1: 名無し 2013/09/21(土) 23:58:20.03 ID:vln7L5Zz.net
戦国最強・上杉謙信の主な戦歴

天文13年(1544年) 
上杉謙信 ○・・《刈谷田川の戦い》・・● 長尾俊景
天文15年(1546年) 
上杉謙信 ○・・・《黒田秀忠の乱》・・・● 黒田秀忠
天文20年(1551年) 
上杉謙信 ○・・・《長尾政景の乱》・・・● 長尾政景(発智長芳)
天文22年(1553年) 
上杉謙信 ○・・・・《布施の戦い》・・・・● 武田信玄
天文24年(1555年) 
上杉謙信 ○・・・《北条高広の乱》・・・● 北条高広
天文24年(1555年) 
上杉謙信 △・・・・《犀川の戦い》・・・・△ 武田信玄
弘治02年(1556年) 
上杉謙信 ○・・・《大熊朝秀の乱》・・・● 大熊朝秀 
弘治03年(1557年) 
上杉謙信 △・・・《上野原の戦い》・・・△ 武田信玄 

永禄03年(1560年) 
上杉謙信 ○・・・《増山城の戦い》・・・● 神保長職 
永禄04年(1561年) 
上杉謙信 △・・《小田原城の戦い》・・△ 北条氏康 
永禄04年(1561年) 
上杉謙信 ○・・・《松山城の戦い》・・・● 北条氏康(上田朝直) 
永禄04年(1561年) 
上杉謙信 △・・・《八幡原の戦い》・・・△ 武田信玄 
永禄05年(1562年) 
上杉謙信 ○・・・《白鳥城の戦い》・・・● 神保長職 
永禄06年(1563年) 
上杉謙信 ○・・・《騎西城の戦い》・・・● 成田長泰(小田朝興) 
永禄06年(1563年) 
上杉謙信 ○・・・《祇園城の戦い》・・・● 小山秀綱 
永禄07年(1564年) 
上杉謙信 ○・・・《山王堂の戦い》・・・● 小田氏治 
永禄07年(1564年) 
上杉謙信 ○・・《唐沢山城の戦い》・・● 佐野昌綱 
永禄07年(1564年) 
上杉謙信 △・・・・《塩崎の戦い》・・・・△ 武田信玄 
永禄08年(1565年) 
上杉謙信 △・・・《和田城の戦い》・・・△ 和田業繁 
永禄09年(1566年) 
上杉謙信 ○・・・《小田城の戦い》・・・● 小田氏治 
永禄09年(1566年) 
上杉謙信 △・・・《臼井城の戦い》・・・△ 千葉胤富(原胤貞) 
永禄11年(1568年) 
上杉謙信 △・・・《守山城の戦い》・・・△ 越中一向一揆 
永禄11年(1568年) 
上杉謙信 ○・・・《本庄繁長の乱》・・・● 本庄繁長 

元亀02年(1571年) 
上杉謙信 ○・・・《松倉城の戦い》・・・● 椎名康胤 
元亀02年(1572年) 
上杉謙信 ○・・・・《関野の戦い》・・・・● 越中一向一揆 
元亀03年(1572年) 
上杉謙信 △・・・《利根川の対陣》・・・△ 北条氏政・武田軍 
元亀03年(1572年) 
上杉謙信 ○・・・《尻垂坂の戦い》・・・● 加賀・越中一向一揆 

天正元年(1573年) 
上杉謙信 △・・《朝日山城の戦い》・・△ 加賀一向一揆 
天正02年(1574年) 
上杉謙信 △・・・《金山城の戦い》・・・△ 由良成繁 
天正02年(1574年) 
上杉謙信 △・・・《利根川の対陣》・・・△ 北条氏政 
天正04年(1576年) 
上杉謙信 ○・・・《守山城の戦い》・・・● 神保氏張 
天正04年(1576年) 
上杉謙信 ○・・・《蓮沼城の戦い》・・・● 椎名康胤 
天正04年(1576年) 
上杉謙信 ○・・・《七尾城の戦い》・・・● 畠山春王丸(長続連) 
天正05年(1577年) 
上杉謙信 ○・・・《手取川の戦い》・・・● 織田信長(柴田勝家)
2名無し 2013/09/22(日) 00:12:11.73 ID:caDNzc9x.net
【上杉謙信五大野戦】 
①川中島の戦い vs武田信玄 
②尻垂坂の戦い vs加賀・越中一向一揆 
③山王堂の戦い vs小田氏治 
④布施の戦い vs武田信玄 
⑤手取川の戦い vs柴田勝家 

【上杉謙信五大攻城戦】 
①小田原城の戦い vs北条氏康 
②七尾城の戦い vs長続連 
③松倉城の戦い vs椎名康胤 
④唐沢山城の戦い vs佐野昌綱 
⑤本庄繁長の乱 vs本庄繁長
5名無し 2013/09/23(月) 16:07:41.36 ID:V1EzSjSr.net
本庄繁長の乱1 

【永禄11年】 
4月27日 
長尾藤景を討った繁長、府内脱出 
翌日、村上着後ただちに大葉沢城攻撃開始 

5月1日 
鮎川氏を城より駆逐 

5月2日 
上杉軍、岩船到着 

5月9日 
村上城下に陣張り 
大葉沢城付近で合戦あり10名ほどが死亡 

5月14日
村上城東の根小屋で合戦。上杉方死傷者多数により退却 

5月22日 
本庄方、村上の西の町を閉切り村上城における戦局が膠着状態になる 

5月23日 
上杉鮎川軍、大葉沢麓に三日間陣張り 

5月24日 
上杉方、将軍嶺に笹平城を築き鮎川勢と黒川勢が守備する 

【上杉年譜】 
村上の要害は一方に山岳が続き本丸の際に掘をきってある。
南方には深田が洋々と水を湛えてまるで湖のようであり、
北には大河が郭を巡りその先は海原が広がっている難攻不落の城である。 
本庄温厚の住民は残らず本庄方に与し、城の修築に心砕き籠城に備えた。
6名無し 2013/09/23(月) 16:36:01.48 ID:V1EzSjSr.net
本庄繁長の乱2 

【永禄11年】 
6月11日
本庄方多勢の兵をもって笹平城を攻めるが失敗 

6月13~18日
大葉沢村にて足軽同士で戦いがある。 

6月25日
本庄方、村上から岩船へ兵を派遣し
上杉方の本庄城攻略拠点を攻め上杉本陣を打ち破る。 

下渡嶋城(鮎川勢ら守備)の攻略を石栗将監に命じる 

7月20日
本庄方、笹平城から大栗田の間道を封鎖し
上杉方の荷駄隊を攻撃し荷物二百余りを切り落とす 

7月22日
謙信が山浦・色部・北条・新発田らを派遣。 

8月18日 
下渡嶋城から二千人のうち三百人ほどを討ちとる。
鮎川らは後退し城を明け渡す 

9月2日 
上杉方、岩船の本陣より出動し本庄城攻略の準備にかかる。 

9月8日 
本庄方に大川氏と庄内の小国氏からの援軍が到着し
援軍あわせ5000人の兵をもって以降5、6度の戦いとなる
7名無し 2013/09/23(月) 16:56:11.50 ID:V1EzSjSr.net
本庄繁長の乱3 

【永禄11年】 
11月6日 
謙信、岩船の本陣に着陣し指揮をとる 

11月7日 
謙信軍に既に岩船で攻防戦を繰り広げていた直江と
揚北衆を中心とした軍が加わり大規模な攻撃隊が編制される 

11月8日 
謙信、本庄城へ進み村上に軍を敷く。 
村上方は城下の木戸を全て締切り籠城戦に入る。 

この日より一方の山半分で両軍は激戦となり
双方合わせて千人以上の死傷者をだしたが
全体としては謙信軍が優勢に戦いをすすめるようになる。 

11月15日 
本庄城の三方に有力な諸将を配し陣を張る。 
東に上条・北条・上田長尾・斎藤・大面・黒川・下田長尾。 
南に琵琶嶋・色部・新津・平賀・水原・下条・安田・五十公野 

西に謙信旗本・新発田・中条・柿崎 

11月20日 夜
西の掘を埋め全ての柵を取りさる 

11月下旬 
謙信府内に帰城
8名無し 2013/09/23(月) 17:22:15.67 ID:V1EzSjSr.net
本庄繁長の乱4 

【永禄11年】 
11月25日
本庄方、小国山の外に陣を張る 

12月10日 
本庄方、村上城西の外に陣を張る 

12月13日
本庄方、鮎川に出陣。 

12月24日 
本庄方、村上城の南に陣を張るが破られ包囲が狭められる 

【永禄12年】 
1月9日 本庄方、新たに着陣した千人を含め城から討ってでる。
この戦いで色部勝長が急死 

1月11日 
本庄城の四方の外郭が破られ落城も時間の問題となる 


1月中旬~
両軍の戦いは鉄砲を撃ち合う程度に過ぎ、
本庄方の起死回生をかけた反撃は失敗しいよいよ窮地に陥る。 
本庄氏はやむなく伊達・葦名両氏に和議の仲介を依頼し謙信と和議を進める 


2月27日 
謙信より確かな人質をだせば赦免すると述べる 

3月初旬
村上城の包囲網を解除 

3月18日
本庄氏、人質として千代丸(顕長)が府内へむかう。
繁長は一時蟄居を命じられ猿沢城に移る。
これにより軍事的な意味で乱は収束する。 

4月 
繁長、伊達家臣中野常陸介の屋敷に預けられる。 

こうして本庄繁長の乱は完全に収束した 
終わり
9名無し 2013/09/23(月) 22:39:15.40 ID:X6bu8cIv.net
本庄繁長の乱の前後って謙信最大のピンチだったんだよな 

いくら謙信が戦国最強とはいえ、
長年信玄&氏康を同時に相手するのは大変だったらしい 
謙信の盟友・安房の里見義堯が国府台で氏康に大敗、
上野の長野業盛も箕輪城を信玄に攻められ滅亡 
謙信は業盛を救うため武田方・和田城を攻めるも落とせず、
義堯を救うため北条方・臼井城を攻めるも落とせず 
さらに上野の有力武将・由良成繁と謙信の重臣・北条高広が寝返ってしまう 

さらに謙信の盟友で能登守護・畠山義綱が重臣・長続連の謀反で追放されたため、
救援のため越中に出兵、長続連方の一向一揆が立て篭もる守山城を攻める時、 
本国・越後で本庄繁長が反乱を起こす。
さらに越中守護代・椎名康胤が武田方に寝返るという大ピンチ 

この時の謙信はまさに敵だらけ 
①甲斐の武田信玄 
②相模の北条氏康 
③越後の本庄繁長 
④越中の椎名康胤・一向一揆 
⑤上野の北条高広・由良成繁 

さすがの謙信も危うくなったが、
この頃同時に氏康が謙信以上に大ピンチだったことで救われる 
氏康は信玄と同盟を結ぶことで関東戦線で謙信と互角に戦ってこれた 
しかし三船山の戦いで里見義堯に大敗、
さらに盟友・信玄が駿河の今川を攻撃したことで状況が一変 
信玄が駿河を奪えば武田は大勢力となり北条も滅ぼされかねない 

北条も西に武田・北に上杉・東に里見という三方を強敵に囲まれる事態となった 
ここで氏康は謙信に同盟を要請、
下手に出ることで苦境にあった上杉・北条両者は同盟を結んだ 

これで上杉は息を吹き返し、精強を誇る揚北衆の中でも最強の本庄繁長の乱を鎮圧 
北条高広の寝返りは越相同盟締結により帰参を許し、
越相同盟締結に尽力した由良成繁とも和睦 
そして越中へ進み、難攻不落の松倉城に立て篭る椎名康胤を
3年攻めてついに落城させる 
さらに越中一向一揆の中心・瑞泉寺と勝興寺を圧倒。
謙信は見事、危機を乗り切った
4名無し 2013/09/23(月) 08:46:00.86 ID:TBvVYxFF.net
長家家譜(織田側) 

その(七尾城の)援将には
柴田勝家・丹羽五郎左衛門尉長秀・長谷川藤五郎秀一・ 
稲葉伊予守通胤・滝川左近将監一益・羽柴秀吉・ 
前田利家・徳山五兵衛則秀・柴田伊賀守勝豊・
佐々内蔵助成政・不破彦三・金森五郎八・堀久太郎秀政その勢四万余、 

2万の上杉兵に対して4万の織田兵が崩壊。強すぎだろ謙信w
13名無し 2013/10/01(火) 22:34:44.78 ID:2cAsg6OO.net
>>4 
なぜその面子で戦わずに逃げ帰ったのか理解できない。 
織田家の連中は、謙信を本気で軍神と思ってしまったのだろうか?
14名無し 2013/10/01(火) 22:49:32.98 ID:rLzI4lEo.net
>>13 
現地の一向一揆が謙信側についたから、ってのが定説
15名無し 2013/10/01(火) 23:07:21.33 ID:2cAsg6OO.net
>>14 
え?信長は加賀一向一揆は自分に味方するとか、 
もしくは敵対しないとか思ってたってこと?
20名無し 2013/10/02(水) 12:38:51.15 ID:ox19hHxf.net
>>15 
謙信にも逆らっていたし、
加賀の一向衆が必ずしも意志が統一されていなかっただけかもね。 
どちらが上手く取り込めるかって言う時期だったのかも。 

まあ、加賀の方は信長憎し兄ちゃんが引いていたから、
信長の方が危険な状態だったと思う。 
信長にしては能天気だったという事かな。
21名無し 2013/10/02(水) 22:29:50.89 ID:J3YbZ0dI.net
信長公記 十巻(天正5年)で 

八月八日、柴田修理亮、大将として、北国へ御人数出だされ侯。滝川左近、羽 
柴筑前守、惟住五郎左衛門、斎藤新五、氏家左京亮、伊賀伊賀守、稲葉伊予、不 
破河内守、前田叉左衛門、佐々内蔵介、原彦二郎、金森五郎八、若狭衆、賀州へ 
乱入、添川・手取川打ち越え、小松村、本折村、阿多賀、富樫の所々焼き払ひ、 
在陣なり。羽柴筑前、御届をも申し上げず、帰陣仕り侯段、曲事の由、御逆鱗な 
され、迷惑申され侯。 

と村焼き払ってるから、上手く取り込む気は全く無かったんじゃないかな。 
で、ハタと「信長vs一向一揆&謙信」の事実?に気づいて撤退したって、 
何かがおかしいと思うんだけど。
30名無し 2013/10/05(土) 17:34:13.05 ID:y/KUA43L.net
>>21 
秀吉以外の武将は怒られてないから、やはり残って戦ったんだと思われ。 
信長は敗戦に関しては怒らない。
32名無し 2013/10/06(日) 08:16:21.72 ID:KBomKo9Q.net
>>30 
はっ?塙(原田)直政とか 
信長に敗戦を激怒されて改易され一族指名手配されてんじゃん。
39名無し 2013/10/06(日) 19:39:07.96 ID:6nNJXrAv.net
>>32 
塙(原田)直政は討死を問題視されたというのが谷口らの主張。 
敗戦のたびに一族指名手配してたのなら、 
佐久間、柴田、明智、滝川、羽柴、みんな消えて無くなっている。 
長家家譜によると謙信が先に松任に居る状態で、
秀吉は水島から無断で引き返している。

松任と水島の距離は近く、 
「秀吉の帰陣後に、信長の撤退命令が届いて全軍引き上げた。」 
というのは物理的に無理がある。 
ありうるとしたら、 

・秀吉の帰陣前に、信長は撤退を決定しており水島に早馬を出していた。 
・秀吉以外の武将も無断で撤退した。    ←信長公記が否定 
・秀吉以外の武将は、謙信に敗れて撤退した。 

のどれか。 
一番目の場合、信長が秀吉に激怒する理由が無いので、 
やはり三番目が妥当かと。
45名無し 2013/10/08(火) 09:50:41.06 ID:DxZY0fE1.net
>>39 
塙は信長の世継との婚姻関係から大和守護に出世出来たが、 
誰が母だかもわからん下賎の信忠のクーデターで、 
塙は失脚する末路になった。
89名無し 2013/10/31(木) 08:38:27.73 ID:pPu0w/ac.net
各武将の戦の生涯データ 

上杉謙信 70戦45勝1敗19分 
武田信玄 49戦33勝11敗3分 
織田信長 23戦11勝9敗0分 

1敗は臼井城の戦い 

http://blogs.yahoo.co.jp/syogun443/52830721.html
91名無し 2013/11/07(木) 15:25:56.23 ID:4+TxH/AO.net
>>89 
臼井城の戦いは謙信の敗戦じゃないよ 
上杉軍を率いてたのは謙信の家臣・長尾顕長で謙信不在
92名無し 2013/11/09(土) 19:54:59.25 ID:T43lxgZM.net
軍神に野戦挑んだ常陸の不死鳥は男の鑑だが
大人しく小田城に籠城して氏康の援軍待つべきだったな 
名族のプライドが籠城策許さなかったかな
90名無し 2013/10/31(木) 08:42:17.75 ID:pPu0w/ac.net
越後兵が当時から戦国最強と呼ばれたのは、
1対1で無類の強さを発揮したから 

上杉軍の装備を見ると、武田軍・織田軍・北条軍と比較して、
手槍の数が2倍多かった 
謙信の神懸かりな采配もあるけど、
越後兵は最初から1対1で相手を倒すことも想定してる 

それに謙信の何がすごいかっていうと常に敵地で戦ってることだ 
自軍にとって不利な環境で勝利する 
越後から他国への長距離遠征、
しかも周囲は武田信玄や北条氏康といった全国最大の激戦区
94名無し 2013/11/09(土) 20:59:33.60 ID:ImfGzBOC.net
越後兵が当時最強だったのは、雪国というのがポイントだ。
雪国ではぼやぼやしていると冬を越せない。冬を越すために 
厳しい寒さと闘う。闘えない者は凍死していく。
結果的に越後に住む人は屈強になっていく。謙信が神がかり的な働き 
ができるのは、謙信自身の強さもあるが、風土のポイントも見逃せない。
95名無し 2013/11/10(日) 23:27:00.80 ID:fxeuGDkl.net
相撲好きなら知ってるが雪国出身の力士は足腰が強い。
深い雪の中歩かないといけないから 
最強横綱大鵬も北海道出身 

謙信の越後軍は騎馬兵は決して多くないが移動が速かった。
これは足腰強いから 
謙信が「神出鬼没」「神速」と恐れられた原因はここ 

越後軍の弱点は冬は越後→信濃、越後→関東の移動がほぼ不可能なこと 
峠道を大雪で閉ざされ進軍できない 
これは雪に泣かされた柴田勝家・朝倉義景と同じ 

信玄・氏康は謙信のこの弱点をついて軍事力の劣勢を挽回した。
冬の間に信玄は川中島を攻め取ったし氏康は武蔵松山城を攻め落とした
126名無し 2014/01/30(木) 06:23:14.43 ID:jK/p1hGV.net
謙信って上越新幹線ない時代に十回以上越後から関東出兵してんだよな
すごいわ 
よく何度も越後山脈越える気になるよな 

1562年なんか真冬に越山してるし信じられん 
豪雪地帯をどうやって歩いて行ったの? 
ナポレオンのアルプス越えに匹敵する偉業だよ
127名無し 2014/01/30(木) 09:22:56.99 ID:1SHQ3n0a.net
書状に寒すぎて手が震え花押が書けないので印判ですって言ってるくらいだから
厳寒行軍もあったんだろうね。 
越山してくれって矢の催促だから。
128名無し 2014/01/30(木) 11:05:14.94 ID:jNl3eclL.net
気合と根性だろ。昔テレビでそのことを取り上げてて
研究者からも狂気じみてると言われてた 

三国峠はよく通るけど今より整備されてないあんな道を
毎年通って関東行く言われたら謀反起こしたくなるのもわかる
130名無し 2014/02/01(土) 05:51:18.85 ID:NJM4zbXp.net
>>128 
1568年の本庄繁長の乱は度重なる越山で家臣の不満爆発したのが原因らしい 
謙信の命令で何度も関東出兵するものの
他国の領土奪わないから家臣の領土も増えない 
出兵で税負担増えるし武田・北条連合は精強だし 

だいたい越後の国主が関東管領するなんて無理あったんだよ 
謙信自身が本拠を上野厩橋城に移せば
北条氏康を倒して関東制覇できたかもしれんが、 
そしたら信玄が北信濃から越後に雪崩込んで春日山城が危ない 
越中の神保長職・椎名康胤・一向一揆が越後に攻め込むかもしれない 

関東は目もくれず越中から能登・加賀・越前・近江と進み
上洛してたら天下とれたかもな 

おつまみ梅干喰い過ぎて高血圧・脳卒中で急死したから
塩分控えめな食事してれば長生きして信長に対抗できたはず
133名無し 2014/02/01(土) 08:40:39.70 ID:HdgwbUZZ.net
本庄の謀反は今川と上杉の挟撃を察した信玄の謀略で蘆名なども協調してた。 
これまで謙信が人質を取らずに信用で家臣に接してきたことと、 
当主権強化と家臣統制を進めて序列化をしていく過程で不満を持ったのだろう。 

謀反の結果、序列を思いっきり下げられた本庄が
以前のように復権するのは景勝時代になってからだった。 
謙信は人質を家臣から取るのが嫌だったようで、 
書状にもお前を信用してないわけじゃないが…と
良心の呵責が書状に現れているのが戦国大名としておかしなところ。 

普通の戦国大名なら人質を出すのは尤もだとか、 
人質を出すことを喜んでいるとか書状に書くのが普通である。
134名無し 2014/02/02(日) 12:53:05.04 ID:UF3eQG/1.net
越山の負担で不満なら、本庄繁長の誘いにもっとたくさんの連中が乗ったはず。 
誘いに乗る連中がいなくて、
中条藤資なんて誘いの文を封も切らず謙信に届け出たぐらいだし。
135名無し 2014/02/02(日) 19:30:30.89 ID:VnRtH/8m.net
謙信の家臣達が越相同盟締結を強く主張したのは
度重なる越山に不満あったからだよ 

越山して関東で北条方と合戦して勝っても、謙信は北条方から奪った領土を 
もとの持ち主の関東諸将に返しちゃうから 
結果として謙信の家臣達は全く領土貰えなくて一文の得にもならない 
骨折り損のくたびれもうけそのもの 

謙信本人は北条許すまじという思い強かったけど
家臣が負担の多さにブーイングした 
謀反までするバカは本庄繁長だけだったというだけの話
137名無し 2014/02/02(日) 20:41:34.12 ID:t3ERXwu5.net
むしろ越相同盟は由良氏をはじめとした北関東諸将の懇望だよ。 
特に謙信に尤も忠義を示していた羽生城からの懇望には、 
謙信も良心の呵責から断ることが出来なかった。
138名無し 2014/02/02(日) 20:58:53.67 ID:VnRtH/8m.net
越相同盟交渉の時の上杉家書状から家臣が積極的に同盟締結に動いてたことがわかる 
一方の謙信は松山城返還を強く要求しており締結に消極的なのがわかる 
結局家臣に押し切られたのか松山城返還はならなかった
164名無し 2014/02/06(木) 13:07:41.28 ID:PTT3nvlA.net
1568年といえば謙信が大ピンチだった年だな 

敵その壱:甲斐守護・武田信玄 
敵その弐:相模守護・北条氏康 
敵その参: 揚北衆・本庄繁長 
敵その四:越中守護代・椎名康胤 
敵その伍:越中一向一揆(瑞泉寺・勝興寺) 
敵その六:能登守護畠山家重臣・長続連 

これだけ敵だらけじゃ越相同盟結ばざるを得ないか
165名無し 2014/02/06(木) 16:16:57.36 ID:hG10U3JA.net
>>164 
敵多すぎやろw 
その中に神保さんも入ってるんだから凄えわ
166名無し 2014/02/09(日) 12:14:45.31 ID:lFZPfH7m.net
北条、武田より越中一向一揆のが強いイメージ。
信長があの財力で相当な期間一向宗鎮圧に 
時間かかってるし。
167: 名無し 2014/02/09(日) 13:54:56.73 ID:jTF1XQYS.net
越中一向一揆は勝興寺と瑞泉寺が中心なわけだが、
謙信と最初に衝突したのは1568年 
いわゆる「放生津(ほうじょうづ)の戦い」と言われる合戦 

1568年
謙信越中出兵は、それまでの神保長職討伐とは目的が違う 
能登守護畠山義綱が重臣長続連らに追放されて救援要請しており、 
義綱の七尾城奪還を支援するための出兵であった 

上杉謙信・畠山義綱連合が長続連・勝興寺連合を破って
義綱の復権に至る計画だったが、武田信玄の謀略が炸裂 

3月
上杉軍、放生津に陣を張り、庄川・小矢部川を挟んで勝興寺・守山城の越中一向一揆と対陣、攻撃 
同月、揚北衆・本庄繁長が信玄に通じ謀反(本庄繁長の乱)!
 謙信やむを得ず攻撃中止し引き返す 

4月頃
越中守護代・椎名康胤も信玄に通じ謀反! 

7月
武田軍が信濃最北部の飯山城を攻撃、越後を脅かす 
結果、謙信の支援を十分受けられなかった畠山義綱は七尾城復帰に失敗 

その間に信玄は駿河攻めを敢行、今川氏真を撃破して駿河を徐々に制圧 
内通した本庄繁長・椎名康胤は見殺し。戦略的に信玄の勝利、謙信の敗北。 
さすが信玄、鬼畜の鏡、いや、男の鏡 

その後本庄繁長の乱を鎮圧した謙信は
武田・北条・越中の三方面作戦は困難とみて越相同盟を結ぶ
168名無し 2014/02/09(日) 14:12:04.67 ID:jTF1XQYS.net
謙信の五大攻城戦の一つ、「松倉城の戦い」について 

1569年8月
謙信は逆賊・椎名康胤を討つため兵1万7千を率いて
康胤の居城・松倉城を百日に渡って攻撃 
しかし松倉城は越中三大山城の一つで実質的に越中最強の堅城であったため
流石の謙信でもこの年は落とせず 
支城数箇所を落城させ、松倉城に損害を与えて越後に帰還 

1570年
関東へ出兵した謙信は松倉城への抑えとして河田長親を越中に残す 

1571年3月
今度は謙信、兵2万8千を率いて松倉城を猛攻(「謙信年譜」) 
力攻めは困難と見て水の手を断ち、さしもの名城もついに落城
椎名康胤は逃走
169名無し 2014/02/09(日) 22:26:16.40 ID:Q4fF/gnA.net
さすがに武田北条のが強いだろうけど一向一揆も粘り強いので有名だからな
170名無し 2014/02/11(火) 14:59:47.96 ID:E6IIezek.net
1571年(元亀2年)
謙信が越中の関野という地で神保勢に野戦で勝利したという説あるけど
一次資料だせる人いる?
171名無し 2014/02/13(木) 09:53:55.58 ID:uMt1LNfG.net
信玄の策謀で加賀一向宗の大軍が火宮城(日宮城)に押し寄せて来て、 
神保が鯵坂に後詰要請した結果、 
山本寺定長らの援軍がやってきたものの加賀越中一向宗の大軍に大敗して、 
小島職鎮や神保覚広らが籠城断念し火宮城が落城した後の話?
172名無し 2014/02/13(木) 13:51:21.08 ID:E+K5+Gae.net
だいたいその辺だよ 
日宮城(火宮城)・五服山(呉服山)・神通川渡し場での
上杉対加賀越中一向一揆の一連の合戦は1572年だけど
関野の戦いはその前年の1571年で加賀一向一揆が越中侵攻する前のことらしい 

もし実際行われた戦いなら謙信による数少ない野戦であり貴重なんだが 

余談だが火宮城って名前格好良いだな
173名無し 2014/02/13(木) 15:23:38.93 ID:IhIE47gq.net
4/11の氏政→山内殿宛で
 4月頭の書状が9日に到来しました。本望の至りです。 
越中出馬し、神通川を渡り、東西一揆に対して御本意、 
敵城10余ヵ所落して納馬とのこと。まことにめでたく肝要です。 
などと書いていて勝利していることを氏政が喜んでいる。 
もっともこの後に信玄が出張してるので後詰をしてくれと懇望しているのだけども。 


河上文書6/13謙信→河上伊豆守宛てで
越中中々郡静謐帰馬とも書いているので、 
加賀一向宗も追い払っていると思われる。
174名無し 2014/02/13(木) 17:59:54.98 ID:E+K5+Gae.net
貴重な情報ありが㌧ 
その氏政→山内殿(山内上杉謙信)宛の書状は
元亀2年(1571年)の越相同盟時代のものだな 

落とした敵城10余ヶ所とは
松倉城・魚津城・新庄城・富山城・滝山城・増山城・日宮城・放生津城あたりだろう 
その時に関野(現高岡市)で謙信と神保が野戦してるとの情報がある 

河上文書6/13も
6月に静謐という内容からして元亀2年のものだろうから 
謙信が追い払ったのは加賀一向一揆(金沢御坊)でなく 
越中一向一揆(勝興寺・瑞泉寺)だろう 
加賀一向一揆が越中侵攻したのは元亀3年だから
175名無し 2014/02/13(木) 20:09:35.66 ID:PCCLX2/H.net
10箇所も城落として野戦で勝利とか
さすが超常現象といわれることだけあるな
177名無し 2014/02/14(金) 11:49:11.52 ID:OPb47w3y.net
氏政→山内殿の書状で
謙信の勝利を氏政が喜んでるってことは 
両者が同盟関係にあるということで
永禄12年(1569年)~元亀2年(1571年) 
この期間内で謙信が神通川を渡って一揆に勝利したのは元亀2年だけ 

河上文書6/13の方は謙信が6月に越中にいたのは元亀2年であって
元亀3年の6月に謙信は越中でなく越後にいる 
元亀3年6月の越中は一揆対上杉の激しい戦いの最中で静謐とは言えない 
元亀2年6月の越中は一揆・神保・椎名がすでに謙信に叩きのめされ静謐といえる 

どちらも元亀3年でなく元亀2年だと考えられるのだが
178名無し 2014/02/14(金) 21:53:20.70 ID:0Jb25LTJ.net
元亀2年4月
謙信が神通川を越えて東西一揆に勝利。 
元亀3年6月
火宮城への援軍が敗退するなど急速に越中戦線が悪化すると、 
謙信は越中出馬宣言し8/18には越中に殴り込みをかける。 

元亀4年
正月には富山城が落城し、 
加賀一向宗が懇望してくるまで、 
何度か謙信が勝っているような内容の書状はあるが、 
それがどこでどのようにして勝ったものかはわからん。 

決着をつけた決定的な遭遇戦の勝利があったようだ。 
ただ一向宗側も総力戦みたいで、
やられてもやられても神保や椎名らと一緒に来襲してたようだ。 
これは信長のために謙信が、 
浅井や朝倉方への加賀一向宗の援軍が行かないように引きつけていた。 
(信長が謙信に息子を越府に差し出す約束をしたが、
 信玄が死ぬや質の話を信長は反故にした) 

そのため謙信は信長に使者を出して近江の戦況を尋ねたりしてる。 
信長と謙信が一向宗に対して共同戦線を構築していた。 
こういうこともあり、北陸一向宗と謙信が半年近く富山城を巡り
壮絶な潰し合いを繰り広げていたようだ。
179名無し 2014/02/14(金) 22:27:29.88 ID:0Jb25LTJ.net
ちょっと説明が変だったから訂正。 
信玄と勝頼の連名の10月朔日書状に、 
突然の仕合で富山城が落ちたのは是非もないなどと書いており、 
ここでパワーバランスが決定的に謙信側に振り切れたようで、 
加賀一向宗や椎名らが懇望するようになる。 

しかし謙信は掃討戦を3月まで続けて越府に帰っている。 
この加賀一向宗の敗退が、朝倉軍の近江からの撤退に関わってくる。 
そして石山本願寺も信玄に北陸一向宗の救援を頼むようになる。 
(朝倉義景娘と本願寺教如は婚姻している) 

八方塞がりの信長の危機を謙信が救ってあげたと言っていいだろう。
181名無し 2014/02/14(金) 23:27:30.42 ID:OPb47w3y.net
謙信が加賀越中一向一揆に決定的な勝利を収めたのが
元亀3年9月の「尻垂坂(しりたれざか)の戦い」 
元亀3年
5月
加賀一向一揆は越中に侵入し越中一向一揆と合流。加賀越中一向一揆となる。 
6月
加賀越中一向一揆は兵3万~4万の大軍で
五福山・神通川渡し場・火宮城・富山城で上杉勢に立て続けに勝利。 
謙信は関東利根川で北条氏政・武田信玄と睨み合っており
直ちに越中に出馬できず越後に留まる。 

しかし上杉の越中方面軍司令官・河田長親と重臣・山本寺上杉定長は
加賀越中一向一揆の大攻勢に圧倒され 
最前線の新庄城が猛攻に晒された。 

一揆勢の中心は杉浦壱岐守玄任率いる加賀一向一揆。 
これに瑞泉寺顕秀・勝興寺顕栄率いる越中一向一揆と
越中守護代・椎名康胤および越中守護代・神保長城が加わり 
反上杉連合軍を形成
加賀一向一揆の頭領・坪坂伯耆守包明は加賀金沢御坊から戦況を見つめた。

しかし加賀一向一揆は一枚岩ではなく
この越中攻めに参加したのは加賀北部二郡の一向宗徒のみで、 
総大将・杉浦壱岐守玄任は頭領・坪坂伯耆守包明に
加賀南部二郡の一向宗徒を増援として派遣するよう要請している。 

新庄城での戦いは一進一退で
7月
謙信の重臣・山浦上杉国清(信濃・村上義清の実子)の陣に一揆勢が攻撃、 
越中方面軍司令官・河田長親が救援に駆けつけこれを撃退している。
182名無し 2014/02/14(金) 23:29:53.22 ID:OPb47w3y.net
同・元亀3年8月、謙信は関東の北条氏政への抑えとして
長尾顕景(後の上杉景勝)率いる上田衆(上田長尾家の軍勢)を 
上野厩橋城に置き、自ら上杉本隊を率いて越中へ出陣、
新庄城近くの山の根に着陣して新庄城を攻める一揆勢と対峙した。 
加賀越中一向一揆は自慢の大量の鉄砲で銃撃戦を展開
鉄砲の数で劣る上杉軍と互角の戦いを繰り広げていたが 
謙信の着陣で徐々に形勢が逆転していった。 

9月
秋霖(秋の長雨)で一揆勢自慢の鉄砲が使用不能になった時期に
謙信は攻勢に転じ、新庄城から押し返し始めた。 
一揆勢は後退し、びや川の堤の尻垂坂(しりたれざか)で坂を背にして
上杉軍の攻勢を食い止めようとした。 

坂の上から迎撃する一揆勢と坂の下から登ってくる上杉軍の戦いとなったが、
雨天で鉄砲が使えない一揆勢に謙信率いる精強な上杉軍を食い止めることは出来ず、
びや川が一向宗徒の血で真っ赤に染まったと伝えられる程の 
壊滅的な大敗となった。
尻垂坂で首実検を行った謙信は勢いそのままに一揆勢が逃げ込んだ富山城を攻撃。 

一揆勢は尻垂坂での大敗で兵力が大損害を受け
逃亡する一向宗徒が後を絶たず3千~4千にまで兵が激減。 
一方の謙信は関東で北条軍を退かせた長尾顕景率いる上田衆を越中に呼び寄せ
さらなる兵力の増強を図った。 
上杉軍は神通川を渡河して西岸の滝山城にも攻撃を開始
富山・滝山両城を同時攻撃した。 
加賀越中一向一揆の総大将・杉浦壱岐守玄任は
もはや富山城を守れずと判断し火宮城方面へ逃亡。 

9月23日
滝山城陥落
10月1日
富山城陥落
この新庄城・尻垂坂・富山城・滝山城での一連の戦いを纏めて 
尻垂坂の戦い、一部では富山城の戦いという。
謙信自ら出馬し加賀一向一揆・越中一向一揆・椎名康胤・神保長城の大連合軍を 
纏めて打ち破った戦国末期における北陸最大の激戦となった。 

この戦いの後、一揆勢は何度か反撃に及ぶも
二度と大規模な攻勢に出ることが出来ず、謙信は越中を平定した。
183名無し 2014/02/15(土) 13:29:12.08 ID:fl3XNvIj.net
元亀3年8/4謙信→河田重親 
自賀州番手之者共相重、廿九・晦日両日出備候処~ 
村上の陣を襲った一向一揆に対して、 
援軍に駆けつけた河田長親が攻め込み数十人討ち取り敵退散。 
三楽斎が佐竹と蘆名の和睦を整えたことを受けて謙信は越山しようとする。 

しかし情勢は悪化したと見えて 

8/10謙信→栗林(上田衆)宛
謙信が自身で越中出馬することになり、 
北条が厩橋を襲った時を考え景勝を留守に残すことにする。 

8/18謙信→河田
越山の長陣が可能になるよう 
後顧の憂いを断つために越中半途まで出馬し堅固に申し付ける予定であり、 
賀州之者が労兵なので懇望の様子だと楽観。
また北条は羽生出陣との情報も入ってきた。 

8/20杉浦壱岐守法橋玄任→坪坂伯耆・宇津呂丹波・川那・岸田宛 
18日に謙信が新庄表山際に野陣したとの情報。
一揆軍の大半は富山在陣し両軍の距離は一里計の対陣であるのに、 
本願寺顕如が南両郡(賀州江沼郡と能美郡両郡)の宗徒に対して 
越前・近江表へ出陣するように仰せ下されたが、近江は遠いので、 
まずは近くの敵を防いだ上で四郡揃って近江へ出撃し働くべきで、 
北両郡(河北郡・石川郡)と御両寺(瑞泉寺・勝興寺)はこれに同意しています。 
早々と謙信を討ち、この表を堅く仰せ付けてからはいかようにも敵へ働けます。 
加賀と越中の軍勢を一同に集めてただ一戦でもって相果てれば、 
結果、近江への道も極めることができるので、心がけ次第です。 
謙信との決戦に一騎でも二騎でも多く集結させるべきです。 

8/20信長→謙信宛 
賀州一揆蜂起の風聞。さっそく謙信出撃して今頃は討ち果たしていましょう。 
能美・江沼両郡が私に懇望してきたので済みました。 
(南両郡は織田と一時和睦し近江へ行かず、
北両郡と合流すべく越中へ向かう方針なのが窺える) 
越中表に出撃した一揆は、必ず敗走すると思いますが
油断なく手だてに及ぶのが肝要です。 

8/29信玄→上田石見守宛 
越中の備えが堅固に極めているとのこと。しかるべき馳走頼み入ります。 
越後を手に入れたら一所を差し上げます。私の外交僧の長延寺が越中にいる間、 
いろいろと懇切にしてくれて本望です。 

8月晦日瑞泉寺→坪坂伯耆宛 
礪波郡に謙信の軍がやってきて、昨日夜は鉄砲戦に及びました。
184名無し 2014/02/15(土) 13:30:28.44 ID:fl3XNvIj.net
9/4能登畠山氏重臣温井備中守景隆→坪坂伯耆宛 
懇切な書状を頂き本望です。富山一段と堅固とのことで、 
越後衆は失手の由候。信玄も信州へ出馬するので、 
謙信もそれに対応して越中から信濃へ兵を撤退させつと取り沙汰されております。 
(畠山氏は織田に属して、長氏が軍を率いて上洛して織田軍配下にいるので、 
 織田は賀衆一向宗を煽って謙信と戦わせるように
 仕向けるべく誘導しているのがわかる) 

9/6長福寺→坪坂宛 
越中表の儀は当方が御利運とのこと祝着です。 

9/8 
杉浦壱岐守→坪坂 
南郡衆出勢の件を先日申し入れましたが、まだ返事を頂いておりません。 
この表の備えをたびたび報告していますが、一大事を極めているのです。 
急いでお越しください。当表は堅固にしておりますが、 
敵も味方もやってきては兵を返します。これはあなた方自身が来ないために 
このようになっているのです。とにかくあなた方もきてください。 
朝倉助勢のことは北両郡と両寺と私が飛脚で京都(顕如?)へ言上するので
安心してください。 


9/9高木吉政→坪坂宛 
此表の始末は御心易候。敵の鑓も両度手合いしましたが、
先以心易見と楽観視してる書状。 
その理由は9/8午刻の戦闘で馬上共討ち取り大利を得たことが根拠のようだ。 
高木の上様は温井景隆とされており、
畠山軍の援軍も北陸一向宗に参加してきたようだ。 
これで北陸戦線は新たな戦局を迎えた。 

9/10謙信→後藤・栗林・本庄宛 
昨日も水橋をはじめ十余人を従敵陣引き除いて可心易候となり 
敵を追散させた礪波郡陽知の本陣にいる謙信も畠山軍の増援で
さらなる大軍に膨れ上がった一揆軍に対抗すべく 
景勝の上田衆を呼びよせ、代わりの守りを後藤が率いて栃尾衆に任せる転換を行う。 
また謙信は上田衆に対して行軍する時は旗を巻いて
夜中に越後を通過してから旗を開くように、
越中下新川郡で待機し指示を得て旗や鑓を掲げ兵が多いように敵に見せかける 
作戦を述べているので、一向宗の大軍に対して越後軍が寡兵なので、 
あちこちで起こる局地戦では高木の言うようなことも起きているのだろう。 

9/13謙信→栗林宛 
夜中に早々と打ち立ち、こちらからの迎えの人数と合流しだい、
浜通りを通過し当陣に急いでくるように。 
打ち続く遠道に上下ともに辛労になるだろうが、
明日の夜中のうちに浜通りを通過し、越中上新川郡の岩瀬にある 
当陣へ向かい河端を押し通ってくるように、
その際に自向敵鉄砲重打候ことも心得ておくように。 
上田衆は二手に分け押し通るように。
夜中に迎えの人数と合流したら大軍であるかのように見えるように押し来るように。 

夜中行軍と言うのは避けるべきことだが、珍しいことをしている。 
そのためか二手に分ける用心をして、しかも迎えの道案内との合流を重視している。
185名無し 2014/02/15(土) 13:37:44.76 ID:fl3XNvIj.net
9/17杉浦壱岐守→坪坂 
輝虎退散を申し入れて可御心易候と報告。 


上田衆の来援もあり、越後軍が積極攻勢に転じたようであるが、 
一向宗側は強がりを言っているのか? 
それとも上田衆との合流を目指した謙信の行動を退散と思い込んでいるのか? 
いずれにしても上田衆と合流した上杉軍の攻勢で
一向宗側はついに耐え切れなくなり瓦解してしまったようだ。 

9/18謙信→山吉・河田・北条・山崎・景勝 
内々おしつけて打ち越してきたところ、
敵陣が意外にも人数たな引き火宮筋へ引き入れてしまった。 
ともかく敵の敗北は5日のうち。
頸城も何事もないようなので、早々に春日山へ移って直江と談合してください。 

9/18謙信→山吉・河田・北条・山崎・景勝 
敵落来者より今月中に信玄が大手口より攻めてくるとのことです。 
頸城や春日山凶事が起きては労も功もありません。
早く春日山へ移り直江と談合肝心です。 
信玄に備え、こちらから帰した者も、一人も在郷へ返してはいけません。 
昨晩、江馬輝盛も合流しました。迎えに源五方を派遣しましたが、 
迎えに行く途中の道で敵陣可乗切様に見えていたところ、
出備候得者たちが武見衆を攻めてきたので、 
河田長親が助け合い敵十余討ち取り富山へ押し籠めた。
その時に惣備の敵は3.4000程度だった。 
4万と申すのは不審であり、昨日未明に惣宮筋へ際限なく
敵が全て小旗を巻き帰っていった。 
理由は能登の畠山が、越前朝倉軍が敗北したからとか、 
増山衆が陣払いしたとかで敵がいなくなったというが不審である。 

9/21願成寺(江沼郡?)→坪坂 
輝虎罷退候由を御大慶と喜んでいる。 

9/26信長→謙信 
謙信が山崎を織田に派遣して朝倉軍が一揆の援軍にくる可能性を問い合わせる。 
信長は小谷にいる朝倉軍が種々帰国調儀をしていることを認めているが
どうなるかは謀り難いが 
ぜひ討ち果たしたいと述べている。 

しかし実際は朝倉軍の撤退を見逃す信長であった・・・・ 

9/26 
信玄→杉浦壱岐守・長延寺 
江馬が留守中の隙を突いた飛騨攻め成功を報じ、
一揆衆に富山の普請に力を入れるように勧め 
どんどん寒気が強くなってきたので越後軍も長陣は叶わないだろうと言っている。 

10/朔信玄→朝倉義景 
越中において加賀一向宗と輝虎が対陣しているのに 
此表への出陣が遅れているのは意外です。 
其表を堅固にするのが肝要です。 

10/朔信玄・勝頼→勝興寺 
『思いがけない仕合』となり富山城が落ちたそうで是非もないです。 
去年以来、加賀・越中の両軍が対陣している間、 
随分と手合わせの備え油断なくやってくれていたことを感謝している。 

決定的な戦があったようで富山城も失うはめに。 

10/18 
謙信→河田 
各地から加賀一向宗凶徒敗北の報告がきております。 
椎名康胤など敵対していた者どもも懇望してきてますが、 
このたびは打ち取り今後は、この口が心易くなるようにいずれも申し払います。
187名無し 2014/02/15(土) 19:54:35.64 ID:iv3hJAUW.net
貴重な一次資料の提供に感謝。
畠山勢が参戦したとは知らなかった 

あと新庄城・尻垂坂・富山城での一連の合戦の参戦武将名が気になる 

上杉一門
上杉謙信・上杉景虎・長尾顕景・山浦国清
上杉景信・上条政繁・琵琶島弥七郎・山本寺定長 

譜代旗本
山吉豊守・直江実綱・本庄秀綱、他 

国人衆
斎藤朝信・柿崎晴家、他 

揚北衆
中条景泰・黒川清実・色部顕長・新発田長敦
五十公野信宗・加地彦次郎・安田新太郎、他 

?な人
北条高広・甘粕景持、他 

これら有力武将のうち参戦が明らかなのは謙信・顕景・国清・定長・長親くらい 
他の武将は何処で何してたんだろ 

あと9月に謙信が礪波郡陽知の本陣にいたとあるが陽知ってどこだろう 
陽知郷という所があったらしいがここだろうか 
現在の高岡市矢内川辺りだが、
富山城からだと神通川を渡ってかなり西に進軍したことになる
188名無し 2014/02/15(土) 21:12:36.72 ID:EkgIy3Ki.net
上杉景虎って御館の時以外の戦闘に加わってるのね
189名無し 2014/02/15(土) 22:14:54.75 ID:iv3hJAUW.net
上杉景虎は元亀3年の越中での一連の戦いに参戦したという資料ないよ 

そもそも謙信が景虎を戦場で戦わせた資料見たことない 
後継者はあくまで景勝だったんじゃなかろうか
190名無し 2014/02/15(土) 23:58:38.66 ID:LPag71hM.net
結局、景勝と栗林らに懇願した椎名康胤を謙信は許しちゃうんだよな。 
しかも一向宗と和議をして越後へ帰る途中に、 
信玄の指示を受けた長延寺の画策で一向宗が富山城を奪う和議破りの暴挙を起こし、 
謙信も慌てて引き返し富山城に対して向城を作ってから4/21に春日山城に帰り、 
8月に再び越中に出陣。 

この時に加越国境にあった朝日山城攻めにおいて14歳の中条景泰が、 
鉄砲隊の猛射の雨あられをものともせずに突撃していったのを見た謙信が、 
あいつ蜂の巣になって死んじまうって超ビックリして
慌てて家臣に連れ戻させて監禁すんだよなw 

あのバカにもしものことがあったら両親に合わす顔がないって言って
越後送りにしちゃうw 
北陸一向宗との戦いは大規模鉄砲戦なんだよな。
191名無し 2014/02/16(日) 02:04:02.72 ID:/s5ukPqS.net
謙信に助けられた景泰が中条家を継いで 
将来を期待されていたのに魚津城で玉砕するんだから悲しいゾ
192名無し 2014/02/16(日) 10:48:28.04 ID:7bFC24IB.net
鉄砲大量装備の富山城堅固過ぎワロタw 
鉄砲大量装備と言えば西上野国最大の防衛施設だった和田城も、 
武田が鉄砲を大量配備してんだよな。







上杉謙信
吉川 英治
2015-01-10


上杉謙信
高志書院
2017-11-10