治も勇ましい武勇伝ばかりだけど
漢城にもどってきたときには兵力半分減ってたんだよな
84名無し 2010/10/26(火) 07:13:34.99
>>81 
ヌルハチの女真族は加藤清正にも手強かった相手ということか
85名無し 2010/10/26(火) 07:15:54.66
勃興期にある民族の軍は強い 
清朝が続く間に北京暮らしに慣れて貴族化 
文官化して使い物にならなくなっちゃったけどな
90名無し 2010/10/26(火) 07:23:29.04
満州族が強かったのは事実だが 
結局は漢族間の分裂 内紛が入関防げなかった要因 
山海関の鍵明けて清軍を招き入れたやつがいたんだし 
86名無し 2010/10/26(火) 07:18:12.86
そりゃ中国大陸では日本軍が女真に勝つのは難しいでしょ 
平原だから遊牧民族が圧倒的に有利
87名無し 2010/10/26(火) 07:19:37.35
まともに女真とは戦ってないだろう 
>>78で言われてる女真の城っていうのが
今でも不明だし小競り合いがあったのは事実だろうが 
加藤の管轄した地域は朝鮮の流刑地で最も過酷なところで
そこで一冬越したら兵が半分になったと
92名無し 2010/10/26(火) 07:24:22.94
>>87 
寒さと飢えが問題だったんだよね
95名無し 2010/10/26(火) 07:25:36.39
朝鮮北部だと寒いんだろうな 
情報も無くていきなり戦争だから末端兵士は大変だわ
104名無し 2010/10/26(火) 07:32:13.46
>>95 
しかもね 
九州の大名中心の部隊なんか草鞋で出かけたんだぜ
102名無し 2010/10/26(火) 07:29:05.54
>>95 
国境越えたらロシアの地域だぜ 
凍死者も出るわ
88名無し 2010/10/26(火) 07:21:28.81
オランカイについては先方の史料が全く残ってないので
交戦したのは統一国家ではなくて 
ただの地方豪族か山賊との交戦か加藤清正の過大戦果報告と思われる
106名無し 2010/10/26(火) 07:36:40.68
加藤清正は豆満江を越えて満州に侵攻したものの 
あまりに気候が過酷だったため撤退したってのが真相みたいだね
109名無し 2010/10/26(火) 07:44:30.60
1.文禄1(1592年)7月16日
  祖承訓率いる明軍先鋒隊五千騎が平壌城を急襲    
  →小西行長の配下一万によって撃退 日本軍勝利 

※八月、乾福山にて小西行長(沈惟敬と)休戦協定
 平壌にて正式な講和使を待つ 

2.文禄2(1593年)1月6日
  李如松率いる明軍四万三千余が平壌を総攻撃   
  →正式な講和使を待っていた小西行長とその配下一万五千は寝耳に水。 
  明軍は平壌城を奪還  
   
3.文禄2(1593年)1月26日
  碧蹄館の戦い 
  李如松は平壌城を落とした勢いに乗じてさらに南下。 
  体勢を立て直した日本軍四万一千は漢城近郊で明軍四万と激突 
  →日本軍の勝利 (李如松は戦意喪失し辞職願まで出している) 

※3月頃より再度講和に向けての調整が始まり講和条件等が吟味される 

4.文禄2(1593年)6月21日~29日
  第二次晋州城攻防戦 
  明将劉テイ指揮下四万(資料不正確にて議論保留)が
  普州城の救援に向かったとの報を受け、 
  立花宗茂と小早川秀包は兵四千を率いこれを迎撃    
  →日本軍が撃退に成功  

※嫌戦気分のまん延した明は講和に傾く。
 秀吉、部隊を段階的に帰還させる。 
 が、約束の講和条件が満たされていないことを知り再侵攻。 
 講和条件の齟齬の責任は仲介の朝鮮にあり
 (事実かどうかは別議として)とされ、朝鮮征伐の色合いの濃い派兵となる。
110名無し 2010/10/26(火) 07:46:00.55
5.慶長2(1597年)6月19日~7月16日
 漆川梁海戦 
 日本軍支配地に侵攻を試みた朝鮮水軍が 
 機動力に勝る日本水軍に翻弄され、 
 疲労困憊して退却途中に陸海から挟撃される。 
 慶尚道南岸の泊地になるような場所は、
 日本側が前役から城塞を築いて押さえており 
 例えば水の補給のために上陸した加徳島では
 加徳城在番の高橋・筑紫の兵に迎撃され朝鮮水軍は400の損害を出したとされる。 
 兵力は双方とも1万数千程度。 
 →朝鮮水軍壊滅、日本軍勝利 


6.慶長2年(1597年)8月12日~15日
  明・朝鮮連合軍が守る南原城を日本軍が襲撃    
  →陥落 日本軍勝利   

7.慶長2(1597年)8月16日~8月18日
明・朝鮮連合軍が守る黄石山城を日本軍が襲撃    
  →陥落 日本軍勝利 

8.慶長2(1597年)9月7日
  稷山の戦い 
  稷山で解生率いる明軍先遣隊明軍2千(援軍2千)と
  黒田長政率いる日本軍5千の部隊が遭遇戦    
  →一進一退の攻防の末、明軍は戦意を喪失。 
  日本側に援軍2万5千が現れたのを機に撤退 日本軍勝利 

111名無し 2010/10/26(火) 07:47:06.94
9.慶長2(1597年)12月22日~慶長3(1598年)1月4日
  蔚山城の戦い 
  楊鎬、麻貴率いる明軍四万四千と
  朝鮮軍一万二千の連合軍が完成前の蔚山城を襲撃 
  →加藤清正を指揮官とする篭城側一万が防戦、 
   その後日本軍一万二千が駆けつけ連合軍を大破 
   日本軍は敗走する連合軍を30里に渡って激しく追撃し、
   壊滅的な打撃を与えた 
   日本軍勝利
10.慶長3(1598年)9月~10月
  第二次蔚山城の戦い 
  麻貴率いる明軍二万四千、 金応瑞率いる朝鮮軍五千五百の連合軍が 
  再び蔚山城を襲撃    
  →日本軍は巧みに防戦、明・朝鮮軍は攻略の目途が立てられず撤退 
  日本軍勝利 

11.慶長3(1598年)10月1日
  泗川の戦い 
  董一元率いる明・朝鮮連合軍およそ三万七千(諸説あり)が泗川城を襲撃 
  →島津義弘配下七千が城外へ打って出て明・朝鮮連合軍壊滅 日本軍勝利 

12.慶長3(1598年)10月2日~7日
  順天城の戦い 
  劉テイ率いる明軍二万二千、権慄率いる朝鮮軍六千、 
  陳リン率いる明水軍二万、李舜臣率いる朝鮮水軍七千の連合軍が順天城を襲撃 
  →小西行長配下一万三千が防戦し、明・朝鮮軍を撃退 日本軍勝利 

※八月から伏せられていた秀吉の死去が公表され、10月、撤退命令。 

13.慶長3(1598年)11月18日
  露梁海戦 
  明・朝鮮連合水軍五百隻が島津水軍五百隻と激突 
  →双方に甚大な被害。 
  しかし島津水軍は小西行長らを撤退させるという作戦目標を達成し、 
  連合軍は明水軍副将の鄧子龍、朝鮮水軍大将の李舜臣が戦死



※日本軍が敗北した戦闘も当然いくつかあります。
 
上記は日本側が勝利した戦闘をまとめたものだと思います。
99名無し 2010/10/26(火) 07:27:19.03
泗川の戦いでは日本側が数千人だったのに
数万から数十万いた明と朝鮮側が 
負けてるじゃんw
107名無し 2010/10/26(火) 07:37:43.16
>>99 
個々の局地戦をみれば日本の勝利もあるけど
日本が最終的な戦果を得られないまま撤退したので日本の負けだろう 

そういう意味でナポレオンのロシア戦役と似ている 
あれも個々の戦闘はフランス側の勝利が圧倒的に多いが
最終的にロシアの勝利となってる
117名無し 2010/10/26(火) 07:59:35.59
>>107 
だけど明側が秀吉の死のお陰で助かった的なことかいてるじゃん
119名無し 2010/10/26(火) 08:01:03.87
>>117 
清がそう言ってる 
122名無し 2010/10/26(火) 08:06:03.58
『明史』の文禄慶長関連記述の編纂時 
客観的立場から書かれており明の存在を貶めようとした形跡は特に見られない 

明側の記録が主要なソースとなったためと思われるが 
むしろ明軍の武功部分は比較的強調される傾向にある 
『明史』では全体的に明軍の果たした役割が大きいものとして書かれている 
反面現在韓国で三大捷として扱われている戦いについての記述は
『朝鮮伝』にもないなど 
李氏朝鮮の役割については小さく扱われている
124名無し 2010/10/26(火) 08:08:10.75
>>122 
とはいってもやはり当事者が負けを認めたとは全く違うよ 
あくまで著述者の評価
128名無し 2010/10/26(火) 08:11:33.33
>>124 
だけどさ彼らは儒教を重んじてる訳でしょ? 
となると日本を格下だと思ってる訳で 
そんな国が日本に有利になること書く訳ないじゃん 
となると事実だから書いたってことでしょ
117名無し 2010/10/26(火) 07:59:35.59
だけど明側が秀吉の死のお陰で助かった的なことかいてるじゃん
131名無し 2010/10/26(火) 08:14:15.12
>>117 
明は国境線が広いので敵も多くて防衛するのも大変なんだよ 
歴史的に戦略上さほど重点をおかなくてよかった東方朝鮮半島で戦火が長引けば 
国家の戦略防衛計画を根底から考え直さなくてはならない 
秀吉が死んで助かったことには違いないが
「秀吉が強かった」と同意語ではない
129名無し 2010/10/26(火) 08:11:48.95
朝鮮人は頭上に振りかざされる日本人の太刀の威力に対抗できず、
ついに征服された。 

日本軍は極めて計画的に行動し、鉄砲に加え、 
太刀の威力をもって散々に襲撃したので、 
朝鮮軍は戦場を放棄し、足を翼のようにして先を争って遁走した。 

ところで支那人たちは、日本人らが用いる武具は、 
自分達の武具ほど役に立たないと思い込んでいたので、 
日本の武具の優秀さを知る者がどんなに説明しても、 
人々は信じることができなかった。 

したがって真実を知る一部の者が、 
例え支那軍は数の上で勝っていても、 
日本軍と戦うことは不可能であると言っても、 
これを聞こうとする者はいなかった。 

「日本人は支那人よりも勇敢で、 
 武器ならびに戦術の点で優れており、 
 数々の面で支那軍の劣勢は疑えない。」 

ルイス・フロイス「日本史」
134名無し 2010/10/26(火) 08:20:11.17
>>129 
ルイス・フロイスはこうも書いてる 

かの地(朝鮮)で日本人たちが経験した、労苦、貧困、極度の食糧不足、
疫病、不便は疑いもなく計り知れないほどであった。
病気になっても、もちろん人間的な救済と援助は全く欠けており、
そのうち死を免れた病人は大勢のうちわずかしかいなかった。
142名無し 2010/10/26(火) 08:28:36.70
そもそもスレタイからすれば戦略的な勝ち負けじゃなくて 
交戦して局地戦でより強かったのはどっちってことだろ 

そうなると明史に関係なく
明朝鮮が日本より明確に強かったとはとても言えなくなってくる 

144名無し 2010/10/26(火) 08:31:06.08
>>142 
それなら日本側の補給線のほつれによる死者の数からやはり日本不利になる 
なぜか病死と餓死による死者はカウントしたくない人もいるが
132名無し 2010/10/26(火) 08:15:39.16
李氏朝鮮も海軍に限って言えば
最初はキャリアを重んじ両班の文均を起用してたが 
こいつが人の言う事は何も聞かないわプライドは高いわで
日本の海軍によって虎の子でもある亀甲船をかなり失い
海軍壊滅の危機だったのを 
文均に反論し一兵卒に落とされた
海軍の運営のスペシャリスト李瞬臣によって盛り返した 

と学生時代に勉強してるがこれは間違ってたのか
133名無し 2010/10/26(火) 08:18:44.01
>>132 
講和した後に空気読めずに後ろから補給船を攻撃して 
島津に殺された武将でしょ 

この人日本の併合時代に有名になったんだけど 
その理由は併合する際に朝鮮の英雄を作らないと 
ガス抜きできないから
日本側が無理やり英雄として彼をあげたんだよね確か
150名無し 2010/10/26(火) 08:36:13.87
朝鮮出兵の際の朝鮮側の記録 「武藝圖譜通志」
「倭軍と対陣すると、倭軍はたちまち死に物狂いで突進してくる。 
 我が軍は、手に槍を持ち、剣を帯びていても、その剣は鞘を出る暇も無く、 
 槍は矛先を交えることもできずに、凶刃のもとにやられてしまうのである」 

朝鮮側の記録「宣祖修正実録」 
「天兵(明兵)は短剣を持ち騎馬であり火器はなく、道は険しく、 
 泥深くして駆けることができない。
 賊(日本軍)は長刀を奮って左右に突撃し鋭鋒であり、敵なしだった」 

朝鮮側の記録「懲毖録」
「賊(日本軍)のほうは皆歩兵で、彼らの打ち振る刀は、三、四尺に及び、 
 鋭利無比の物であった。賊はその鋭い刀を左右に激しく打ち振るい、
 人、馬の区別なく斬り伏せた。 
 全くその勢いには抵抗する術がなかった」 

中国側の記録「明史」
「自倭乱朝鮮七載、喪師数十万、餉数百万、中朝与属国無勝算、至関白 死而禍始息」 
(意訳)
「我が国とその属国(朝鮮)に勝算は無かったが、
 関白(豊臣秀吉)の死によって戦争は終わった」 

朝鮮王朝実録 
「日本兵との接近戦を禁じた」「日本兵捕虜に熱心に剣術を習った」 

倭寇の時代から、中国人は日本の剣術の威力に驚き、
日本刀を真似て「苗刀」を作り、 
日本の剣術を真似た「倭刀術」を生み出しました。
154名無し 2010/10/26(火) 08:52:36.02
文禄の役を冷静にみれば 

加藤軍も食糧不足から漢城に撤退 
さらに小西、大友も平壌で敗北し撤退 
その間の開城も放棄 

第一次晋州城戦で敗北して退却したため
漢城に食糧・援軍を送るルートを確保できずに漢城の主力軍が干上がる 
漢城の食糧が残り一月を切るところで漢城放棄 
焦土作戦の教本のような展開ぶりだよ
155名無し 2010/10/26(火) 08:55:04.55
焦土作戦(笑)の実情 

李恒福 白沙集 
「秀吉軍の入城前にはすでに灰燼となっていた。 
 民衆が兵乱と聞けばすぐに蜂起して、宮廷を襲い略奪したからだ。 
 ことに奴婢は、秀吉軍を解放軍として迎え、 
 奴婢の身分台帳を保管していた掌隷院に火を放った。」
157名無し 2010/10/26(火) 08:57:29.39
>>155 
それがまさに焦土作戦だよ 
敵の手中に治める前に火を放って灰燼に帰すっていうのは 
そうやって干上がらすのが目的
160名無し 2010/10/26(火) 09:00:44.43
>>157 
結果論だなw 
逃げるのに忙しくて民衆をコントロールできない言い訳
163名無し 2010/10/26(火) 09:06:13.70
>>160 
咸鏡道と京畿道では日本側の略奪の効率がすこぶる低下したのは事実だよ
159名無し 2010/10/26(火) 09:00:43.15
日本軍撤退後の漢城は残った民衆は100のうち1か2くらいで 
城内は死臭に満ちて城の内外は白骨が堆積してたって
明側の大将李如松が言ってるので 
その惨状がわかる
162名無し 2010/10/26(火) 09:03:36.60
柳成龍は明軍が日本刀にやられたと書いている。 

フロイスも朝鮮は日本刀に対抗出来ず征服された
(日本史第三十七章)と書いている 

三十八章でも鉄砲に加え太刀の威力で散々襲撃したので朝鮮軍が遁走 
鉄砲では朝鮮軍は後退するも完全に崩れておらず、
太刀の突撃で戦場を放棄したとしている。 

その後、明が日本の武具を入手して対抗策を講じた事が書かれている 
(第四十一章) 

フロイスは四十三章冒頭に祖承訓との合戦で
小西行長は明兵に対する認識を改めたと書いている。 
朝鮮よりは強い明兵を小西は評価したようだ。 
が、碧蹄館後の記事でフロイスは日本人は支那人より勇敢で、
武器ならびに戦術の点で優れており、 
種々の面で支那軍の劣勢は掩うべくもないと分析した
(第四十三章) 


結局の所
明軍も弱くはないが日本軍の方が戦上手で強いという評価に落ち着く。
165名無し 2010/10/26(火) 09:10:05.96
>>162 
碧蹄館は日本の勝利だけれどもその直後の幸州城の戦いで日本側は負けており 
以降明も日本軍も侵攻をパタッと辞めて野戦が一切おこらないことから 
日本も明軍を評価していることがわかる
167名無し 2010/10/26(火) 09:18:05.70
とゆうよりもともと講和のつもりで平壌開いて待っていたのに
明が攻撃してきたことから碧蹄館の戦いへの流れになったわけで… 
碧蹄館後交戦が止まったのは日本にとっては
「だったら最初からそうせいや」ってとこだし 
ぱたっとやめるのはあたりまえ 
174名無し 2010/10/26(火) 09:29:35.71
>>167 
講和交渉が再開されたの幸州城のあとから二ヶ月後くらいだぞ 
その間日本側は完全に侵攻をストップした
169名無し 2010/10/26(火) 09:24:24.25
>>167 
開城してたわけじゃないぞw 
小西ってアホじゃないし
175名無し 2010/10/26(火) 09:31:04.18
>>169 
うむ 単純に李如松が中国から連れてきた軍勢が 
当時小西が平壌で持ってた軍勢の3倍以上あったというだけだよな
177名無し 2010/10/26(火) 09:34:02.24
碧蹄館で日本は勝ちはしたけど 
多分それが日本が初めて経験した統率された軍との戦いだったので 
こういう戦いをこれから何度もして 
また平壌まで押し返して北京侵攻とか絶対無理だと思ったんだろうな 
だからもう戦うの辞めた
166名無し 2010/10/26(火) 09:16:40.59
日本軍は鉄砲が多かったけど 

明軍には紅夷大砲とよばれる火砲が多かった
168名無し 2010/10/26(火) 09:19:00.00
切岸によって構成される和城に 
火砲はあまり効かなかったようだ
170名無し 2010/10/26(火) 09:24:25.53
>>168 
まあそれは 
秀吉の小田原城攻め等でも明らかだわな 
あくまで威嚇や戦意鼓舞のためのもの
173名無し 2010/10/26(火) 09:28:55.39
中国ってこの頃に使われてた大砲をアヘン戦争でも使ってたらしいな 
林則除関連の本を読んだ時にそれを知ってかなり驚いた事がある
181名無し 2010/10/26(火) 09:37:15.20
>>173 
実は清朝って徳川幕府と同様に建前は鎖国政策をしていて 
日本で幕末の天誅組の乱に取藩がブリキトースを持ち出したように 
そういう古代砲を持ち出して戦ったようだな
182名無し 2010/10/26(火) 09:37:30.02
西南戦争の時代の大砲も 
日本の城には通用しなかったからな
184名無し 2010/10/26(火) 09:40:17.26
>>182 
熊本城なんかは 
特に大砲の弾にも石垣が崩れないほどの 
堅固な作りしてたんじゃね 

朝鮮半島での大砲の威力を知ってた 
加藤清正が作っただけになおさら
188名無し 2010/10/26(火) 09:44:21.29
>>184 
確かに
171名無し 2010/10/26(火) 09:27:06.47
日本は個々の軍勢は強かったけど 
上層部の間の不和とか統率がいろいろと乱れてた印象がある
172名無し 2010/10/26(火) 09:27:31.17
ともかく当時の和船を使った兵站の輸送技術では 
現地調達も併せて行なわないとどうしても不足してしまう状況だった 
ところが当時の朝鮮は現地調達が難しく
日本軍が勝つまで戦い続けることは恐らく無理だった
176名無し 2010/10/26(火) 09:31:05.95
>>172 
いや朝鮮本土までは食糧は到達してたけど 
その先の陸路の補給線が全く維持できなかった
179名無し 2010/10/26(火) 09:35:19.88
朝鮮は弱すぎてわろた 
明の小間使いじゃん
189名無し 2010/10/26(火) 09:44:42.92
>>179 
兵站線を分断したのは朝鮮側の手柄だしな 
焦土作戦を肌で身につけていって
平壌城のときは兵糧と住民ごと撤退して
小西が入ったときは本当に空城で得るもの皆無だったらしいし
192名無し 2010/10/26(火) 09:50:30.89
兵站線を分断といえば 
漆川梁海戦では朝鮮水軍は日本に完全に陸地を押さえられてて補給が出来ず 
壊滅したんだったな
178名無し 2010/10/26(火) 09:34:11.29
っていうか加藤清正 
小西を助けたれよって感じなのだが
185名無し 2010/10/26(火) 09:40:45.06
小西って朝鮮出兵で身の丈を超えた動員してしかも消耗したから 
関ヶ原ではまともに動員できなくてかわいそう
187名無し 2010/10/26(火) 09:43:37.55
小西行長は加藤清正と肥後半国の隣同士の領国に配置されて 
しかも清正の熊本よりも相当経済力に劣った宇土が領国だったしな 
身の丈に合わない競争を強いられて 
しかも使い捨てにされたサラリーマンみたいな人だわ
191名無し 2010/10/26(火) 09:48:08.85
文禄の役は恫喝による交易交渉とスペインへの示威行為 
慶長の役は朝鮮征伐、というか約束を反故にされた秀吉の腹いせ 

だから文禄なんて開戦早々から和平交渉の席へ着くよう明へ再三要求してる 
快進撃中の日本がだぜ 

要するに力を背景に有利な条件で商売したかったが、 
小西がもっとアホだったのでおじゃんになった。
195名無し 2010/10/26(火) 09:54:52.03
>>191 
その講和っていうのは国の主権代表者による話し合いとかじゃなくて 
前線の将軍同士による勝手な約束事 
なんでそんなことしないといけないかっていったら
その時点で日本は相当干上がってたわけ


218名無し 2010/10/26(火) 12:48:41.89
明は王朝そのものが衰退していたことも考慮しような
219名無し 2010/10/26(火) 12:52:23.12
相対的に日本が強かったことは否定できないと
220名無し 2010/10/26(火) 12:53:27.89
日本軍はあの戦国を時代を勝ち抜いてきた強兵だ 
儒教的道徳国家でほとんど大きな戦乱を経験してなかった李氏朝鮮や 
万里の長城で異民族の流入を防ごうと考えてた明にはきついだろ 

ただし日本は外征軍であり相手のテリトリーで戦うという大きなハンデがあった 
当時の技術力じゃこのハンデは埋められないだろうな
228名無し 2010/10/26(火) 15:16:01.64
兵站や外交を無視して強弱をどうのこうのいってるってどうなの? 
そういう奴等がいたから先の大戦でこっぴどく負けたというのに
239名無し 2010/10/26(火) 18:50:06.96
>>228 
スレタイ音読してから書き込めや 
戦略の話ではなく戦術か戦闘の話してんだろ 
懲秘録の記述を参考に挙げてるのがいるぐらいなんだしw
240名無し 2010/10/26(火) 18:58:31.75
兵站が戦術に含まれないという考え方は国を滅ぼすよ
241名無し 2010/10/26(火) 19:02:06.07
補給線の確保や計画は戦略だろ 
それを実行するのが戦術
242名無し 2010/10/26(火) 19:06:34.69
輜重輸卒が兵隊ならば 
とんぼチョウチョも鳥のうち
249名無し 2010/10/26(火) 19:16:42.03
ちなみに>>242は先の大戦中も 
兵営などでよく口ずさまれていた戯れ歌
250名無し 2010/10/26(火) 19:18:20.87
そんな事はどうでもいいけど
食料と弾薬の補充がなければ強い軍隊でも勝てないよ
252名無し 2010/10/26(火) 19:20:46.21
こんな戯れ歌が流行るぐらい兵站を軽視してれば近代戦争に勝てるわけない 
兵站を軽視しても何とか勝てた日清日露が皇軍に悪い影響を及ぼしたな
348名無し 2010/10/26(火) 22:56:48.71
秀吉の小田原攻囲で補給の重要性は秀吉は熟知してたはずなのに 
三成ら弟子たちはなぜそれをできなかったのか
349名無し 2010/10/26(火) 23:06:09.99
>>348 
補給線の長さと量が比べ物にならない
353名無し 2010/10/26(火) 23:37:57.16
>>348 
正にできなかったのであって
まともにやらなかったのとは違うようだぞ 
その証拠に高麗、対馬、壱岐、名護屋の海上通過点四箇所に
それぞれ舟奉行を配して 
兵の渡海と兵糧の輸送を監督させている 

必要予定量をオーバーしたか
国内での確保が予想よりできなかったか
敵の襲撃で損なったかして 
滞らせたのは事実だしそういう意味では読みが甘かったといえるけど
一応補給計画を立て担当者を決め 
補給を行っていた形跡はあるし海上補給路の確保と警備も行ってる
354名無し 2010/10/26(火) 23:41:40.15
船でそれだけの兵を渡らせているところがすごいな
355名無し 2010/10/26(火) 23:43:18.90
しかも兵だけ先に上陸させて馬は後から輸送しろという意味不明な命令が出てるw
363名無し 2010/10/26(火) 23:51:47.13
俺も石田三成等の豊臣文官はよくやったと思う。 
読みが甘かったというより
経験値が足りなかったほうがいいぐらいで最善以上尽くしたと思う 
徳川・伊達等の国内不穏分子がいなければ更にスムーズにいっていたはず 
だが中国大陸経由の兵站合戦になると不利なのは事実。 
事前に北方民族と同盟を結んでルートの分断などの工作は必要不可欠
372名無し 2010/10/27(水) 05:22:24.10
元々現地調達が無けりゃ十分じゃ無かったんだろうけど 
それが上手くいかなかった上に寒すぎた
375名無し 2010/10/27(水) 05:59:24.89
>>372 
現地調達などという不確定要素で作戦たててちゃ話にならんぞ 
現地調達はボーナスポイントぐらいに思ったほうがいい
376名無し 2010/10/27(水) 06:07:13.27
昔の戦争は現地調達だぞ 
198名無し 2010/10/26(火) 09:59:40.90
「懲秘録」 
賊(日本軍)は歩兵で、打ち振る刀は、三、四尺におよび、鋭利無比のものであった。 
賊はその鋭い刀を左右にはげしく打ち振るい、人馬の区別なく斬り伏せた。 
全くその勢いには抗すべき道がなかった。 

日本人はよく刀槍を用いる。 
我々には堅甲がないゆえ日本人に敵わない。 
そこで厚鉄を用い全身鎧を作り 
この鎧を着た兵士を敵陣深く切り込ませようと考えた。 
取り敢えず、全身鎧の見本を製造して、 
これを試用したが、とてもその重さに堪えられる兵士がおらず、これを廃した。
202名無し 2010/10/26(火) 10:03:12.21
「懲毖録」 

日が暮れ、賊は、(白)光彦らの緊張がやや緩んだのを見て、 
白刃をきらめかせて大声をあげて突進して来た。 
光彦らは、あわてて馬を探して逃げようとしたが、間に合わず、 
みな賊に殺されてしまった。 
諸軍はこれを聞いて恐れおののいた。 

翌日、賊はわが軍が怯えきっているのを察知し、 
数人が刃を揮って勇を誇示しながら突進して来た。 
三道の軍はこれを見て総潰れになり、その声は山崩れのようであった。 
打ち棄てられた無数の軍事資材や器械が路を塞いで、人が歩行できぬほどであった。 

203名無し 2010/10/26(火) 10:04:37.62
「懲毖録」

まだ川に身を投じていなかった者には、 
賊が後ろから長刀を奮って切りかかったが、 
みな這いつくばって刃を受け、敢えて抵抗する者もなかった。 
(金)命元と(韓)応寅とは、川の北から遥かにこれを眺め、
気力を喪失してしまった。 

わが軍は、賊がまだ山の下にいると思っていたのに、突然一発の砲声が響き、 
四方面から大声で呼ばわりながらとび出してくるのがみな賊兵であったので、 
仰天して総崩れとなった。 
将士たちは、賊のいない処に向けて奔走したところ、 
ことごとく泥沢の中に落ち込んでしまった。賊が追いついて、 
まるで草を刈るように斬り倒し、死者は数しれなかった。
206名無し 2010/10/26(火) 10:07:19.36
というか山の上にいると見せかけていつの間にか包囲するとか 
日本も戦略的なことやってんだな
209名無し 2010/10/26(火) 10:22:19.52
「程宗猷 単刀法選」

日本刀の事を我々は単刀と呼んでいる 
両手を用いて一振りの刀を扱う 
日本刀は日本人独自の剣術で用いられる 
剣術はよく鍛錬されており精密で強固だ 
日本刀は扱いやすく、柄、鞘などの拵えは理にかなっており 
他の刀剣で比べられるようなものはない 

更によく研磨されており、光が反射する様をみれば誰もが心寒からしむだろう 
その剣術の特徴は左右への変化が凄まじく、奇詐詭秘、まったく予測できない 
そのせいで槍を持ってしても毎回常に日本刀に敗れてしまう
210名無し 2010/10/26(火) 10:26:35.72
鉄砲や弓矢 
槍とかがメインじゃないかな 
日本刀も使っただろうけど
211名無し 2010/10/26(火) 10:34:52.62
元々日本での戦は弓矢がメインだった 
その証拠に弓矢を武芸とか武器とか武門の総称として 
使用していることからも想像できる
214名無し 2010/10/26(火) 12:24:41.92
中世近世の戦で 
射撃武器と白兵戦武器を同列に並べてメインだのメインじゃないのと
アホな御託並べるほうがどうかしている 

378名無し 2010/10/27(水) 07:26:07.80
>>214 
射撃武器のメイン近接兵器のメインという事は言えるでしょう 
日本軍は射撃武器で弩がメインという訳じゃ無く 
近接兵器で戈がメインじゃ無くてというように
379名無し 2010/10/27(水) 07:48:06.85
鉄砲弓矢槍日本刀にしても適材適所は当たり前だけど 
基本的に戦闘は何で行ったかという意味のメインは語れる
380名無し 2010/10/27(水) 08:13:12.67
軽装歩兵の集団戦が主流の日本では槍が主流
381名無し 2010/10/27(水) 08:13:52.56
日本刀だけ強調してそれしか書かないと 
どんな時にどれくらいの割合で使われたのか分かりにくくなる 
実際の戦いとは離れた虚像の印象を与えやすいというのはあると思う
382名無し 2010/10/27(水) 08:15:30.98
日本刀による白兵戦が当時どんなに優れていたものであったとしても 
万能では無いし戦いの中で
白兵戦に頼るのが良いか悪いかの判断をしにくくもなるだろう
383名無し 2010/10/27(水) 08:17:42.98
別にこれは日本刀自体を否定している訳じゃ無く 
優れていても万能では無いし 
あまりに強調する事によって適切な使い方を見失わないようにという事
385名無し 2010/10/27(水) 08:41:17.43
■日本刀大活躍だねぇ■ 

●朝鮮人は頭上に振りかざされる日本人の太刀の威力に対抗できず、
 ついに征服された。 
●日本軍は極めて計画的に行動し、鉄砲に加え、 
 太刀の威力をもって散々に襲撃したので、 
 朝鮮軍は戦場を放棄し、足を翼のようにして先を争って遁走した。 
●土佐の鉄砲隊は味方から全面的に期待をかけられていながら
 鉄砲を発射する時間も場所もないほどであった。 
 というのは、薩摩軍は太刀をふりかざし弓をもって、
 猛烈な勢いで来襲し、鉄砲など目にもくれなかったからである。 
●かの老人とその息子たちと養子は、激しい戦闘心に燃え、槍を刀に代え、
 いとも巧妙に、かつ激しく戦ったので、敵は誰しも皆驚嘆し、大いに苦境に陥った。 

別にこれは槍自体を否定している訳じゃ無く 
優れていても万能では無いし 
あまりに強調する事によって適切な使い方を見失わないようにという事
394名無し 2010/10/27(水) 14:23:12.88
>>385 
槍は集団戦闘には向いているが障害物があると弱い 
兵士自身が障害物になる混戦に持ち込まれたら日本刀のように容易に振り回せて突き・払い・受け流しなどでも使える日本刀は確かに有利
392名無し 2010/10/27(水) 10:44:49.37
>>385 
これ眉唾な話だな 
>薩摩軍は太刀をふりかざし弓をもって、
 猛烈な勢いで来襲し、鉄砲など目にもくれなかったからである 

薩摩は国元にこの地では鉄砲が必要 
鉄砲が足らない。とにかく鉄砲を送れと
具体的な数字を指定して催促した史料が残っている 

大体泗川の戦いの決定的な勝利要因は
鉄砲隊を前提とした戦術の釣り野伏せがハマって大成功したからで 
薩摩は昔から鉄砲ありきの軍団だろ 

鉄砲捨てて太刀振りかざすとか示現流のイメージからきてるっぽいから
江戸時代につくられた創作じゃないか 
それかお前の創作か 
具体的な史料が書いてないのでなんともいえないが
393名無し 2010/10/27(水) 11:57:04.77
豊後篇第七〇章(第二部八七章) 
「豊後の最後の破壊、および本年当初の出来事について」 
土佐の鉄砲隊は味方から全面的に期待をかけられていながら 
鉄砲を発射する時間も場所もないほどであった。 
というのは、薩摩軍は太刀をふりかざし弓をもって、猛烈な勢いで来襲し、 
鉄砲など目にもくれなかったからである。 

『日本史』西九州編第二六章(第一部一〇〇章) 
「深堀が長崎を襲った次第、および彼の敗北と、
 戦闘におけるその不運な結果について」 
かの老人とその息子たちと養子は、激しい戦闘心に燃え、槍を刀に代え、 
いとも巧妙に、かつ激しく戦ったので、敵は誰しも皆驚嘆し、大いに苦境に陥った。 

『日本史』西九州編第五三章(第二部五二章) 
「野戦が行われ、隆信が戦死し、その軍勢が壊滅した次第」 
彼我の戦備は極度にちぐはぐであった。 
すなわち隆信勢は多数の鉄砲を有していたが弓の数は少なく、 
長槍と短い太刀を持っていたのに反し、 
薩摩勢は鉄砲の数が少なかったが多くの弓を持ち、
短い槍と非常に長い太刀を備えていた。 
そして戦闘が開始された。 

それは熾烈をきわめ、両軍とも槍を構える暇もなく、 
手当たり次第に刀で相手の槍を切り払った。 
薩摩勢は、敵の槍など眼中にないかのように、 
その中に身を投じ、鉄砲も弾を込める 
間がないので射つのをやめてしまった。
395名無し 2010/10/27(水) 17:40:51.50
なんでそこまで大刀にこだわるのかわからん 
戦術上で長距離は鉄砲・弓、中距離は槍なのは当然で 
大多数の歩兵の主力武器は槍なのはしょうがない
396名無し 2010/10/27(水) 17:44:18.73
別にこれは槍自体を否定している訳じゃ無く 
優れていても万能では無いし 
あまりに強調する事によって適切な使い方を見失わないようにという事 
398名無し 2010/10/27(水) 17:53:02.82
槍と日本刀でどちらかが一方的に上っていうことも無い 状況によって変わる話 
何度も言うが槍や鉄砲の有効性の否定ではない 
実戦では槍が刀に負けている例が多数ある 

武藝圖譜通志 
倭軍と対陣すると、倭軍はたちまち死に物狂いで突進してくる。 
我が軍は、手に槍を持ち、剣を帯びていても、その剣は鞘を出る暇も無く、 
槍は矛先を交えることもできずに、凶刃のもとにやられてしまうのである 

程宗猷 単刀法選 
日本刀法は神秘的だ。 
左右への変化がすさまじく誰にも予測できない。 
そのせいで槍を持ってしても毎回日本刀に負けてしまう。 

紀効新書・長刀解
彼らは舞うような歩法を用い、前方への突進力は光が閃くようで
我ら明の兵は気を奪われるのみだった。 
日本人はよく躍動し、一度動き出せば丈あまり、
刀の長さは五尺なので一丈五尺の間合でも攻撃される。 
我が兵の剣では近づき難く、槍では遅すぎ、遭遇すればみな両断されて殺される 

399名無し 2010/10/27(水) 17:54:27.27
鉄砲もまたしかりアサルトライフルじゃないんだし
当時の大陸の鳥銃等の火器では完全に武士の接近を抑え
一方的に攻撃し続けることは不可能だった 

「揮刀如神」 
「日本の武士の刀術はまるで神の如しだ。 
我々の明兵は武士を見れば皆身がすくみ逃げ腰になる。 
刀術に優れた武士だが刀術だけではなく
飛び道具の扱いも我が銃兵と互角である。 

弓の扱いも我が弓兵と互角
そのほかあらゆる兵科と比べて不足が見つからない。 
本当に日本人は殺戮者だ。

その家には刀を持たぬものは無く、 子供の頃から剣術を鍛えられ始め、
壮年にいたれば手に負えなくなる。 
それゆえ接近戦は日本の武士に一方的に有利で明兵では相手にならない。 
日本人を有効的に殺せるのは火器のみである。 

であるにも拘らず、多くの鳥銃を擁している場合でも勝てないのは外でもない。 
日本人は戦いに臨んで命を忘れるが、
我が明兵は戦いに臨んで恐れて逃げるため、 
その鉛子は地に堕ち、あるいは薬線が法なく、
手震え、目眩み、天を仰いで空しく発射する為である。」
400名無し 2010/10/27(水) 17:55:55.45
団体が抜刀して斬り込まれたらそらビビりますよ
401名無し 2010/10/27(水) 17:58:46.49
抜刀して切り込んで混戦に持ち込まないと刀の優位性が発揮できないからな
402名無し 2010/10/27(水) 17:59:22.31
こちらは倭寇の事ではあるが参考まで 

戚継光 「紀効新書・長刀解」
此は日本人が我が国に攻めてきた時初めてわかったことである。 
彼らは舞うような歩法を用い、
前方への突進力は光が閃くようで我ら明の兵は気を奪われるのみだった。 
日本人はよく躍動し、一度動き出せば丈あまり、
刀の長さは五尺なので一丈五尺の間合でも攻撃される。 

我が兵の剣では近づき難く、槍では遅すぎ、遭遇すればみな両断されて殺される。 
これは彼らの武器が鋭利であり、
さらに両手で振れるため強力で重い刀を自在に用いているためである。 
こちらもただやられてばかりではない。 
武士には遠くからの鳥銃が有効である。

だが武士は全く臆せず攻めたり刺したりできる至近まで突っ込んでくる 
兼ねてよりこの銃手が弾を込める間に時間を取られて接近を許すことが多い 
その勢いを止められない 
武士の刀捌きは軽くて長く 
接近を許した後の我が軍の銃手の動きは鈍重すぎる。 

われわれの剣は銃を捨てて即座に対応するための有効な武器ではないのだ。 
それゆえ我々も日本式の長い刀を備えるべきだ。
404名無し 2010/10/27(水) 18:15:25.74