123: 名無し 2010/01/31(日) 23:26:25
蜀滅亡戦と言えば、剣閣放棄後の鍾会の行った部署も興味深い。
鍾会の率いたのは18万の内12万。
その内、それぞれ1万を漢城と楽城の包囲に割いている。
また、黄金囲で抵抗を続けていた柳隠にも軍を割いているし、
連絡線の防護にある程度の軍を割いていただろう。
鍾会の率いたのは18万の内12万。
その内、それぞれ1万を漢城と楽城の包囲に割いている。
また、黄金囲で抵抗を続けていた柳隠にも軍を割いているし、
連絡線の防護にある程度の軍を割いていただろう。
諸葛緒の率いた軍を接収したとしても、剣閣を抜けた時点で使える兵力は、
15万を超える事はないだろう。
そして鍾会は、剣閣を抜けると姜維を包囲する為に自軍を分けて進ませている。
一部は剣閣より巴方面へと真っ直ぐ姜維を追い、
また別の一部は涪から南下し、三つ目は大渡へと向っている。
そこに鍾会率いる涪の予備を合わせ、全部で大きく四つに軍を分割している。
したがって、個々の軍は3万から4万と言ったところだ。
この時の姜維の軍勢は、鍾会の言によれば4,5万となる。
つまり、分遣された各軍は姜維と接触したとしても、場合によっては拮抗するが、
恐らく姜維に対して6割から8割程度の戦力で当たらざるを得なくなる。
各軍の進み方や、姜維と接触した後の遅滞行動の巧拙によっては、
各個撃破される可能性もあっただろう。
ましてや益州は敵地であり、句安以外に街道の状態等を知っているものが
どれだけいたかも分からない。
そして、鍾会は夏侯咸や皇甫闓に更なる軍の分割を命じている。
地勢を恃みに抵抗する事を期待したらしいが、どれだけ成功する見込みがあったのか。
15万を超える事はないだろう。
そして鍾会は、剣閣を抜けると姜維を包囲する為に自軍を分けて進ませている。
一部は剣閣より巴方面へと真っ直ぐ姜維を追い、
また別の一部は涪から南下し、三つ目は大渡へと向っている。
そこに鍾会率いる涪の予備を合わせ、全部で大きく四つに軍を分割している。
したがって、個々の軍は3万から4万と言ったところだ。
この時の姜維の軍勢は、鍾会の言によれば4,5万となる。
つまり、分遣された各軍は姜維と接触したとしても、場合によっては拮抗するが、
恐らく姜維に対して6割から8割程度の戦力で当たらざるを得なくなる。
各軍の進み方や、姜維と接触した後の遅滞行動の巧拙によっては、
各個撃破される可能性もあっただろう。
ましてや益州は敵地であり、句安以外に街道の状態等を知っているものが
どれだけいたかも分からない。
そして、鍾会は夏侯咸や皇甫闓に更なる軍の分割を命じている。
地勢を恃みに抵抗する事を期待したらしいが、どれだけ成功する見込みがあったのか。
124: 名無し 2010/02/01(月) 22:11:10
>>123
剣閣を放棄した姜維が「広漢,妻阝道」即ち南東に逃げているのに対し
鍾会は追撃とともに南西の新都,大渡(成都近辺?)に兵を向けているので
姜維が劉禅と合流するのを防ごうとしたとするのが一番の理由だろうけど
鍾会のことだから姜維を包囲して倒せると思っていても不思議はない
(司馬昭相手に独立を企む輩が自信家でないはずがない)
実際姜維は成都の鄧艾にではなく涪の鍾会に降伏しているから
鍾会の目論見は当たっていたということでしょ
(成都の方が行き易かったら鄧艾に降伏するだろうし)
後は剣閣攻防戦で補給に苦しんでいたから兵を分けて徴発していたとか?
(でも魏側が補給で苦労していた記録はあるけど蜀側の状況は分からない
緜竹の敗北で剣閣を放棄したんだから余裕があった訳じゃないと思うけど)
剣閣を放棄した姜維が「広漢,妻阝道」即ち南東に逃げているのに対し
鍾会は追撃とともに南西の新都,大渡(成都近辺?)に兵を向けているので
姜維が劉禅と合流するのを防ごうとしたとするのが一番の理由だろうけど
鍾会のことだから姜維を包囲して倒せると思っていても不思議はない
(司馬昭相手に独立を企む輩が自信家でないはずがない)
実際姜維は成都の鄧艾にではなく涪の鍾会に降伏しているから
鍾会の目論見は当たっていたということでしょ
(成都の方が行き易かったら鄧艾に降伏するだろうし)
後は剣閣攻防戦で補給に苦しんでいたから兵を分けて徴発していたとか?
(でも魏側が補給で苦労していた記録はあるけど蜀側の状況は分からない
緜竹の敗北で剣閣を放棄したんだから余裕があった訳じゃないと思うけど)
131: 名無し 2010/02/07(日) 13:38:03
>>124
ただ姜維を成都に行かせないという事なら、
戦力の大半を成都方面に向かわせれば良い。
鍾会の言葉と行った部署を見るに、やはり姜維の包囲、
そしてその撃破或いは武装解除が頭にあったと思う。
鍾会の行った分の分散は、確かに各個撃破の危険をはらんでいるが、
実際には仕方ない面もある。
敵軍の位置などというものは数十kmも離れたら分からなくなるし、
一日行程の距離があるだけでも、斥侯が敵を捕捉し、
その情報を本隊に持ってくるだけで、
もう敵軍の位置が変わって接触できなくなる、というのもよくある。
だから、ただ一個の強力な軍で姜維を捕捉しようとしても、
別な道を通られてあっさり成都入城を許してしまうかもしれない。
したがって、考えうる全ての道を塞ぎ、且つ、
迅速に分散した軍を集結させる必要がある。
姜維の前を遮ろうとした軍を特に分散させたのは、
やはりそういった意図からだろう。
姜維が鍾会に降伏した理由は、鍾会伝を読めば、
使者の言にそうあったと取る事ができる。
むしろ興味深いのは、劉禅からの使者が姜維の元へあっさりと到達している事だろう。
成都が降伏していた以上、姜維が成都と連絡を取り合いながら
撤退していたわけでなはいので、
使者は姜維の正確な位置を知る事はできなかったはず。
それができたという事は、恐らく鍾会の派遣した胡烈らの軍が、
姜維の位置をかなりの精度で掴んでいたという事だろう。
実際に姜維と胡烈が接触した後、胡烈が姜維に撃破されていたかはともかくとして、
姜維の位置を掴むという、姜維を包囲するために最も重要な事はできていた事になる。
ただ姜維を成都に行かせないという事なら、
戦力の大半を成都方面に向かわせれば良い。
鍾会の言葉と行った部署を見るに、やはり姜維の包囲、
そしてその撃破或いは武装解除が頭にあったと思う。
鍾会の行った分の分散は、確かに各個撃破の危険をはらんでいるが、
実際には仕方ない面もある。
敵軍の位置などというものは数十kmも離れたら分からなくなるし、
一日行程の距離があるだけでも、斥侯が敵を捕捉し、
その情報を本隊に持ってくるだけで、
もう敵軍の位置が変わって接触できなくなる、というのもよくある。
だから、ただ一個の強力な軍で姜維を捕捉しようとしても、
別な道を通られてあっさり成都入城を許してしまうかもしれない。
したがって、考えうる全ての道を塞ぎ、且つ、
迅速に分散した軍を集結させる必要がある。
姜維の前を遮ろうとした軍を特に分散させたのは、
やはりそういった意図からだろう。
姜維が鍾会に降伏した理由は、鍾会伝を読めば、
使者の言にそうあったと取る事ができる。
むしろ興味深いのは、劉禅からの使者が姜維の元へあっさりと到達している事だろう。
成都が降伏していた以上、姜維が成都と連絡を取り合いながら
撤退していたわけでなはいので、
使者は姜維の正確な位置を知る事はできなかったはず。
それができたという事は、恐らく鍾会の派遣した胡烈らの軍が、
姜維の位置をかなりの精度で掴んでいたという事だろう。
実際に姜維と胡烈が接触した後、胡烈が姜維に撃破されていたかはともかくとして、
姜維の位置を掴むという、姜維を包囲するために最も重要な事はできていた事になる。
132: 名無し 2010/02/07(日) 15:05:15
>>131
鍾会が追っ手を出した時点で劉禅はまだ降伏していなかっただろうから
姜維が成都に入る前に包囲して撃破するつもりだったのかな
劉禅が姜維に対して鍾会に降伏するよう指示したのは
鍾会を司令官とみなしていたからなのか
姜維の居場所を鍾会の方が近いと判断したのか
それとも他に理由があったのか?
ただ姜維は劉禅を守ることを考えていたみたいだし
使者すら送れないほど余裕がなかったとは思えないから
成都とは連絡は取っていたと思う
鍾会が追っ手を出した時点で劉禅はまだ降伏していなかっただろうから
姜維が成都に入る前に包囲して撃破するつもりだったのかな
劉禅が姜維に対して鍾会に降伏するよう指示したのは
鍾会を司令官とみなしていたからなのか
姜維の居場所を鍾会の方が近いと判断したのか
それとも他に理由があったのか?
ただ姜維は劉禅を守ることを考えていたみたいだし
使者すら送れないほど余裕がなかったとは思えないから
成都とは連絡は取っていたと思う
133: 名無し 2010/02/07(日) 18:22:29
>>132
劉禅が降伏を決める前の成都の連中に議論では、姜維の事は言及されていない。
姜維が降伏の勅書を持った使者と会ったのがシ県であるのだから、
降伏を決めかねていた時点での姜維の位置は、
恐らく成都から100km程の位置であり、
姜維なら1週間と掛からずに到達できる。
諸葛瞻の敗死を聞いてから降伏の勅書を受け取るまでの間に
300kmもの距離を踏破している姜維だから、
或いはもっと早かったかもしれない。
それを成都の連中が知っていたのなら、
姜維に頼る事も選択肢として言及していたはずだと思う。
ただまぁ、涪や雒を通り北側から成都へ至る道が使えない以上、
東広漢を通って東から成都に至る道か、
大きく迂回して南から成都に入るかしかないのだから、
姜維が敵をかわすための極端な機動を行わない限りは、
姜維の正確な位置を掴んでいなくとも、
姜維のもとへ使者を送る事は可能だったのかもしれない。
劉禅が降伏を決める前の成都の連中に議論では、姜維の事は言及されていない。
姜維が降伏の勅書を持った使者と会ったのがシ県であるのだから、
降伏を決めかねていた時点での姜維の位置は、
恐らく成都から100km程の位置であり、
姜維なら1週間と掛からずに到達できる。
諸葛瞻の敗死を聞いてから降伏の勅書を受け取るまでの間に
300kmもの距離を踏破している姜維だから、
或いはもっと早かったかもしれない。
それを成都の連中が知っていたのなら、
姜維に頼る事も選択肢として言及していたはずだと思う。
ただまぁ、涪や雒を通り北側から成都へ至る道が使えない以上、
東広漢を通って東から成都に至る道か、
大きく迂回して南から成都に入るかしかないのだから、
姜維が敵をかわすための極端な機動を行わない限りは、
姜維の正確な位置を掴んでいなくとも、
姜維のもとへ使者を送る事は可能だったのかもしれない。
134: 名無し 2010/02/07(日) 21:25:45
>>133
緜竹失陥後の成都での議論は,譙周の降伏論を除けば
孫呉に逃げるか南中に逃げるかしか出てこない
要するに成都で抵抗して何とかできるとは誰も思っていない
(劉諶ですら社稷のために死ぬことしか主張していない)
そこだけ見ると姜維の居場所を知らなかった可能性はある
でも東広漢郡で撤退中の姜維からすれば
自身の戦力がまだ残っていて劉禅を守るつもりがあったのだから
成都に使者を送ってその旨を伝える程度の知恵はあったと思う
(>>132で言った様にそこまで余裕を失っていたとまでは思わない)
(ただ,263年初めに曹魏の侵攻を察知したときに
援軍要請をもみ消されたにもかかわらず何の対応も取っていないことから
成都と連絡を取ること自体あきらめていた可能性もあるけど)
譙周の降伏論も戦力の多寡は全く問題にされていないから
姜維がいても大勢は変わらないと思っていたのではないかと
緜竹失陥後の成都での議論は,譙周の降伏論を除けば
孫呉に逃げるか南中に逃げるかしか出てこない
要するに成都で抵抗して何とかできるとは誰も思っていない
(劉諶ですら社稷のために死ぬことしか主張していない)
そこだけ見ると姜維の居場所を知らなかった可能性はある
でも東広漢郡で撤退中の姜維からすれば
自身の戦力がまだ残っていて劉禅を守るつもりがあったのだから
成都に使者を送ってその旨を伝える程度の知恵はあったと思う
(>>132で言った様にそこまで余裕を失っていたとまでは思わない)
(ただ,263年初めに曹魏の侵攻を察知したときに
援軍要請をもみ消されたにもかかわらず何の対応も取っていないことから
成都と連絡を取ること自体あきらめていた可能性もあるけど)
譙周の降伏論も戦力の多寡は全く問題にされていないから
姜維がいても大勢は変わらないと思っていたのではないかと
136: 名無し 2010/02/08(月) 23:13:23
>>134
姜維が撤退の途上で伝令を成都に送ったというのは当然あり得る話。
ただ、その伝令が成都へ着いたのは降伏が決定された後だろう。
譙周の言ならば、姜維の救援を分かっていても問題にしないのも頷けるが、
成都で抵抗する事を主張した劉諶が敗北を前提として語っているのは不可解に過ぎる。
これは、降伏決定時に姜維の位置や動向を
成都は掴んでいなかったという事になると思う。
仮に姜維の位置を成都が知ったのが姜維の伝令によるものだとしても、
それは降伏後に来た伝令からもたらされたものだろう。
剣閣放棄~シ県での武装解除までの期間が分からないものの、
その期間の取り方にもよるが、鄧艾に降伏した後、
姜維よりの伝令で姜維の動向とそのおおよその位置を知った朝廷が、
太僕の蒋顕を姜維の元に派遣した、という事も考え得る。
姜維が撤退の途上で伝令を成都に送ったというのは当然あり得る話。
ただ、その伝令が成都へ着いたのは降伏が決定された後だろう。
譙周の言ならば、姜維の救援を分かっていても問題にしないのも頷けるが、
成都で抵抗する事を主張した劉諶が敗北を前提として語っているのは不可解に過ぎる。
これは、降伏決定時に姜維の位置や動向を
成都は掴んでいなかったという事になると思う。
仮に姜維の位置を成都が知ったのが姜維の伝令によるものだとしても、
それは降伏後に来た伝令からもたらされたものだろう。
剣閣放棄~シ県での武装解除までの期間が分からないものの、
その期間の取り方にもよるが、鄧艾に降伏した後、
姜維よりの伝令で姜維の動向とそのおおよその位置を知った朝廷が、
太僕の蒋顕を姜維の元に派遣した、という事も考え得る。
137: 名無し 2010/02/11(木) 23:39:31
興味を引くこととして、降伏命令を受け取った後の姜維の行動がある。
姜維はシ県で武装を解除して涪の鍾会の元へ赴いたが、
自分たちの持っていた節などは胡烈の元へ送っている。
降伏命令は成都から発せられたのだから、
鍾会軍の状況までしっているわけがなく、
命令にそこまで規定してあったとは考え難い。
これは姜維の判断と見た方が自然だろう。
では何故胡烈に送ったのか?
これは恐らく、両軍がかなり接近し、
会戦に至ろうという状況だったからではないだろうか?
胡烈に対して状況を説明し、戦闘の意思がない事を示さないと、
鍾会の元へ降伏する前に攻撃を受けてしまう公算が高かったからだと考えられる。
あと少し降伏が遅かったら、胡烈と姜維との間で戦闘が起こっていたかもしれない。
姜維はシ県で武装を解除して涪の鍾会の元へ赴いたが、
自分たちの持っていた節などは胡烈の元へ送っている。
降伏命令は成都から発せられたのだから、
鍾会軍の状況までしっているわけがなく、
命令にそこまで規定してあったとは考え難い。
これは姜維の判断と見た方が自然だろう。
では何故胡烈に送ったのか?
これは恐らく、両軍がかなり接近し、
会戦に至ろうという状況だったからではないだろうか?
胡烈に対して状況を説明し、戦闘の意思がない事を示さないと、
鍾会の元へ降伏する前に攻撃を受けてしまう公算が高かったからだと考えられる。
あと少し降伏が遅かったら、胡烈と姜維との間で戦闘が起こっていたかもしれない。
138: 名無し 2010/02/12(金) 12:56:53
姜維のことは正直あまり好きではないけど、
こういう判断のソツのなさ一つとっても、優れた軍隊指揮官だったのは疑いない。
うまく表現できないけどいかにも「プロ」って感じがする。
こういう判断のソツのなさ一つとっても、優れた軍隊指揮官だったのは疑いない。
うまく表現できないけどいかにも「プロ」って感じがする。
139: 名無し 2010/02/12(金) 17:47:01
9=アレクサンダー、ハンニバル、カエサル、フリードリヒ
8=項羽、シャルルマーニュ、リチャード獅子心王
7=曹操、フィリップ尊厳王
6=姜維
5=
4=
3=
2=
1=趙括、馬謖
こんくらい
8=項羽、シャルルマーニュ、リチャード獅子心王
7=曹操、フィリップ尊厳王
6=姜維
5=
4=
3=
2=
1=趙括、馬謖
こんくらい
141: 名無し 2010/02/12(金) 18:02:28
姜維の実力は張コウと同じくらいじゃね
余力を残して舞台から去った感
余力を残して舞台から去った感
142: 名無し 2010/02/12(金) 18:33:26
張コウほどといえるかは疑問だが優れた指揮官ではあっただろう
143: 名無し 2010/02/12(金) 19:26:24
9=アレクサンダー、白起、韓信、ハンニバル、カエサル、フリードリヒ、ダヴー
8=項羽、シャルルマーニュ、リチャード獅子心王
7=曹操、フィリップ尊厳王、ナポレオン
6=張コウ、姜維、ウェリントン
5=
4=
3=趙括、馬謖
2=
1=
こんくらいだろ
8=項羽、シャルルマーニュ、リチャード獅子心王
7=曹操、フィリップ尊厳王、ナポレオン
6=張コウ、姜維、ウェリントン
5=
4=
3=趙括、馬謖
2=
1=
こんくらいだろ
144: 名無し 2010/02/12(金) 19:30:17
9=アレクサンダー、白起、韓信、ダヴー
8=項羽、ハンニバル、カエサル、フリードリヒ、ナポレオン
7=曹操、シャルルマーニュ、リチャード獅子心王
6=張コウ、姜維、フィリップ尊厳王、ウェリントン
5=
4=
3=趙括、馬謖
2=
1=
9は常勝不敗が前提条件じゃないか。
8=項羽、ハンニバル、カエサル、フリードリヒ、ナポレオン
7=曹操、シャルルマーニュ、リチャード獅子心王
6=張コウ、姜維、フィリップ尊厳王、ウェリントン
5=
4=
3=趙括、馬謖
2=
1=
9は常勝不敗が前提条件じゃないか。
146: 名無し 2010/02/12(金) 20:37:20
4~6の普通の指揮官は7~9には先ず勝てないな
147: 名無し 2010/02/12(金) 22:10:39
姜維は思うことあって鍾会に降ったのでは無く、
眼前に胡烈軍がいたからそのまま鍾会の元に出頭したというわけか。
眼前に胡烈軍がいたからそのまま鍾会の元に出頭したというわけか。
148: 名無し 2010/02/12(金) 23:55:58
>>147
言い切る事はできないが、
「誰々のもとに降れ」という明確な指示があったわけではなく、
胡烈軍の前で武装解除→胡烈が鍾会のもとへ行くよう指示
という流れと考えた方が自然に思える。
鍾会に降るようわざわざ指示するのも不自然だしね。
普通に考えれば手近な魏軍に降るよう指示すると思う。
ただ、仮に胡烈と姜維が非常に接近していたとしたら、
胡烈は予定されていた経路を外れ、涪からほぼ真っ直ぐに南下している。
成都の東方を南北に走る山地の手前で姜維を遮ろうとしたのだろう。
推測し得る姜維の撤退経路だと、剣閣からシ県まで約300km、
剣閣から真っ直ぐ涪に出て、そこからシ県まで南下すると約200kmとなる。
この100kmの差で、
何とか姜維の前に出る事ができそうだったというところだと思う。
そうなると皇甫闓らと作戦線が接近しすぎているので、
皇甫闓の方は実際は真っ直ぐ南下したのではなく、
涪水に沿う形で南下したのかもしれない。
いずれにせよ、胡烈は1日か2日耐えれば、
皇甫闓らの援軍を得て姜維を撃破できた公算は高い。
降伏が無かったとしても、姜維がよほど優れた指揮をしない限り、
敗北は免れなかっただろう。
言い切る事はできないが、
「誰々のもとに降れ」という明確な指示があったわけではなく、
胡烈軍の前で武装解除→胡烈が鍾会のもとへ行くよう指示
という流れと考えた方が自然に思える。
鍾会に降るようわざわざ指示するのも不自然だしね。
普通に考えれば手近な魏軍に降るよう指示すると思う。
ただ、仮に胡烈と姜維が非常に接近していたとしたら、
胡烈は予定されていた経路を外れ、涪からほぼ真っ直ぐに南下している。
成都の東方を南北に走る山地の手前で姜維を遮ろうとしたのだろう。
推測し得る姜維の撤退経路だと、剣閣からシ県まで約300km、
剣閣から真っ直ぐ涪に出て、そこからシ県まで南下すると約200kmとなる。
この100kmの差で、
何とか姜維の前に出る事ができそうだったというところだと思う。
そうなると皇甫闓らと作戦線が接近しすぎているので、
皇甫闓の方は実際は真っ直ぐ南下したのではなく、
涪水に沿う形で南下したのかもしれない。
いずれにせよ、胡烈は1日か2日耐えれば、
皇甫闓らの援軍を得て姜維を撃破できた公算は高い。
降伏が無かったとしても、姜維がよほど優れた指揮をしない限り、
敗北は免れなかっただろう。
149: 名無し 2010/02/13(土) 07:11:32
>>148
それだと胡烈は姜維の動向を把握していたことになるけど
内側に入って足止めなり撃破なりできればいいものの
もし諸葛緒みたいに姜維にかわされた場合
姜維の成都到着を許してしまう恐れがあるから
独断で行動を変えた可能性は低いと思う
また胡烈の役割からして鍾会と涪まで同行するとは思えないし
鍾会の指示で変えたなら上言で「新都、大渡」に出たとは書かないだろう
だから胡烈は予定通り新都、大渡方面に向かったと思う
(到着後に東に向かった可能性はあるけど)
姜維は「妻阝」で降伏命令を受領しているから
武装解除して成都に出頭しようと西に向かい
遭遇した胡烈の指示で涪に向かったのではないかと思う
それだと胡烈は姜維の動向を把握していたことになるけど
内側に入って足止めなり撃破なりできればいいものの
もし諸葛緒みたいに姜維にかわされた場合
姜維の成都到着を許してしまう恐れがあるから
独断で行動を変えた可能性は低いと思う
また胡烈の役割からして鍾会と涪まで同行するとは思えないし
鍾会の指示で変えたなら上言で「新都、大渡」に出たとは書かないだろう
だから胡烈は予定通り新都、大渡方面に向かったと思う
(到着後に東に向かった可能性はあるけど)
姜維は「妻阝」で降伏命令を受領しているから
武装解除して成都に出頭しようと西に向かい
遭遇した胡烈の指示で涪に向かったのではないかと思う
150: 名無し 2010/02/14(日) 09:57:52
姜維は東道を通って涪に向かったとあるから
>>149の
>だから胡烈は予定通り新都、大渡方面に向かったと思う
>(到着後に東に向かった可能性はあるけど)
は「胡烈は新都か大渡に到着してから東に向かった」に訂正する
あとスレの流れとは外れるけど
この時期の姜維の連絡体制の不備が気になる
例えば263年初め(資治通鑑だと262年)の時点で
魏の侵攻を察知した姜維は成都に増援を求め
巫女の言葉を信じた黄皓と劉禅に握りつぶされているけど
そのことを群臣は「知らなかった」とされるから
姜維は正式な上表以外に連絡手段を持っておらず
成都には個人的に連絡を取れる相手もいなかったことになる
また増援要求を握りつぶされた姜維は何の対応も取らず
漢中の防衛体制が増強・変更された形跡はないから
自身が行った上表の結果も知らず
漢中との連絡も出来ていなかった可能性が高い
姜維を更迭しようとしていた黄皓に
平尚書事の諸葛瞻や董厥が関与していたとする記録もあるから
この時点で姜維は孤立していたのではないか
>>149の
>だから胡烈は予定通り新都、大渡方面に向かったと思う
>(到着後に東に向かった可能性はあるけど)
は「胡烈は新都か大渡に到着してから東に向かった」に訂正する
あとスレの流れとは外れるけど
この時期の姜維の連絡体制の不備が気になる
例えば263年初め(資治通鑑だと262年)の時点で
魏の侵攻を察知した姜維は成都に増援を求め
巫女の言葉を信じた黄皓と劉禅に握りつぶされているけど
そのことを群臣は「知らなかった」とされるから
姜維は正式な上表以外に連絡手段を持っておらず
成都には個人的に連絡を取れる相手もいなかったことになる
また増援要求を握りつぶされた姜維は何の対応も取らず
漢中の防衛体制が増強・変更された形跡はないから
自身が行った上表の結果も知らず
漢中との連絡も出来ていなかった可能性が高い
姜維を更迭しようとしていた黄皓に
平尚書事の諸葛瞻や董厥が関与していたとする記録もあるから
この時点で姜維は孤立していたのではないか
152: 名無し 2010/02/15(月) 22:19:07
>>149-151
あの鍾会伝の文章だと、シ県で武装解除した後に西進したようには見えない。
シ県での武装解除の段階で胡烈の位置を姜維が把握しており、
シ県から節伝を送り届けたように読める。
「送節伝」だし。
剣閣から涪の辺りで真っ直ぐに南下するのと、新都の大渡津を経由するのとでは、
シ県の西方で姜維の前に出るのに距離が30~50km違う。
大渡津に出たのなら、戦術の上でもそこで姜維を待つべきで、
わざわざ敵の眼前で、比高300m程とは言え山を越える利点はない。
大渡で姜維と胡烈が会ったのなら、普通に考えればそのまま北上して涪に入る。
ご自分でも指摘されているように「東道」は通らない。
新都大渡をそのまま受け取ってしまうと、
胡烈の行動が合理的じゃなくなるように思える。
まぁ、
・シ県で勅令を受け武装を解除した事
・節伝を胡烈へ送った事
・東道を通って涪の鍾会に降伏した事
くらいから正確に状況を推し量るのは難しいと思う。
で、姜維が孤立していたか、という事だけど、
姜維はそもそも、魏軍襲来に至ると漢中とすら連絡を取れていない。
それ以前はともかく、少なくとも鄧艾と対峙して以降はその形跡は無い。
姜維からの明確な指令のないまま、
傅僉と蒋舒がばらばらに行動した事からそれが分かる。
これは督漢中が置かれていなかったという事が大きいと思う。
宰相が漢中に出ると督漢中は解任されるのが通常だったので、
沓中に姜維がいた事でその慣例が適用されていた、とも取れるが、
軍事的な合理性を考慮すると不自然。
単純に、陳祗の死によって姜維の発言力が低下し、
胡済以降の督漢中の後任人事を思うように進められなかったという事だと思う。
あの鍾会伝の文章だと、シ県で武装解除した後に西進したようには見えない。
シ県での武装解除の段階で胡烈の位置を姜維が把握しており、
シ県から節伝を送り届けたように読める。
「送節伝」だし。
剣閣から涪の辺りで真っ直ぐに南下するのと、新都の大渡津を経由するのとでは、
シ県の西方で姜維の前に出るのに距離が30~50km違う。
大渡津に出たのなら、戦術の上でもそこで姜維を待つべきで、
わざわざ敵の眼前で、比高300m程とは言え山を越える利点はない。
大渡で姜維と胡烈が会ったのなら、普通に考えればそのまま北上して涪に入る。
ご自分でも指摘されているように「東道」は通らない。
新都大渡をそのまま受け取ってしまうと、
胡烈の行動が合理的じゃなくなるように思える。
まぁ、
・シ県で勅令を受け武装を解除した事
・節伝を胡烈へ送った事
・東道を通って涪の鍾会に降伏した事
くらいから正確に状況を推し量るのは難しいと思う。
で、姜維が孤立していたか、という事だけど、
姜維はそもそも、魏軍襲来に至ると漢中とすら連絡を取れていない。
それ以前はともかく、少なくとも鄧艾と対峙して以降はその形跡は無い。
姜維からの明確な指令のないまま、
傅僉と蒋舒がばらばらに行動した事からそれが分かる。
これは督漢中が置かれていなかったという事が大きいと思う。
宰相が漢中に出ると督漢中は解任されるのが通常だったので、
沓中に姜維がいた事でその慣例が適用されていた、とも取れるが、
軍事的な合理性を考慮すると不自然。
単純に、陳祗の死によって姜維の発言力が低下し、
胡済以降の督漢中の後任人事を思うように進められなかったという事だと思う。
153: 名無し 2010/02/16(火) 07:42:46
>>152
姜維伝では門を開けて降伏したとしかないけど
漢晋春秋では城を出る前に傅僉を欺いたとあり
蜀記では恨みを持っていたとまであるから
蒋舒は自分の意志で降伏を決定したことになり
姜維(又は中央から)の指令の有無は関係ないと思う
また蜀記では蒋舒は武興督から漢中守の配下に左遷されたとあり
華陽國志では分将蒋舒と督傅僉とあることから
この時点での漢中防衛の責任者は傅僉であった可能性が高い
(季漢輔臣賛注では傅僉が「関中都督」だったとあるけど
「関中」が「漢中」の間違いか「関城」を指すのかは分からない)
姜維伝では門を開けて降伏したとしかないけど
漢晋春秋では城を出る前に傅僉を欺いたとあり
蜀記では恨みを持っていたとまであるから
蒋舒は自分の意志で降伏を決定したことになり
姜維(又は中央から)の指令の有無は関係ないと思う
また蜀記では蒋舒は武興督から漢中守の配下に左遷されたとあり
華陽國志では分将蒋舒と督傅僉とあることから
この時点での漢中防衛の責任者は傅僉であった可能性が高い
(季漢輔臣賛注では傅僉が「関中都督」だったとあるけど
「関中」が「漢中」の間違いか「関城」を指すのかは分からない)
154: 名無し 2010/02/18(木) 23:10:42
>>153
この場合、蒋舒の思惑がどうであったかなどは意味を為さないだろう。
傅僉は漢晋春秋で、
「城を保つ命令を受けたのだから、それに背いて出撃し、
若し軍を失って国が負けるような事になれば、死んでも益無しである。」
と蒋舒に語っているにもかかわらず、結局は蒋舒を押さえ込む事ができていない。
また、姜維伝の注に引く蜀記にも、「漢中の守備を助けさせた」とあるだけで、
彼が傅僉の麾下に組み込まれたとは書かれていない。
華陽国志の分将と都督という記述のみを以って彼らの指揮系統を考えても、
実際の行動と乖離していて受け入れ難いだろう。
したがって、蒋舒は傅僉の指揮系統に入っているわけではなく、
蒋舒の行動を規制し得る正式な通達も関城に届いていなかったと考えるのが自然。
関中都督は劉備の即位にともなって呉懿も就いている職であるから、
誤記とも考え難いし、ましてや傅僉の方だけ誤記という事は無いだろう。
また、この関中が三輔を指しているとも考え難い。
関中という名前から考えれば、関城から葭萌関(或いは剣閣)まで、
もしくは陽平関から関城までの地域の都督を指していたと考えるのが
良いかもしれない。
この場合、蒋舒の思惑がどうであったかなどは意味を為さないだろう。
傅僉は漢晋春秋で、
「城を保つ命令を受けたのだから、それに背いて出撃し、
若し軍を失って国が負けるような事になれば、死んでも益無しである。」
と蒋舒に語っているにもかかわらず、結局は蒋舒を押さえ込む事ができていない。
また、姜維伝の注に引く蜀記にも、「漢中の守備を助けさせた」とあるだけで、
彼が傅僉の麾下に組み込まれたとは書かれていない。
華陽国志の分将と都督という記述のみを以って彼らの指揮系統を考えても、
実際の行動と乖離していて受け入れ難いだろう。
したがって、蒋舒は傅僉の指揮系統に入っているわけではなく、
蒋舒の行動を規制し得る正式な通達も関城に届いていなかったと考えるのが自然。
関中都督は劉備の即位にともなって呉懿も就いている職であるから、
誤記とも考え難いし、ましてや傅僉の方だけ誤記という事は無いだろう。
また、この関中が三輔を指しているとも考え難い。
関中という名前から考えれば、関城から葭萌関(或いは剣閣)まで、
もしくは陽平関から関城までの地域の都督を指していたと考えるのが
良いかもしれない。
159: 名無し 2010/02/19(金) 22:20:39
>>154
蒋舒は魏軍が迫る前から降伏することを考えていて
(だから蜀記では降伏する理由が述べられ
漢晋春秋では関城から出るために使った術が述べられている)
蒋舒の降伏と関城陥落(傅僉の戦死)が一体で語られているのだから
関城防御に関して蒋舒の思惑が意味を為さないなんてことはない
また漢晋春秋の傅僉の言を真とするなら
出撃を主張する蒋舒に「受命保城…今違命出戦…」と返している傅僉は
傅僉自身が従うべき命令を明確に理解していたことになる
だから姜維(や成都)からの正式な命令の有無は全く関係ない
単に傅僉が蒋舒を制御できなかったに過ぎない
(それが権限の問題か実力の問題かは分からないけど)
この時点で傅僉に蒋舒を制御又は処罰する権限がなかったのなら
仮に姜維(や成都)からの正式な命令があったとしても
それが傅僉の権限を引き上げる様な内容でない限り
蒋舒を制御することは無理ということになる
(単に行動方針を伝えるだけの命令だったら
どっちみち蒋舒を制御することは出来なかっただろう)
蒋舒は魏軍が迫る前から降伏することを考えていて
(だから蜀記では降伏する理由が述べられ
漢晋春秋では関城から出るために使った術が述べられている)
蒋舒の降伏と関城陥落(傅僉の戦死)が一体で語られているのだから
関城防御に関して蒋舒の思惑が意味を為さないなんてことはない
また漢晋春秋の傅僉の言を真とするなら
出撃を主張する蒋舒に「受命保城…今違命出戦…」と返している傅僉は
傅僉自身が従うべき命令を明確に理解していたことになる
だから姜維(や成都)からの正式な命令の有無は全く関係ない
単に傅僉が蒋舒を制御できなかったに過ぎない
(それが権限の問題か実力の問題かは分からないけど)
この時点で傅僉に蒋舒を制御又は処罰する権限がなかったのなら
仮に姜維(や成都)からの正式な命令があったとしても
それが傅僉の権限を引き上げる様な内容でない限り
蒋舒を制御することは無理ということになる
(単に行動方針を伝えるだけの命令だったら
どっちみち蒋舒を制御することは出来なかっただろう)
160: 名無し 2010/02/19(金) 22:29:24
>>159
例え傅僉に蒋舒を制御する権限が無かったとしても、
蜀軍全体の総司令官とも言うべき姜維から正式な関城固守の命令が来ていたなら、
それを盾に傅僉が蒋舒を押さえ込む事ができたはず。
仮に正式な命令が来ていたにもかかわらず、傅僉が蒋舒を押さえ込めなかったのなら、
傅僉は限りなく愚かな人間という事になる。
それを受け入れる事ができるなら、それはそれで構わないし、これ以上言う事は無い。
例え傅僉に蒋舒を制御する権限が無かったとしても、
蜀軍全体の総司令官とも言うべき姜維から正式な関城固守の命令が来ていたなら、
それを盾に傅僉が蒋舒を押さえ込む事ができたはず。
仮に正式な命令が来ていたにもかかわらず、傅僉が蒋舒を押さえ込めなかったのなら、
傅僉は限りなく愚かな人間という事になる。
それを受け入れる事ができるなら、それはそれで構わないし、これ以上言う事は無い。
161: 名無し 2010/02/19(金) 23:00:40
>>160
正式な命令が来てても現場の独自判断で行動することはあるだろう。
もちろん失敗したら蒋舒が命令違反で処断されるだけだし。
傅僉にまで連帯責任が行くかは分からないけど
蒋舒なりに勝機を見出したがゆえの出撃の主張だと傅僉が騙されるのも無理はない
正式な命令が来てても現場の独自判断で行動することはあるだろう。
もちろん失敗したら蒋舒が命令違反で処断されるだけだし。
傅僉にまで連帯責任が行くかは分からないけど
蒋舒なりに勝機を見出したがゆえの出撃の主張だと傅僉が騙されるのも無理はない
162: 名無し 2010/02/19(金) 23:06:37
>>161
優秀な司令官は、相当な裁量を部下指揮官に許すものだし、
現場の判断で独断させる事は当然ある。
だがいずれにしても、出撃して魏軍を攻撃するなら全軍で行うべきだし、
関城を守備するならやはり全軍で行うべき。
強大な敵を前にして軍を分割し中途半端な対応を取ったのなら、
やはりその司令官は愚かと言わざるを得ない。
関城の守備と敵への攻撃に軍を二分したと言う事実を考えると、
傅僉に蒋舒を押さえ込む権限が無かったか、
或いは傅僉がどうしようもないほど愚かだった、
という結論以外に導かれない。
これで納得できないなら、この話は終わりだ。
俺とあなたはこれに関して相容れない、それだけの事。
優秀な司令官は、相当な裁量を部下指揮官に許すものだし、
現場の判断で独断させる事は当然ある。
だがいずれにしても、出撃して魏軍を攻撃するなら全軍で行うべきだし、
関城を守備するならやはり全軍で行うべき。
強大な敵を前にして軍を分割し中途半端な対応を取ったのなら、
やはりその司令官は愚かと言わざるを得ない。
関城の守備と敵への攻撃に軍を二分したと言う事実を考えると、
傅僉に蒋舒を押さえ込む権限が無かったか、
或いは傅僉がどうしようもないほど愚かだった、
という結論以外に導かれない。
これで納得できないなら、この話は終わりだ。
俺とあなたはこれに関して相容れない、それだけの事。
164: 名無し 2010/02/19(金) 23:53:11
>>162
個人的には傅僉は司令官として力不足だったと思っているけど
別にあなたの主張を否定するつもりはないですよ
個人的には傅僉は司令官として力不足だったと思っているけど
別にあなたの主張を否定するつもりはないですよ
174: 名無し 2010/02/25(木) 13:33:38
>>162
或いは、傅僉は蒋舒に比べれば愚かだったか。
政治と軍事がほぼ分断された状況でも蜀という国が成立していたのは、
姜維の蜀を支えようという意思が大きかったんだろうな。
或いは、傅僉は蒋舒に比べれば愚かだったか。
政治と軍事がほぼ分断された状況でも蜀という国が成立していたのは、
姜維の蜀を支えようという意思が大きかったんだろうな。
165: 名無し 2010/02/20(土) 22:03:50
この時期の姜維って相当政治的に危ないけど
軍部での人望はあったのだろうか
軍部での人望はあったのだろうか
166: 名無し 2010/02/20(土) 22:21:44
軍部の希望の星的存在だったんじゃないかと思っている。
172: 名無し 2010/02/21(日) 21:33:44
>>165,>>166
姜維は曹魏からの降伏者で蜀漢内部に基盤を持たなかったし
軍部での人望がなければそもそも大将軍までなれないだろうから
戦功を含めた上での人望があったのは間違いないと思う
また黄皓らが姜維更迭を図って成功しなかったとされるから
末期でも軍部内では人望は保っていたと思う
ただ姜維と成都や漢中の諸軍との連絡がとれなくなった形跡があることから
人望を失っていく最中だった可能性はある
姜維は曹魏からの降伏者で蜀漢内部に基盤を持たなかったし
軍部での人望がなければそもそも大将軍までなれないだろうから
戦功を含めた上での人望があったのは間違いないと思う
また黄皓らが姜維更迭を図って成功しなかったとされるから
末期でも軍部内では人望は保っていたと思う
ただ姜維と成都や漢中の諸軍との連絡がとれなくなった形跡があることから
人望を失っていく最中だった可能性はある
173: 名無し 2010/02/21(日) 21:41:55
張翼とかとは折り合いが悪かったっぽいな
ケジメは付けるタイプだから協力しあってたようだが
ケジメは付けるタイプだから協力しあってたようだが
176: 名無し 2010/02/25(木) 15:37:08
大軍相手に小勢側が軍を分けて対応するというのは
兵法の論理ではそれほどおかしく無いんだけどな
大軍率いてるのに小勢相手に軍を分けちゃう愚か者がいる可能性も、
万が一には有るかもしれないから
兵法の論理ではそれほどおかしく無いんだけどな
大軍率いてるのに小勢相手に軍を分けちゃう愚か者がいる可能性も、
万が一には有るかもしれないから
178: 名無し 2010/02/26(金) 07:46:33
>>176
関城は成都への道を塞ぐ防衛上の最重要拠点だし
魏軍は他の拠点が落ちていないにもかかわらず
関城を攻略したらそのまま進軍しているから
全力で守るべきだったとは思う
ただこの件で
兵を分けたとするのは漢晋春秋しかなく
三国志と蜀記が「開城出降」華陽國志が「開門降」とあるから
個人的には蒋舒は胡烈が関城に迫ってきた時点で降伏したと思う
関城は成都への道を塞ぐ防衛上の最重要拠点だし
魏軍は他の拠点が落ちていないにもかかわらず
関城を攻略したらそのまま進軍しているから
全力で守るべきだったとは思う
ただこの件で
兵を分けたとするのは漢晋春秋しかなく
三国志と蜀記が「開城出降」華陽國志が「開門降」とあるから
個人的には蒋舒は胡烈が関城に迫ってきた時点で降伏したと思う
179: 名無し 2010/02/26(金) 11:21:38
>>178
まぁまず降伏するよね。
成都からの援軍が無い(というか軍役に就いてたものが…)事は分かってるし、
姜維の軍が来た所でなぁ…
集中させても守りきれるかどうかって感じだし
まぁまず降伏するよね。
成都からの援軍が無い(というか軍役に就いてたものが…)事は分かってるし、
姜維の軍が来た所でなぁ…
集中させても守りきれるかどうかって感じだし
180: 名無し 2010/02/26(金) 23:18:52
>>179
征蜀の役の初期に蜀軍が守りきれなかったのは
諸軍が連携できなかったのも一因だと思うので
その前の姜維の援軍要請が握りつぶされたとき
遅くても廖化が諸葛緒の武都侵攻を知った時点で
戦線を縮小して関城等の防御を固めるだけの決断が出来ていれば
少しは延命させることは可能だったと思う
(漢中、武都、陰平の大部分を明け渡すことになるから
そのうち滅ぼされるのは避けられないと思うけど)
また姜維の才能が「そのまま」諸葛瞻に移るのなら
諸葛瞻が大軍を率いるだけの身分を得る前の250年代に
魏に対して攻勢を保つこと自体難しいだろうから
もっと早い段階で陳泰あたりに滅ぼされていた可能性もある
もし姜維の才能がそのままあって
諸葛瞻に諸葛亮並みの統率力とカリスマがあって
更に姜維並みの軍才が備わっていたら
もっと国を保たせることは可能だったと思う
征蜀の役の初期に蜀軍が守りきれなかったのは
諸軍が連携できなかったのも一因だと思うので
その前の姜維の援軍要請が握りつぶされたとき
遅くても廖化が諸葛緒の武都侵攻を知った時点で
戦線を縮小して関城等の防御を固めるだけの決断が出来ていれば
少しは延命させることは可能だったと思う
(漢中、武都、陰平の大部分を明け渡すことになるから
そのうち滅ぼされるのは避けられないと思うけど)
また姜維の才能が「そのまま」諸葛瞻に移るのなら
諸葛瞻が大軍を率いるだけの身分を得る前の250年代に
魏に対して攻勢を保つこと自体難しいだろうから
もっと早い段階で陳泰あたりに滅ぼされていた可能性もある
もし姜維の才能がそのままあって
諸葛瞻に諸葛亮並みの統率力とカリスマがあって
更に姜維並みの軍才が備わっていたら
もっと国を保たせることは可能だったと思う
181: 名無し 2010/02/26(金) 23:34:18
>>180
結局あと2枚ほど人材が足りなかったってことか…
陸抗クラスの人材があと1人でもいればな
結局あと2枚ほど人材が足りなかったってことか…
陸抗クラスの人材があと1人でもいればな
183: 名無し 2010/02/27(土) 22:41:55
>>180
関城と橋頭に戦力を集中して敵を撤退にまで持っていけば、
漢中、武都、陰平の大部分はそのまま取り返せると思うよ。
敵地への遠征だし、それらを領有化できるほど長くは留まれない。
それに、遠征軍の主力が引き上げてしまえば、
その地に留まる魏軍は蜀軍に抗し切れないだろう。
個人的には、なぜ廖化らを白水関ではなく橋頭に置こうとしたのか、
というのが気になる。
公孫述の築いた白水関も、この頃にはボロボロになっていたという事だろうか?
関城と橋頭に戦力を集中して敵を撤退にまで持っていけば、
漢中、武都、陰平の大部分はそのまま取り返せると思うよ。
敵地への遠征だし、それらを領有化できるほど長くは留まれない。
それに、遠征軍の主力が引き上げてしまえば、
その地に留まる魏軍は蜀軍に抗し切れないだろう。
個人的には、なぜ廖化らを白水関ではなく橋頭に置こうとしたのか、
というのが気になる。
公孫述の築いた白水関も、この頃にはボロボロになっていたという事だろうか?
185: 名無し 2010/02/28(日) 09:48:57
>>183
確かに関城と橋頭で止められれば撤退させられるね
剣閣まで下がっていたときと混同してた
ただこの時撃退に成功したとしても
諸葛亮が武都、陰平を奪取したときとは違って
魏は陰平に直接侵攻できる程西方まで支配を固めつつあったから
しばらくは3郡争奪戦が続いていたと思う
確かに関城と橋頭で止められれば撤退させられるね
剣閣まで下がっていたときと混同してた
ただこの時撃退に成功したとしても
諸葛亮が武都、陰平を奪取したときとは違って
魏は陰平に直接侵攻できる程西方まで支配を固めつつあったから
しばらくは3郡争奪戦が続いていたと思う
186: 名無し 2010/02/28(日) 13:16:43
消耗戦になったら蜀終了ですよね
187: 名無し 2010/02/28(日) 22:42:21
いずれにせよ、段谷~陳祗の死と黄皓の専横、の流れでジリ貧だからね。
姜維が沓中に留まっていた時点で、隴西魏軍>姜維軍、という戦力だったろうし。
橋頭と関城で何とか防いでその後に挽回するとしても、
汶山や隴西の羌胡の動向が重要になると思う。
そういう点でも王嗣の死は惜しい気がするね。
姜維が沓中に留まっていた時点で、隴西魏軍>姜維軍、という戦力だったろうし。
橋頭と関城で何とか防いでその後に挽回するとしても、
汶山や隴西の羌胡の動向が重要になると思う。
そういう点でも王嗣の死は惜しい気がするね。
191: 名無し 2010/03/24(水) 17:40:26
鍾会と鄧艾が良将だった
198: 名無し 2010/12/22(水) 13:38:08
三国時代末期になると豪傑ってほとんど見なくなるけどこれは何でだ?
初期の頃ってまともに訓練してなさそうな農民とか山賊でも
かなり強いのがいて取り立てられてるのに、
末期の頃はそういうのがまったくいない
これは新世代の蜀兵が実戦経験不足だからとか、
そういうのは関係無いと思うんだが
強いのは元々強いだろうし
初期の頃ってまともに訓練してなさそうな農民とか山賊でも
かなり強いのがいて取り立てられてるのに、
末期の頃はそういうのがまったくいない
これは新世代の蜀兵が実戦経験不足だからとか、
そういうのは関係無いと思うんだが
強いのは元々強いだろうし
199: 名無し 2010/12/22(水) 18:27:13
それまで平和だったから強豪は在野にいて暴れまわって噂になったけど、
軍事制度が発達してしまうと、
腕っ節の強いのは最初っから兵士に取り立てられて、普通に仕事として
戦争をするようになるんじゃないか?
ぽっと出の怪物って鄧艾ぐらいだよなあ。
軍事制度が発達してしまうと、
腕っ節の強いのは最初っから兵士に取り立てられて、普通に仕事として
戦争をするようになるんじゃないか?
ぽっと出の怪物って鄧艾ぐらいだよなあ。
201: 名無し 2010/12/29(水) 22:59:52
実は、この戦争を考えてて一番わくわくするのは
剣閣を放棄した後だと思うんだよね。
鍾会は典型的な外線作戦を展開し、姜維は内線の態勢に置かれている。
鍾会は軍を四分割しているので、分割の仕方にもよるが、
姜維の率いている軍より規模の小さい軍の方が多い。
内線作戦は主導権を握り続けなければならないので成功させるのは困難だけど、
外線作戦も各軍の連携を取る事が非常に困難なので、
実際は付け入る隙は大いにある。
鍾会は万全の部署を行ったように語っているが、
これは姜維が降伏した後の上言であって、
姜維の包囲を部署した段階では、
姜維の位置を把握できていなかった公算は大きい。
敵軍の位置を正確に把握するのが困難である事は戦史から分かる事だしね。
と言うか、把握できていなかったからこそ、
あれだけ広範囲に軍を機動させたんだろう。
仮にあのまま展開したとして、姜維がどう戦ったかは非常に興味深い。
この辺りの展開の仮想戦記を考えるには、
劉禅の降伏を無視しないといけないのが残念だね。
剣閣を放棄した後だと思うんだよね。
鍾会は典型的な外線作戦を展開し、姜維は内線の態勢に置かれている。
鍾会は軍を四分割しているので、分割の仕方にもよるが、
姜維の率いている軍より規模の小さい軍の方が多い。
内線作戦は主導権を握り続けなければならないので成功させるのは困難だけど、
外線作戦も各軍の連携を取る事が非常に困難なので、
実際は付け入る隙は大いにある。
鍾会は万全の部署を行ったように語っているが、
これは姜維が降伏した後の上言であって、
姜維の包囲を部署した段階では、
姜維の位置を把握できていなかった公算は大きい。
敵軍の位置を正確に把握するのが困難である事は戦史から分かる事だしね。
と言うか、把握できていなかったからこそ、
あれだけ広範囲に軍を機動させたんだろう。
仮にあのまま展開したとして、姜維がどう戦ったかは非常に興味深い。
この辺りの展開の仮想戦記を考えるには、
劉禅の降伏を無視しないといけないのが残念だね。
202: 名無し 2010/12/29(水) 23:27:07
>>201
鄧艾を捕捉・殲滅して、鐘会の軍を各個撃破すると言う無理ゲーだけどな。
たしかに鄧艾の軍と、分割された鐘会の軍一つずつに勝つのは、
姜維なら簡単だろうけど、
一つと戦ってる間に、他の四つの軍がそれだけ成都に近付いてくわけだから、
一つでも倒し損ねると成都が攻撃されて終わってしまう。
鄧艾を捕捉・殲滅して、鐘会の軍を各個撃破すると言う無理ゲーだけどな。
たしかに鄧艾の軍と、分割された鐘会の軍一つずつに勝つのは、
姜維なら簡単だろうけど、
一つと戦ってる間に、他の四つの軍がそれだけ成都に近付いてくわけだから、
一つでも倒し損ねると成都が攻撃されて終わってしまう。
203: 名無し 2010/12/29(水) 23:50:30
>>202
そう。これは鄧艾と成都の存在がネックになってるんだよね。
姜維には鍾会の軍を各個撃破するという以前に、
成都を救うという優先的な目標がある。
だから姜維の作戦行動は大きな制約を受けてしまうので、
鍾会の軍の撃破すら覚束なくなってしまう。
そして、内線作戦である以上、
敵軍の撃破は全て決定的に行わなくてはならないってのも大変。
敵を撃破して、後退する敵軍を追撃させる任に就かせるには、
廖化辺りでは力不足だろうし。
恐らくはリニーの戦いにおけるグルーシーの追撃のような展開になってしまうだろう。
相手が相手なので、
「それでも姜維なら…姜維ならきっと何とかしてくれる」とはならないんだよねぇ。
そう。これは鄧艾と成都の存在がネックになってるんだよね。
姜維には鍾会の軍を各個撃破するという以前に、
成都を救うという優先的な目標がある。
だから姜維の作戦行動は大きな制約を受けてしまうので、
鍾会の軍の撃破すら覚束なくなってしまう。
そして、内線作戦である以上、
敵軍の撃破は全て決定的に行わなくてはならないってのも大変。
敵を撃破して、後退する敵軍を追撃させる任に就かせるには、
廖化辺りでは力不足だろうし。
恐らくはリニーの戦いにおけるグルーシーの追撃のような展開になってしまうだろう。
相手が相手なので、
「それでも姜維なら…姜維ならきっと何とかしてくれる」とはならないんだよねぇ。
204: 名無し 2010/12/30(木) 00:10:41
>>203
さらに問題なのが、鐘会の軍の四軍のどれかよりも、
実際に成都を降伏させた鄧艾の軍の方が
明らかに弱体だった可能性が高い事なんだよな。
つまり、鄧艾の軍と鐘会の四軍のうち三つを殲滅できても、
鐘会の四軍のうちの一つが成都に迫ったら、
間違いなく成都は降伏してた可能性が高い。
分進されても、合流されて十万以上の兵力を叩きつけられても、
剣閣を失った以上、 姜維が守りきるのはほぼ不可能だったろうな。
さらに問題なのが、鐘会の軍の四軍のどれかよりも、
実際に成都を降伏させた鄧艾の軍の方が
明らかに弱体だった可能性が高い事なんだよな。
つまり、鄧艾の軍と鐘会の四軍のうち三つを殲滅できても、
鐘会の四軍のうちの一つが成都に迫ったら、
間違いなく成都は降伏してた可能性が高い。
分進されても、合流されて十万以上の兵力を叩きつけられても、
剣閣を失った以上、 姜維が守りきるのはほぼ不可能だったろうな。
205: 名無し 2010/12/30(木) 00:21:37
>>204
鍾会がどこまで情報を掴んでいたかも重要だね。
諸葛瞻の撃破まで掴んでいて、鄧艾が成都に迫っている事を知っていたとしたら、
鍾会にはもとより自身の軍を成都に差し向ける気が無かった事になる。
なので、鄧艾が成都で挫折した場合の鍾会の行動を推測すると、
軍を成都に向けるという選択は取らないと思うんだよね。
鄧艾が成功しようが失敗しようが、
姜維さえ潰せば蜀の抵抗力の一切は失われるので、
わざわざ軍を分割して成都に向けようとは思わないだろう。
鄧艾の成否の如何にかかわらず、
当時の鍾会は姜維の捕捉と撃破に全力を傾注していたと考えられる。
むしろ、鄧艾が失敗してくれた方が
全ての手柄が自分に来ると思ってたんじゃないかな?
勝機を見出すとすればそこだね。
その状況になれば、
姜維としては如何に鍾会軍を撃ち破るかだけを考えれば良い。
鍾会がどこまで情報を掴んでいたかも重要だね。
諸葛瞻の撃破まで掴んでいて、鄧艾が成都に迫っている事を知っていたとしたら、
鍾会にはもとより自身の軍を成都に差し向ける気が無かった事になる。
なので、鄧艾が成都で挫折した場合の鍾会の行動を推測すると、
軍を成都に向けるという選択は取らないと思うんだよね。
鄧艾が成功しようが失敗しようが、
姜維さえ潰せば蜀の抵抗力の一切は失われるので、
わざわざ軍を分割して成都に向けようとは思わないだろう。
鄧艾の成否の如何にかかわらず、
当時の鍾会は姜維の捕捉と撃破に全力を傾注していたと考えられる。
むしろ、鄧艾が失敗してくれた方が
全ての手柄が自分に来ると思ってたんじゃないかな?
勝機を見出すとすればそこだね。
その状況になれば、
姜維としては如何に鍾会軍を撃ち破るかだけを考えれば良い。
206: 名無し 2010/12/30(木) 01:47:45
更に少し考えよう。
まず、この時の鍾会の戦力を推定する。
鍾会は当初12万を率い、漢城と楽城の監視にそれぞれ1万を割いているので、
剣閣に達した時点で10万となる。
それに諸葛緒の率いた3万と、鄧艾の残余の軍1万程度を加えると14万。
連絡線の防護にいくらか戦力を割いたとして、
剣閣を抜いた時点で姜維の包囲に使える戦力は12,3万といったところ。
これをどのように分割したかだが、
当然の事ながら均等に分割はしていないだろう。
剣閣を放棄した姜維が成都に向かおうとしている事は自明なので、
それに合わせて戦力を配分したと考えられる。
最も大きな戦力を割り当てられたのは恐らく姜維の前を遮る胡烈らだろう。
姜維と接触する公算が最も高いので、
容易には撃破されないだけの戦力である必要がある。
次いで句安らだが、彼らは姜維と同じ道を通らなくてはならない為、
あまりに大きな戦力だと機動力が落ちて捕捉出来ない。
また、句安らは撃破されたとしても作戦の進行上大きな支障は生じないため、
彼らには姜維、或いは姜維軍の一部を拘束するに足る程度の戦力しか
割り当てられなかっただろう。
最後に王買軍。
王買軍は胡烈らの勝利を決定的なものとする為の戦力であり、
副次的な目的しか持っていない。
また、鍾会自ら救援するのが最も容易い位置関係である。
したがって、王買軍にもそこまで大きな戦力は必要ない。
恐らく最も少ない戦力だっただろう。
その辺りを勘案して、自分が鍾会の立場であると仮定して戦力を配分すると、
胡烈:5万、句安:3万、王買:2万、鍾会:2~3万
こんな感じになる。
まず、この時の鍾会の戦力を推定する。
鍾会は当初12万を率い、漢城と楽城の監視にそれぞれ1万を割いているので、
剣閣に達した時点で10万となる。
それに諸葛緒の率いた3万と、鄧艾の残余の軍1万程度を加えると14万。
連絡線の防護にいくらか戦力を割いたとして、
剣閣を抜いた時点で姜維の包囲に使える戦力は12,3万といったところ。
これをどのように分割したかだが、
当然の事ながら均等に分割はしていないだろう。
剣閣を放棄した姜維が成都に向かおうとしている事は自明なので、
それに合わせて戦力を配分したと考えられる。
最も大きな戦力を割り当てられたのは恐らく姜維の前を遮る胡烈らだろう。
姜維と接触する公算が最も高いので、
容易には撃破されないだけの戦力である必要がある。
次いで句安らだが、彼らは姜維と同じ道を通らなくてはならない為、
あまりに大きな戦力だと機動力が落ちて捕捉出来ない。
また、句安らは撃破されたとしても作戦の進行上大きな支障は生じないため、
彼らには姜維、或いは姜維軍の一部を拘束するに足る程度の戦力しか
割り当てられなかっただろう。
最後に王買軍。
王買軍は胡烈らの勝利を決定的なものとする為の戦力であり、
副次的な目的しか持っていない。
また、鍾会自ら救援するのが最も容易い位置関係である。
したがって、王買軍にもそこまで大きな戦力は必要ない。
恐らく最も少ない戦力だっただろう。
その辺りを勘案して、自分が鍾会の立場であると仮定して戦力を配分すると、
胡烈:5万、句安:3万、王買:2万、鍾会:2~3万
こんな感じになる。
207: 名無し 2010/12/30(木) 10:55:33
>>206
その計算だと、鄧艾が勝利した場合に姜維が戦うべき相手は、
鄧艾軍1万、胡烈軍5万、句安:3万、王買:2万、鍾会:2~3万。
しかし、位置関係を考えると、姜維が鄧艾を撃破しようとしたら、
その間に鐘会軍が取り返しの付かないぐらい
蜀本土の奥深くまで進軍する可能性が高いし、
鐘会軍の4軍の各個撃破に力を入れてたら、その間に鄧艾が成都まで進出して、
鐘会軍すべてを撃滅する前に成都が降伏する。
鄧艾が敗北した場合には、
胡烈軍5万、句安:3万、王買:2万、鍾会:2~3万。になるな。
こうなると、多少余裕が生まれる。姜維は鐘会軍の撃滅に全力を入れるだろう。
また、後背に諸葛瞻軍が控えているから、だいぶ楽になる。
姜維が敗北しても、諸葛瞻と合流して再戦を挑めるし、
勝ち続けたらその間に諸葛瞻が姜維と合流するかもしれない。
姜維が大打撃を受けて戦えなくなっても、まだ諸葛瞻が一戦できる。
しかし、鐘会が鄧艾の敗北を知ってて、なおかつ4軍のうち一つが敗れたら、
その時点で他の3軍は合流、もしくは連携して一つの戦場で
姜維以上の兵力を投入できるよう努力するだろう。
こうなると姜維の勝ち目は薄くなる。
鐘会軍が鄧艾軍の敗北を知らず、なおかつ鐘会が4軍全部各個撃破されるまで、
何も手を打たなかった場合、ようやく勝負が成り立つか。
その計算だと、鄧艾が勝利した場合に姜維が戦うべき相手は、
鄧艾軍1万、胡烈軍5万、句安:3万、王買:2万、鍾会:2~3万。
しかし、位置関係を考えると、姜維が鄧艾を撃破しようとしたら、
その間に鐘会軍が取り返しの付かないぐらい
蜀本土の奥深くまで進軍する可能性が高いし、
鐘会軍の4軍の各個撃破に力を入れてたら、その間に鄧艾が成都まで進出して、
鐘会軍すべてを撃滅する前に成都が降伏する。
鄧艾が敗北した場合には、
胡烈軍5万、句安:3万、王買:2万、鍾会:2~3万。になるな。
こうなると、多少余裕が生まれる。姜維は鐘会軍の撃滅に全力を入れるだろう。
また、後背に諸葛瞻軍が控えているから、だいぶ楽になる。
姜維が敗北しても、諸葛瞻と合流して再戦を挑めるし、
勝ち続けたらその間に諸葛瞻が姜維と合流するかもしれない。
姜維が大打撃を受けて戦えなくなっても、まだ諸葛瞻が一戦できる。
しかし、鐘会が鄧艾の敗北を知ってて、なおかつ4軍のうち一つが敗れたら、
その時点で他の3軍は合流、もしくは連携して一つの戦場で
姜維以上の兵力を投入できるよう努力するだろう。
こうなると姜維の勝ち目は薄くなる。
鐘会軍が鄧艾軍の敗北を知らず、なおかつ鐘会が4軍全部各個撃破されるまで、
何も手を打たなかった場合、ようやく勝負が成り立つか。
208: 名無し 2010/12/30(木) 13:31:06
姜維が鍾会の包囲を突破して成都に到達する、というシナリオは、
たとえ達成し得たとしても大きな意義は無いと思う。
成都という場所に姜維軍が拘束されてしまえば、
鍾会はそれに合わせて包囲環を適宜圧縮し、
魏蜀の戦力差が顕著に現れてしまうだろう。
姜維が勝つには敵の分割に乗ずるしか可能性は無い。
したがって、成都が単独で鄧艾に抗し得、その間に姜維が鍾会軍を撃破する、
という方法が理想。
ただ、別の可能性があるとするならば、成都を棄てる、という方法だろう。
姜維が鍾会を振り切って成都の包囲を解き、劉禅らを自分の軍に同行させる。
そしてそのまま南方より迂回しつつ、成都に迫る鍾会軍の一部を撃破して、
四川盆地南方で機を窺う。
十数万が一個の集団として機動する事はまずないので、
鍾会は軍を再編制したらまた外線作戦の態勢を取るだろう。
そこに乗じて各個に撃破することができれば、まだ勝機はある。
ただいずれにしても、決定的に敵を撃破する勝利を
少なくとも2,3回の会戦で得なければならないので、多分姜維でも無理。
全盛期のナポレオンとかなら或いは、って思うけどね。
たとえ達成し得たとしても大きな意義は無いと思う。
成都という場所に姜維軍が拘束されてしまえば、
鍾会はそれに合わせて包囲環を適宜圧縮し、
魏蜀の戦力差が顕著に現れてしまうだろう。
姜維が勝つには敵の分割に乗ずるしか可能性は無い。
したがって、成都が単独で鄧艾に抗し得、その間に姜維が鍾会軍を撃破する、
という方法が理想。
ただ、別の可能性があるとするならば、成都を棄てる、という方法だろう。
姜維が鍾会を振り切って成都の包囲を解き、劉禅らを自分の軍に同行させる。
そしてそのまま南方より迂回しつつ、成都に迫る鍾会軍の一部を撃破して、
四川盆地南方で機を窺う。
十数万が一個の集団として機動する事はまずないので、
鍾会は軍を再編制したらまた外線作戦の態勢を取るだろう。
そこに乗じて各個に撃破することができれば、まだ勝機はある。
ただいずれにしても、決定的に敵を撃破する勝利を
少なくとも2,3回の会戦で得なければならないので、多分姜維でも無理。
全盛期のナポレオンとかなら或いは、って思うけどね。
209: 名無し 2010/12/30(木) 21:03:02
ボナピーの時代は武器の威力が強かったから
上手くはまれば敵を簡単にぶっ殺せるけど
この時代の武器でそれやろうとしたら
それこそカンネーばりの時代に卓越した超絶戦術が求められる罠
全盛期のナポレオンでも無理だろ、テクノロジー的な側面考えると
上手くはまれば敵を簡単にぶっ殺せるけど
この時代の武器でそれやろうとしたら
それこそカンネーばりの時代に卓越した超絶戦術が求められる罠
全盛期のナポレオンでも無理だろ、テクノロジー的な側面考えると
210: 名無し 2010/12/30(木) 21:14:08
皮肉な事にナポレオンの内線作戦が一番冴えてたのは、
負け戦の諸国民戦争なんだよな
結局、勝っても勝っても息の根を止められなかったから、
ライプツィヒで負けた
負け戦の諸国民戦争なんだよな
結局、勝っても勝っても息の根を止められなかったから、
ライプツィヒで負けた
211: 名無し 2010/12/30(木) 22:24:53
この時代で敵軍に決定的な損害を与えるには、
どう考えても潤沢な騎兵が必要なんだよね。
騎兵の無い追撃なんて殆ど効果が無いし。
その点で蜀軍は不利だね。
姜維は王経相手に一度そんな殲滅戦をやってるけど、
あんなものは指揮官の能力だけで達成し得るものではないので、
やはり難しい。
「敵は戦場を放棄して後退したが、損害はそこまで大きくない」
という戦闘を繰り返しても、ジリ貧になるだけだし。
ただ、ナポレオンに関しては、
実際にできるかはともかく期待を抱かせるものがあると思う。
なんというか、ナポレオンとかハンニバルとかアレクサンドロス大王とかには、
可能性とかを超越した期待を持ってしまう。
1814年のフランス防衛は確かに凄かったものの、
やはりどれも巨大な敵軍に決定的損害を与えるには至らず、
最後は追い込まれパリが陥落してしまった。
ナポレオンを以ってしても、圧倒的な敵軍を前に内線作戦で勝利するのは
並大抵の事では無いという事だね。
考えるべきは、姜維にとっての勝利は何なのか、という事かもしれない。
そしてそれは、鍾会や鄧艾にとっての勝利を考える事でもある。
姜維が皇帝を抱え、迫り来る魏軍と戦闘を繰り返しながら後退し、
南中の奥深くまで後退したとして、魏軍はそれを追撃するだろうか?
鍾会らが、成都および益州主要都市の陥落を以って己の勝利とするならば、
危険な南方地帯への追撃などせず、奪取した都市の人心の収攬と、
いずれ反攻に出るであろう蜀軍への防備を整えるに留めるだろう。
そうなると姜維に勝目は無い。
しかし鍾会らがひたすらに劉禅と姜維を追うならば、
魏軍はロシア戦役でのフランス軍のようになったかもしれない。
まぁ、姜維らが南方の異民族の反乱に遭って自滅する線も当然あるけど。
どう考えても潤沢な騎兵が必要なんだよね。
騎兵の無い追撃なんて殆ど効果が無いし。
その点で蜀軍は不利だね。
姜維は王経相手に一度そんな殲滅戦をやってるけど、
あんなものは指揮官の能力だけで達成し得るものではないので、
やはり難しい。
「敵は戦場を放棄して後退したが、損害はそこまで大きくない」
という戦闘を繰り返しても、ジリ貧になるだけだし。
ただ、ナポレオンに関しては、
実際にできるかはともかく期待を抱かせるものがあると思う。
なんというか、ナポレオンとかハンニバルとかアレクサンドロス大王とかには、
可能性とかを超越した期待を持ってしまう。
1814年のフランス防衛は確かに凄かったものの、
やはりどれも巨大な敵軍に決定的損害を与えるには至らず、
最後は追い込まれパリが陥落してしまった。
ナポレオンを以ってしても、圧倒的な敵軍を前に内線作戦で勝利するのは
並大抵の事では無いという事だね。
考えるべきは、姜維にとっての勝利は何なのか、という事かもしれない。
そしてそれは、鍾会や鄧艾にとっての勝利を考える事でもある。
姜維が皇帝を抱え、迫り来る魏軍と戦闘を繰り返しながら後退し、
南中の奥深くまで後退したとして、魏軍はそれを追撃するだろうか?
鍾会らが、成都および益州主要都市の陥落を以って己の勝利とするならば、
危険な南方地帯への追撃などせず、奪取した都市の人心の収攬と、
いずれ反攻に出るであろう蜀軍への防備を整えるに留めるだろう。
そうなると姜維に勝目は無い。
しかし鍾会らがひたすらに劉禅と姜維を追うならば、
魏軍はロシア戦役でのフランス軍のようになったかもしれない。
まぁ、姜維らが南方の異民族の反乱に遭って自滅する線も当然あるけど。
212: 名無し 2010/12/31(金) 02:04:45
Google Earthとかで南方の地形を見ると、結構険しいよね。
鍾会も、地理も分からない、蜀軍の動向もつかめないとなれば、
無理に南に軍を進めようとは思わないだろうな。
そうするとそのまま南中で自立ってのも考えられるけど、
ジリ貧だったのが更に追い込まれるだけで状況は好転しないね。
異民族ばかりの所に逃げ込んで自立自存ってのも難しいだろうし。
やはり姜維は南に後退するとしても長江の線辺りまでで決着をつけるべきだね。
鍾会も、地理も分からない、蜀軍の動向もつかめないとなれば、
無理に南に軍を進めようとは思わないだろうな。
そうするとそのまま南中で自立ってのも考えられるけど、
ジリ貧だったのが更に追い込まれるだけで状況は好転しないね。
異民族ばかりの所に逃げ込んで自立自存ってのも難しいだろうし。
やはり姜維は南に後退するとしても長江の線辺りまでで決着をつけるべきだね。
213: 名無し 2011/01/01(土) 21:11:27
さすがに一戦役だけではそこまで多くを語れないのだろうか?
魏軍の目的は成都を含めた蜀の領土を奪うことではなく、
漢の皇帝を名乗る賊の捕縛と、その国家の解体であるはずなので、
劉禅が逃げれば当然それを追う。
つまり、姜維が皇帝なら何の問題も無くなる。
最後の一兵まで戦い続けてくれるだろう。
と、ここで両軍の陣容を整理しておこう。
魏軍
○鍾会…12万
・司馬:夏侯咸
・長史:杜預
・主簿:鄧攸
・功曹:向雄
・護軍:荀愷、田続
・参軍:爰せい、皇甫闓、羊琇
・監軍:衛瓘
・帳下督:丘建
・征蜀護軍:胡烈(右将軍)
・将軍:李輔(前将軍)、句安、王買、龐会、田章
・牙門将:許儀
・太守:劉欽(魏興)
・不明:胡淵
○鄧艾…3万(内5千は涼州の羌胡)
・司馬:師纂、段灼
・太守:楊欣(金城)、王頎(天水)、牽弘(隴西)
・不明:鄧忠、柯迴
○諸葛緒…3万
魏軍の目的は成都を含めた蜀の領土を奪うことではなく、
漢の皇帝を名乗る賊の捕縛と、その国家の解体であるはずなので、
劉禅が逃げれば当然それを追う。
つまり、姜維が皇帝なら何の問題も無くなる。
最後の一兵まで戦い続けてくれるだろう。
と、ここで両軍の陣容を整理しておこう。
魏軍
○鍾会…12万
・司馬:夏侯咸
・長史:杜預
・主簿:鄧攸
・功曹:向雄
・護軍:荀愷、田続
・参軍:爰せい、皇甫闓、羊琇
・監軍:衛瓘
・帳下督:丘建
・征蜀護軍:胡烈(右将軍)
・将軍:李輔(前将軍)、句安、王買、龐会、田章
・牙門将:許儀
・太守:劉欽(魏興)
・不明:胡淵
○鄧艾…3万(内5千は涼州の羌胡)
・司馬:師纂、段灼
・太守:楊欣(金城)、王頎(天水)、牽弘(隴西)
・不明:鄧忠、柯迴
○諸葛緒…3万
214: 名無し 2011/01/03(月) 01:13:29
蜀軍
○沓中方面…2~3万?
・大将軍:姜維
・参軍:来忠(存命なら)
・牙門将;趙広
○漢中諸城…2万数千?
関城…1万程度?
・傅僉(関中都督)、蒋舒(官職不明)
漢城、楽城…各5千
・蒋斌(漢城護軍)、王含(監軍)
秦嶺諸囲…合わせて数千?
・柳隠(黄金囲督)
○武都諸囲…数百×7で3,4千?
○漢中救援軍…数千~1万
・張翼、董厥
○姜維救援軍…数千~1万
・廖化
○巴東都督麾下…1万数千
・閻宇、羅憲、楊宗
○ライ降都督麾下…1万程度?
・霍弋
○成都…1万程度?
・諸葛瞻 他
○沓中方面…2~3万?
・大将軍:姜維
・参軍:来忠(存命なら)
・牙門将;趙広
○漢中諸城…2万数千?
関城…1万程度?
・傅僉(関中都督)、蒋舒(官職不明)
漢城、楽城…各5千
・蒋斌(漢城護軍)、王含(監軍)
秦嶺諸囲…合わせて数千?
・柳隠(黄金囲督)
○武都諸囲…数百×7で3,4千?
○漢中救援軍…数千~1万
・張翼、董厥
○姜維救援軍…数千~1万
・廖化
○巴東都督麾下…1万数千
・閻宇、羅憲、楊宗
○ライ降都督麾下…1万程度?
・霍弋
○成都…1万程度?
・諸葛瞻 他
215: 名無し 2011/01/03(月) 01:14:37
何処に誰がいたかという記述が殆ど無いので、名前は挙げ難いね。
兵数に関しても分かっているのは、
・漢城と楽城の兵数
・姜維、廖化、張翼、董厥ら合わせて4,5万
・鄧艾に提出した目録での総兵力10万2千
という3点だけ。
剣閣における姜維らの兵数を4万とし、上に挙げた数字を全部足すと10万強。
各郡太守麾下の兵を足してしまうと目録の数をオーバーしてしまうが、
その辺は廖化や張翼の軍が郡兵でも構成されていたと考えれば何とかなる。
兵数に関しても分かっているのは、
・漢城と楽城の兵数
・姜維、廖化、張翼、董厥ら合わせて4,5万
・鄧艾に提出した目録での総兵力10万2千
という3点だけ。
剣閣における姜維らの兵数を4万とし、上に挙げた数字を全部足すと10万強。
各郡太守麾下の兵を足してしまうと目録の数をオーバーしてしまうが、
その辺は廖化や張翼の軍が郡兵でも構成されていたと考えれば何とかなる。
217: 名無し 2011/01/03(月) 20:57:49
魏蜀の総戦力の差以上に、人物の差が大きかった気がするな
前線で戦った将にしても、将の将にしても・・・・・・
国と国との戦いというより、姜維軍と魏軍の戦いだったから蜀は滅んだ
劉禅が国家と存亡を共にする覚悟だったなら、勝っていた可能性もあると思う
前線で戦った将にしても、将の将にしても・・・・・・
国と国との戦いというより、姜維軍と魏軍の戦いだったから蜀は滅んだ
劉禅が国家と存亡を共にする覚悟だったなら、勝っていた可能性もあると思う
218: 名無し 2011/01/03(月) 21:09:33
>>217
抗戦派の意見をことごとく封じたショウ周の議論がすべてだと思う。
要するにどんなに劉禅に抗戦意欲があっても勝ち目ない。
抗戦派の意見をことごとく封じたショウ周の議論がすべてだと思う。
要するにどんなに劉禅に抗戦意欲があっても勝ち目ない。
216: 名無し 2011/01/03(月) 19:37:21
諸葛瞻軍はもっと多くないか?
総大将の諸葛瞻以下、官僚や近衛兵の指揮官のような
実戦経験が怪しい指揮官が揃った軍で、
歴戦の鄧艾の一万を一度は撃破してるんだから、
鄧艾と同数ってことは無いと思う。
総大将の諸葛瞻以下、官僚や近衛兵の指揮官のような
実戦経験が怪しい指揮官が揃った軍で、
歴戦の鄧艾の一万を一度は撃破してるんだから、
鄧艾と同数ってことは無いと思う。
219: 名無し 2011/01/03(月) 21:18:26
>>216
涪を奪ったとは言え、強行軍で疲弊し切った鄧艾軍なので、
地の利を上手く使えば同数の戦力であっても
会戦の一局面で優勢を得る事はできるように思える。
まして鄧艾には諸葛瞻の撃破が必要なので、
諸葛瞻が固く防御している所を攻めなければならない。
諸葛瞻を大きく迂回して成都を目指すと言うのも考えられるが、
諸葛瞻の位置から成都までに、大規模な迂回を可能にするだけの地積も無く、
更に緜竹と成都は指呼の間なので、迂回しても結局会戦を強いられる。
防御に徹すれば良い諸葛瞻と、
それを攻撃して撃破しなければならない鄧艾の差が、
鄧忠と師纂の後退に現れたんだと俺は考えている。
まぁ、>>214だと動かせる軍として巴東の軍が残っているので、
鄧艾と戦った際は近衛+巴東諸軍で約2万とする事もできる。
巴東から成都の500km以上の道のりを考えると、
鄧艾の四川進出前に動いている必要があるけど。
涪を奪ったとは言え、強行軍で疲弊し切った鄧艾軍なので、
地の利を上手く使えば同数の戦力であっても
会戦の一局面で優勢を得る事はできるように思える。
まして鄧艾には諸葛瞻の撃破が必要なので、
諸葛瞻が固く防御している所を攻めなければならない。
諸葛瞻を大きく迂回して成都を目指すと言うのも考えられるが、
諸葛瞻の位置から成都までに、大規模な迂回を可能にするだけの地積も無く、
更に緜竹と成都は指呼の間なので、迂回しても結局会戦を強いられる。
防御に徹すれば良い諸葛瞻と、
それを攻撃して撃破しなければならない鄧艾の差が、
鄧忠と師纂の後退に現れたんだと俺は考えている。
まぁ、>>214だと動かせる軍として巴東の軍が残っているので、
鄧艾と戦った際は近衛+巴東諸軍で約2万とする事もできる。
巴東から成都の500km以上の道のりを考えると、
鄧艾の四川進出前に動いている必要があるけど。
220: 名無し 2011/01/03(月) 21:49:58
>>219
諸葛瞻が綿竹で守り固めてたかどうか怪しいと思う。
黄崇の防衛策を却下して、
一戦もせずにフを放棄せざるを得なかった戦音痴ぶりから考えて、
同数で鄧艾が苦戦するような堅固な守りができるとは思えない。
諸葛瞻が綿竹で守り固めてたかどうか怪しいと思う。
黄崇の防衛策を却下して、
一戦もせずにフを放棄せざるを得なかった戦音痴ぶりから考えて、
同数で鄧艾が苦戦するような堅固な守りができるとは思えない。
221: 名無し 2011/01/03(月) 22:00:14
>>220
諸葛瞻は涪まで強行軍で進み、到着した時には結構な落伍者が出てて、
涪で逡巡したのは、その集結を待とうとしからじゃないかと思ってるんだよね。
成都の慌てぶりからすると、鄧艾への対処がかなり急を要したのは間違いないし。
んで涪に着いたら、予想以上に鄧艾の進出が早く、
寡兵で進むわけにもいかず、 かと言って涪に居ても
戦力の集結前に鄧艾が到着してしまうって状況だったんじゃないかと。
それでも涪の放棄は愚策だけどね。
疲弊し切った鄧艾軍に城塞を攻略する事は出来ないだろうし、
城の規模にもよるが、5,6千もあれば涪の防御は十分可能だったろう。
誰かを派遣して落伍した兵をまとめさせて遊軍とし、
城内の軍と遊軍とで鄧艾を圧迫できれば、恐らく勝てただろうと思う。
と言う事で、戦下手である事は否定し得ないんだけど、
後方に退いて軍を集結し、
緜竹で防御を固めるくらいの判断はできたんじゃないかなぁ、と。
諸葛瞻は涪まで強行軍で進み、到着した時には結構な落伍者が出てて、
涪で逡巡したのは、その集結を待とうとしからじゃないかと思ってるんだよね。
成都の慌てぶりからすると、鄧艾への対処がかなり急を要したのは間違いないし。
んで涪に着いたら、予想以上に鄧艾の進出が早く、
寡兵で進むわけにもいかず、 かと言って涪に居ても
戦力の集結前に鄧艾が到着してしまうって状況だったんじゃないかと。
それでも涪の放棄は愚策だけどね。
疲弊し切った鄧艾軍に城塞を攻略する事は出来ないだろうし、
城の規模にもよるが、5,6千もあれば涪の防御は十分可能だったろう。
誰かを派遣して落伍した兵をまとめさせて遊軍とし、
城内の軍と遊軍とで鄧艾を圧迫できれば、恐らく勝てただろうと思う。
と言う事で、戦下手である事は否定し得ないんだけど、
後方に退いて軍を集結し、
緜竹で防御を固めるくらいの判断はできたんじゃないかなぁ、と。
222: 名無し 2011/01/03(月) 22:03:41
>>220
ここで>>219が言ってるのは実際に籠城したかできたかではなく、
一気呵成に城を抜かないと後がない条件で
戦闘せねばならない不利を言ってると思うよ。
実際の戦闘でも会戦だったんだし。
鄧忠はともかく師纂を先陣に起用するくらいだから鄧艾軍の質はあまり良くない。
行軍の無理もひびいてるに違いないし、
鍾会がいつまで剣閣で待ってくれるかも分らない。
後方にいた鄧艾に「勝てません」だから撤退しましょうと言いたかったんだろう。
たぶん鄧艾軍2万はないと思う。
ここで>>219が言ってるのは実際に籠城したかできたかではなく、
一気呵成に城を抜かないと後がない条件で
戦闘せねばならない不利を言ってると思うよ。
実際の戦闘でも会戦だったんだし。
鄧忠はともかく師纂を先陣に起用するくらいだから鄧艾軍の質はあまり良くない。
行軍の無理もひびいてるに違いないし、
鍾会がいつまで剣閣で待ってくれるかも分らない。
後方にいた鄧艾に「勝てません」だから撤退しましょうと言いたかったんだろう。
たぶん鄧艾軍2万はないと思う。
223: 名無し 2011/01/04(火) 00:48:43
諸葛瞻は鄧艾の強行軍をどう分析してたんだろう
漢中から分かれて、陰平を抜けて来た事は分かってたんだっけ
漢中から分かれて、陰平を抜けて来た事は分かってたんだっけ
224: 名無し 2011/01/04(火) 04:44:18
>>223
江油が突破された報告は届いていただろうし、
黄崇の発言からも鄧艾が江油から南下してきた事は把握している事が窺える。
一つ注目すべきは、諸葛瞻が涪を放棄する前に
「前鋒破」という事象が存在する事。
諸葛瞻は黄崇の献策に素直に従えなかったものの、
様子見の為か軍の一部を鄧艾へ向けて派遣している。
この対応が中途半端だったために、
結局は軍の士気を挫くだけに終わってしまい、
涪の放棄という愚策に走ってしまった。
父と同等とまではいかなくとも、
その半分でも軍事的センスがあれば良かったんだろうけどね。
江油が突破された報告は届いていただろうし、
黄崇の発言からも鄧艾が江油から南下してきた事は把握している事が窺える。
一つ注目すべきは、諸葛瞻が涪を放棄する前に
「前鋒破」という事象が存在する事。
諸葛瞻は黄崇の献策に素直に従えなかったものの、
様子見の為か軍の一部を鄧艾へ向けて派遣している。
この対応が中途半端だったために、
結局は軍の士気を挫くだけに終わってしまい、
涪の放棄という愚策に走ってしまった。
父と同等とまではいかなくとも、
その半分でも軍事的センスがあれば良かったんだろうけどね。
225: 名無し 2011/01/04(火) 07:02:15
>>224
姜維ぐらいセンスないと役に立たなくないか?
蜀の姜維以外の将軍程度のセンスなら、焼け石に水だと思う
姜維ぐらいセンスないと役に立たなくないか?
蜀の姜維以外の将軍程度のセンスなら、焼け石に水だと思う
226: 名無し 2011/01/04(火) 17:14:59
>>225
あの時点で鄧艾を撃退するだけなら、
姜維ほどの将じゃなくても大丈夫かと。
鄧艾にしてみれば、
あのタイミングで諸葛瞻のまとまった軍勢が現れるだけで誤算だった。
「自分が奇襲すれば、敵のがら空きの脇腹を突くことができる。
剣閣の軍勢が引き返せば鍾会は前進できるし、
そうでなければ涪で対応できる敵は寡兵である。」
なんて言ってるんだしね。
諸葛瞻が涪で粘っていたら、鄧艾軍は早晩瓦解したと思うよ。
幸運にも諸葛瞻が涪を放棄してくれたので鄧艾は前進する事ができたが、
それでも自軍に敵するような軍勢が立ちふさがっている事に変わりはない。
鄧艾は段谷の姜維に匹敵するくらい追い詰められていたと思うよ。
その状況をひっくり返したからこそ、
あの傲慢な発言が出てきたんじゃないかと。
あの時点で鄧艾を撃退するだけなら、
姜維ほどの将じゃなくても大丈夫かと。
鄧艾にしてみれば、
あのタイミングで諸葛瞻のまとまった軍勢が現れるだけで誤算だった。
「自分が奇襲すれば、敵のがら空きの脇腹を突くことができる。
剣閣の軍勢が引き返せば鍾会は前進できるし、
そうでなければ涪で対応できる敵は寡兵である。」
なんて言ってるんだしね。
諸葛瞻が涪で粘っていたら、鄧艾軍は早晩瓦解したと思うよ。
幸運にも諸葛瞻が涪を放棄してくれたので鄧艾は前進する事ができたが、
それでも自軍に敵するような軍勢が立ちふさがっている事に変わりはない。
鄧艾は段谷の姜維に匹敵するくらい追い詰められていたと思うよ。
その状況をひっくり返したからこそ、
あの傲慢な発言が出てきたんじゃないかと。
227: 名無し 2011/01/04(火) 17:29:42
>>226
そういう状況なら、黄崇の意見を聞かなかったことが悔やまれるね。
鄧艾の勝利は必然じゃなくて、
諸葛瞻の無能という偶然に助けられた面が多いわけだ。
苦しい状況から、そういう敵失に付け込んで勝利できるから、
鄧艾は凡庸ならざる将だったんだろうね。
そういう状況なら、黄崇の意見を聞かなかったことが悔やまれるね。
鄧艾の勝利は必然じゃなくて、
諸葛瞻の無能という偶然に助けられた面が多いわけだ。
苦しい状況から、そういう敵失に付け込んで勝利できるから、
鄧艾は凡庸ならざる将だったんだろうね。
228: 名無し 2011/01/04(火) 17:43:48
>>227
鄧艾の置かれた状況のやばさは、鄧忠と師纂への対応にも現れてるね。
勝たなきゃ自分たちが滅ぶという事を正しく認識していた鄧艾と、
危機感の足りない鄧忠と師纂という対比がよく表されていると思う。
その能力に加え、どんな状況に陥っても勝利を掴もうとする意志の強さは、
名将に必要な条件かと。
そして鄧艾はそれを持っていたという事だね。
鍾会は能力は高いけど、その辺は持ち合わせていない感じがする。
追い詰められた局面での彼の態度とかを考えるとね。
あの時代では鄧艾と姜維は頭一つ抜けてる感がある。
鄧艾の置かれた状況のやばさは、鄧忠と師纂への対応にも現れてるね。
勝たなきゃ自分たちが滅ぶという事を正しく認識していた鄧艾と、
危機感の足りない鄧忠と師纂という対比がよく表されていると思う。
その能力に加え、どんな状況に陥っても勝利を掴もうとする意志の強さは、
名将に必要な条件かと。
そして鄧艾はそれを持っていたという事だね。
鍾会は能力は高いけど、その辺は持ち合わせていない感じがする。
追い詰められた局面での彼の態度とかを考えるとね。
あの時代では鄧艾と姜維は頭一つ抜けてる感がある。
229: 名無し 2011/01/04(火) 18:11:08
>>228
一つ聞きたいんだけど、ショウ周が成都開城を決定付けた議論はどう思う?
群臣からは南中へ退いて抗戦を続けると言う案が出て、
それをショウ周ははっきり否定したわけだけど、
南中での抗戦と、呉への亡命と、成都開城以外に選択肢は無かったのかと。
たとえば、成都の守りを固めて鄧艾を防いで、
その間に鐘会を振り切った姜維が来援して鄧艾を排除後成都に入って、
姜維指揮する蜀軍数万が鐘会の大軍を補給切れになるまで
籠城で抵抗するというシナリオは現実的にどうかと。
鐘会は剣閣で姜維と対峙してた時点で、補給の困難から撤退を考えていたから、
成都に姜維が入城したら、撤退せざるを得なかったような気もする。
一つ聞きたいんだけど、ショウ周が成都開城を決定付けた議論はどう思う?
群臣からは南中へ退いて抗戦を続けると言う案が出て、
それをショウ周ははっきり否定したわけだけど、
南中での抗戦と、呉への亡命と、成都開城以外に選択肢は無かったのかと。
たとえば、成都の守りを固めて鄧艾を防いで、
その間に鐘会を振り切った姜維が来援して鄧艾を排除後成都に入って、
姜維指揮する蜀軍数万が鐘会の大軍を補給切れになるまで
籠城で抵抗するというシナリオは現実的にどうかと。
鐘会は剣閣で姜維と対峙してた時点で、補給の困難から撤退を考えていたから、
成都に姜維が入城したら、撤退せざるを得なかったような気もする。
230: 名無し 2011/01/04(火) 19:55:27
>>229
降伏以外の選択肢はあったと思うよ。
ただ、>>201-212でも語っているように、
鍾会軍を何とかする必要はあったと思う。
なので、成都での篭城は残っている物資を考えると現実的ではないかな。
成都に残っている将兵や官吏を動員して1,2ヶ月篭城するだけの物資はあるけど、
そこに4,5万が入って3,4ヶ月とか篭城するには厳しい。
あえて成都を棄て
皇帝を抱えた姜維が魏軍を各個撃破するシナリオが現実的かな、と。
それでも厳しいけどね。
むしろ、生き延びるというだけなら南中の方が容易い。
いくら鍾会でも南中への追撃はためらうだろうからね。
降伏以外の選択肢はあったと思うよ。
ただ、>>201-212でも語っているように、
鍾会軍を何とかする必要はあったと思う。
なので、成都での篭城は残っている物資を考えると現実的ではないかな。
成都に残っている将兵や官吏を動員して1,2ヶ月篭城するだけの物資はあるけど、
そこに4,5万が入って3,4ヶ月とか篭城するには厳しい。
あえて成都を棄て
皇帝を抱えた姜維が魏軍を各個撃破するシナリオが現実的かな、と。
それでも厳しいけどね。
むしろ、生き延びるというだけなら南中の方が容易い。
いくら鍾会でも南中への追撃はためらうだろうからね。
231: 名無し 2011/01/04(火) 21:30:42
やっぱり分からないのは閻宇だよね。
巴東の軍を率いて成都に向かった割には、
その後に名前が出てこないし。
閻宇の軍が姜維と合流した形跡も無いし、
恐らくは鄧艾が四川に雪崩れ込んだ頃には成都に着いてたんだろうけど。
途中で発病して死んだけど、軍勢だけは成都に着いて、
諸葛瞻が率いて鄧艾に当たったとかかねぇ。
巴東の軍を率いて成都に向かった割には、
その後に名前が出てこないし。
閻宇の軍が姜維と合流した形跡も無いし、
恐らくは鄧艾が四川に雪崩れ込んだ頃には成都に着いてたんだろうけど。
途中で発病して死んだけど、軍勢だけは成都に着いて、
諸葛瞻が率いて鄧艾に当たったとかかねぇ。
232: 名無し 2011/01/04(火) 21:58:29
もたもたしてる間に成都が降伏したってとこじゃないか?
だから、記録するに値せずってことで、何も書かれなかったんじゃ?
閻宇が生きて成都に着いてたら、
降伏前に成都にいる最高位の将軍として何かしら言ってただろうし、
生きてるか死んでるかはおいといて、その兵を諸葛瞻が率いてたら、
諸葛瞻軍の指揮官が尚書や羽林の人間しか名前が残ってないってこともないだろう。
そんなのに兵を率いさせるより、巴東軍の高級武官に指揮させた方が確実だし。
さらに言うなら、閻宇が諸葛瞻出撃前に成都に着いてたら、
実戦経験の無い諸葛瞻じゃなくて、ベテランの閻宇が出撃してたと思う。
だから、記録するに値せずってことで、何も書かれなかったんじゃ?
閻宇が生きて成都に着いてたら、
降伏前に成都にいる最高位の将軍として何かしら言ってただろうし、
生きてるか死んでるかはおいといて、その兵を諸葛瞻が率いてたら、
諸葛瞻軍の指揮官が尚書や羽林の人間しか名前が残ってないってこともないだろう。
そんなのに兵を率いさせるより、巴東軍の高級武官に指揮させた方が確実だし。
さらに言うなら、閻宇が諸葛瞻出撃前に成都に着いてたら、
実戦経験の無い諸葛瞻じゃなくて、ベテランの閻宇が出撃してたと思う。
234: 名無し 2011/01/04(火) 22:18:22
閻宇については、その軍の行方が何も書かれておらず、
閻宇自身のその後も全く書かれていないので、
どう解釈しても不自然さが残るんだよね。
陳寿も降伏を目の当たりにしてたんだから、
閻宇がどうなったかくらい知っていただろうに、
何か書いてくれれば良いものを。
閻宇自身のその後も全く書かれていないので、
どう解釈しても不自然さが残るんだよね。
陳寿も降伏を目の当たりにしてたんだから、
閻宇がどうなったかくらい知っていただろうに、
何か書いてくれれば良いものを。
235: 名無し 2011/01/04(火) 22:33:53
>>234
閻宇の軍が諸葛瞻と合流してないって事だけは鉄板って言える。
理由は>>232に書いたとおり。
閻宇の軍が諸葛瞻と合流してないって事だけは鉄板って言える。
理由は>>232に書いたとおり。
237: 名無し 2011/01/05(水) 00:00:41
蜀最後の輝きと言えば異論なく羅憲さんだよな。
238: 名無し 2011/01/05(水) 14:39:06
永安城って、そんなに堅固な城だったのかな。
そういえば、羅憲って閻宇配下だっけ。
そういえば、羅憲って閻宇配下だっけ。
239: 名無し 2011/01/05(水) 15:13:21
永安攻防戦は三国時代を通じて、羅憲と呉軍の戦いしか無いけど、
対呉最大拠点である事と、
戦歴が乏しい羅憲があの兵力差で守り抜いたことを考えると、
堅城であることは疑いないと思われる。
羅憲は閻宇配下の領軍だな。たぶん閻宇軍の最高幹部。
対呉最大拠点である事と、
戦歴が乏しい羅憲があの兵力差で守り抜いたことを考えると、
堅城であることは疑いないと思われる。
羅憲は閻宇配下の領軍だな。たぶん閻宇軍の最高幹部。
240: 名無し 2011/01/05(水) 18:59:18
劉備が死ぬ直前に整備してるしな
242: 名無し 2011/01/06(木) 00:13:02
ちょこっと調べたが、劉裕、と言うか朱齢石の蜀攻めの際、
譙縦の弟の譙明子が5千人で白帝に駐屯していたような記述があるな。
白帝で抵抗したような記述は無いけど。
近い時代だと白帝での戦闘の記述は見当たらないね。
よく探せばあるかもしれないけど。
譙縦の弟の譙明子が5千人で白帝に駐屯していたような記述があるな。
白帝で抵抗したような記述は無いけど。
近い時代だと白帝での戦闘の記述は見当たらないね。
よく探せばあるかもしれないけど。
247: 名無し 2011/01/09(日) 20:23:14
白帝城=永安宮だっけ??
羅憲が篭城したのも同じ場所??
羅憲が篭城したのも同じ場所??
248: 名無し 2011/01/10(月) 01:48:43
羅憲が篭城したのは白帝だろう。
三国志に、「羅憲以重兵拠白帝」とある。
ちなみに、水経注の白帝辺りの記述は、
「江水又東巡南鄉峽、東巡永安宮南、劉備終於此、諸葛亮受遺処也。
其間平地可二十許里、江山回闊、入峽所無。
城周十余里、背山麺江、頽墉四毀、荊棘成林、左右民居、多墾其中。
江水又東巡諸葛亮図壘南、石磧平曠、望兼川陸、有亮所造八陣図、東跨故壘、皆累細石為之。
自壘西去、聚石八行、行間相去二丈、
因曰:八陣既成、自今行師、庶不覆敗。皆図兵勢行蔵之権、自後深識者所不能了。
今夏水漂蕩、歳月消損、高処可二三尺、下処磨滅殆尽。
江水又東巡赤岬城西、是公孫述所造、因山拠勢、周回七里一百四十歩、
東高二百丈、西北高一千丈、南連基白帝山、甚高大。不生樹木。
其石悉赤。土人雲、如人袒胛、故謂之赤岬山」
この後段にある赤岬(甲)城に籠もったわけではなく、白帝城の方だろうね。
城は周十余里(約6km)なので、1辺1km以上あるね。
1mに一人配置すると6千人くらい必要。
っても、山を背にして長江に面しているので、
多くても東西南の三箇所を重点的に守ればよい。
三国志に、「羅憲以重兵拠白帝」とある。
ちなみに、水経注の白帝辺りの記述は、
「江水又東巡南鄉峽、東巡永安宮南、劉備終於此、諸葛亮受遺処也。
其間平地可二十許里、江山回闊、入峽所無。
城周十余里、背山麺江、頽墉四毀、荊棘成林、左右民居、多墾其中。
江水又東巡諸葛亮図壘南、石磧平曠、望兼川陸、有亮所造八陣図、東跨故壘、皆累細石為之。
自壘西去、聚石八行、行間相去二丈、
因曰:八陣既成、自今行師、庶不覆敗。皆図兵勢行蔵之権、自後深識者所不能了。
今夏水漂蕩、歳月消損、高処可二三尺、下処磨滅殆尽。
江水又東巡赤岬城西、是公孫述所造、因山拠勢、周回七里一百四十歩、
東高二百丈、西北高一千丈、南連基白帝山、甚高大。不生樹木。
其石悉赤。土人雲、如人袒胛、故謂之赤岬山」
この後段にある赤岬(甲)城に籠もったわけではなく、白帝城の方だろうね。
城は周十余里(約6km)なので、1辺1km以上あるね。
1mに一人配置すると6千人くらい必要。
っても、山を背にして長江に面しているので、
多くても東西南の三箇所を重点的に守ればよい。
249: 名無し 2011/01/12(水) 01:31:08
永安宮は劉備が作った療養所みたいなもんだっけか
白帝に劉備が辿り着いたのは、やはり堅固な拠点になり得ると思ったからかね
白帝に劉備が辿り着いたのは、やはり堅固な拠点になり得ると思ったからかね
250: 名無し 2011/01/13(木) 00:12:54
浮上
と書くと真っ先に変換されるのが「巫城」だから困る。
>>249
永安については、劉備が魚腹から名を改めた事が書かれるのみで、
特に何かを造ったり建てたりとかって記述は見当たらないね。
皇帝が自分の最期の地に選んだんだから、
宮殿の改修くらいはしてるだろうけど。
水経注の記述だと、唐代には打ち棄てられていたように読めるね。
周書には北周の陸騰が劉備故宮城(白帝城)の南、
諸葛亮の八陣の北に城を築いた事が書かれてたりするけど。
もしかするとこれが原因かも。
水経注の記述だけで見るなら、赤甲城の方が堅固そうだね。
東の高さが二百丈(約600m)、西北が一千丈(約3000m)って記述が
ちょっとよく分からないけどね。
城壁の高さにしてはおかしすぎる。
山にしても、あの辺の山は3000mも無い。
測量技術の未発達で非常に大雑把な標高を書いただけかもしれないけど。
と書くと真っ先に変換されるのが「巫城」だから困る。
>>249
永安については、劉備が魚腹から名を改めた事が書かれるのみで、
特に何かを造ったり建てたりとかって記述は見当たらないね。
皇帝が自分の最期の地に選んだんだから、
宮殿の改修くらいはしてるだろうけど。
水経注の記述だと、唐代には打ち棄てられていたように読めるね。
周書には北周の陸騰が劉備故宮城(白帝城)の南、
諸葛亮の八陣の北に城を築いた事が書かれてたりするけど。
もしかするとこれが原因かも。
水経注の記述だけで見るなら、赤甲城の方が堅固そうだね。
東の高さが二百丈(約600m)、西北が一千丈(約3000m)って記述が
ちょっとよく分からないけどね。
城壁の高さにしてはおかしすぎる。
山にしても、あの辺の山は3000mも無い。
測量技術の未発達で非常に大雑把な標高を書いただけかもしれないけど。
252: 名無し 2011/01/13(木) 20:28:03
閻宇・羅憲の永安赴任、霍弋のライ降都督昇進は
全部258年のことかな?
全部258年のことかな?
257: 名無し 2011/01/15(土) 01:15:23
>>252
呉書の施績伝を読めば分かるけど、閻宇は太平二年(257年)に白帝に派遣されている。
もっとも、次の記述の「永安初」というのを太平三年の十月以降と読むのか、
それとも正月以降と読むのかによっては、
閻宇の白帝赴任自体は258年にずれ込んだと考えられるけど。
羅憲の永安派遣は、黄皓の専横が始まった258年以降だとは思うけどね。
呉書の施績伝を読めば分かるけど、閻宇は太平二年(257年)に白帝に派遣されている。
もっとも、次の記述の「永安初」というのを太平三年の十月以降と読むのか、
それとも正月以降と読むのかによっては、
閻宇の白帝赴任自体は258年にずれ込んだと考えられるけど。
羅憲の永安派遣は、黄皓の専横が始まった258年以降だとは思うけどね。
259: 名無し 2011/01/16(日) 00:04:29
中国史全体の中で、名を残すくらい優秀な宦官っていたのかな
傾国させる屑しか見当たらないんだが・・・・・
自発的に宦官になる時点で、その薄気味悪い欲望と向上心は理解できんが
傾国させる屑しか見当たらないんだが・・・・・
自発的に宦官になる時点で、その薄気味悪い欲望と向上心は理解できんが
260: 名無し 2011/01/16(日) 00:32:21
>>259
紙を発明した後漢の蔡倫。
外戚専制体制を打倒して、善政を行った後漢の鄭衆。
後漢末の政治腐敗と戦ったり、清流派の復権に努力したり、
黄巾を倒す戦略を立てたりしたけど、十常侍に陥れられた呂強。
唐末期から五大十六国の初めまで河北で割拠した晋の宰相で、
忠誠無比と言われて誰からも尊敬されてた名宰相張承業。
明の洪武帝の腹心として、天下取りから戦後の軍事や政治を助けた、
大航海で名高い鄭和を初めとする宦官武将や宦官大臣。
反乱軍が突入した時に、明の崇禎帝に殉じたただ一人の家臣王承恩。
思い付いたのをざっと並べたけど、それだけでこれぐらい。
紙を発明した後漢の蔡倫。
外戚専制体制を打倒して、善政を行った後漢の鄭衆。
後漢末の政治腐敗と戦ったり、清流派の復権に努力したり、
黄巾を倒す戦略を立てたりしたけど、十常侍に陥れられた呂強。
唐末期から五大十六国の初めまで河北で割拠した晋の宰相で、
忠誠無比と言われて誰からも尊敬されてた名宰相張承業。
明の洪武帝の腹心として、天下取りから戦後の軍事や政治を助けた、
大航海で名高い鄭和を初めとする宦官武将や宦官大臣。
反乱軍が突入した時に、明の崇禎帝に殉じたただ一人の家臣王承恩。
思い付いたのをざっと並べたけど、それだけでこれぐらい。
265: 名無し 2011/12/08(木) 17:34:20.31
蔡倫と鄭和は世界史の教科書に載ってたわ
268: 名無し 2012/08/14(火) 14:41:16.90
トウガイって、剣閣を攻撃中のショウカイと合流したの?
資料によっては、トウチュウの姜維を攻撃して、
そのまま南下してるんだが・・・
いきなりあの山越えですかね?
資料によっては、トウチュウの姜維を攻撃して、
そのまま南下してるんだが・・・
いきなりあの山越えですかね?
271: 名無し 2012/08/19(日) 01:12:28.90
>>268
鍾会と完全に合流したかはわからんが
途中から鍾会の部下付けて貰ってるからどっかで近くまで行ってる
鍾会と完全に合流したかはわからんが
途中から鍾会の部下付けて貰ってるからどっかで近くまで行ってる
269: 名無し 2012/08/14(火) 16:18:50.45
トウガイ、武力90、知力89、指揮87、魅力85
ショウカイ、武力53、知力91、指揮78、魅力82
姜維、武力95、知力97、指揮92、魅力86
張翼、武力73、知力67、指揮84、魅力77
傅僉、武力82、知力70、指揮83、魅力80
※コーエーのゲームの能力ではないようです
ショウカイ、武力53、知力91、指揮78、魅力82
姜維、武力95、知力97、指揮92、魅力86
張翼、武力73、知力67、指揮84、魅力77
傅僉、武力82、知力70、指揮83、魅力80
※コーエーのゲームの能力ではないようです
270: 名無し 2012/08/15(水) 20:57:44.91
姜維より、トウガイの方が上の様な印象があるけど、そうでもないのかな?
272: 名無し 2012/08/26(日) 13:38:59.25
キョウイ嫌いだけど、こうやって見るとやっぱり凄いんだな軍略は。
273: 名無し 2012/08/28(火) 01:15:43.87
>>272
え?
鄧艾はともかく、陳泰や郭淮にすら勝てなかった姜維の軍略が凄い?
え?
鄧艾はともかく、陳泰や郭淮にすら勝てなかった姜維の軍略が凄い?
274: 名無し 2012/09/09(日) 18:52:18.25
まあ軍事にかけては蜀第一の将軍であることは間違いないでしょ
鍾会も彼は最高よって言ったことだし
鍾会も彼は最高よって言ったことだし
299: 名無し 2015/08/16(日) 00:39:42.61
姜維が二人いれば、綿竹で鄧艾軍を撃退してた
300: 名無し 2015/08/16(日) 04:08:56.98
>>299
無理だね。
姜維は鄧艾には一度も勝ててない。
姜維は所謂ヘボ武将ではないとは思うが、
相手が悪すぎる。
屯田兵程度の部隊を離散させないまま陰平~涪迄山岳浸透突破
してくるってのは生半な事もじゃない。
鄧艾自体が直後に非業の死を迎えたし、西晋自体も
直後に無様に瓦解してるんであまり評価されてないが。
無理だね。
姜維は鄧艾には一度も勝ててない。
姜維は所謂ヘボ武将ではないとは思うが、
相手が悪すぎる。
屯田兵程度の部隊を離散させないまま陰平~涪迄山岳浸透突破
してくるってのは生半な事もじゃない。
鄧艾自体が直後に非業の死を迎えたし、西晋自体も
直後に無様に瓦解してるんであまり評価されてないが。
303: 名無し 2015/08/16(日) 18:00:47.38
孔明は基本的には内政やって
北伐はあくまでスローガンを維持するために負けない態度にやってたから
孔明の北伐中は負けてもたいした被害はなく
戦争しても国力は回復していっていた
姜維は国力をすり減らしても危険な戦いをしまくったので
人材も物資も減りまくった
負けて当たり前
北伐はあくまでスローガンを維持するために負けない態度にやってたから
孔明の北伐中は負けてもたいした被害はなく
戦争しても国力は回復していっていた
姜維は国力をすり減らしても危険な戦いをしまくったので
人材も物資も減りまくった
負けて当たり前
304: 名無し 2015/08/16(日) 21:39:26.92
蒋エン・費イは荊州出身で諸葛亮時代から名のある人物だけど姜維は降将だからなあ
信頼も人脈も足りず陳祗は黄皓に媚びるから二頭体制にもできない
姜維のやり方を擁護したいわけではないが環境も悪かったのでは
信頼も人脈も足りず陳祗は黄皓に媚びるから二頭体制にもできない
姜維のやり方を擁護したいわけではないが環境も悪かったのでは
コメント
コメント一覧 (1)
徹底抗戦してたら死者数が膨れ上がった訳で
負け確の場合は早めに降参した方がいいし
単に臆病だっただけだろうけど結果的に戦争を早期に終わらせたのは良かったと最近思えてきた
管理人:歴史好き
が
しました
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