1: 名無し 2015/11/10(火)22:44:21 ID: ID:rHh
1(右) 「レッドバロン」マンフレート・フォン・リヒトホーフェン
2(遊) 「サン・トロンの幽霊」ハインツ=ヴォルフガング・シュナウファー
3(三) 「ラバウルの貴公子」笹井醇一
4(一) 「無傷の撃墜王」エイノ・イルマリ・ユーティライネン
5(指) 「ウクライナの黒い悪魔」エーリヒ・ハルトマン
6(左) 「セイラー・マラン」アドルフ・マラン
7(捕) 「スクリューボール」ジョージ・F・バーリング
8(二) 「スターリングラードの白薔薇」リディア・リトヴァク
9(中) 「空の趙子龍」劉粋剛

先発  「アフリカの星」「黄色の14」ハンス・ヨアヒム・マルセイユ
中継ぎ 「白色電光戦闘穴吹」穴吹智
抑え  「ソ連人民最大の敵」ハンス・ウルリッヒ・ルーデル

控え野手 「ついてないカタヤイネン」ニルス・カタヤイネン
カタヤイネンだから仕方ない
「ラバウルの魔王」西沢広義が無い
>>3
しまった、入れるつもりで忘れてた…
大空のサムライがおらんやん!
>>7
大空のサムライは著書の名前であるから省いたで
ソ連人民最大の敵がいない
シモ・ハユハも最大の敵だけど…まぁ今回はパイロットやし
ヘイヘには二つ名ないんか?
あ、パイロットやったなスマンゴ
ガチでソ連人民最大の敵はスターリn
オットー・キッテルとゲルハルト・バルクホルンがスタンドから睨んでそう
夜の王者 工藤重敏
零戦虎徹 岩本徹三
やっぱなんだかんだ零戦虎鉄が好き
菅野デストロイヤー直がいない。
やり直し
というか、ぶっちゃけると
ドイツ空軍と日本軍はそれぞれで打線組めるから困る
>>19
逆を言えば二つ名がつくような
エースパイロットのマンパワーに頼るしかなかったんやろなぁ
25名無し 2015/11/10(火)22:57:31 ID: ID:oHg
弱い国ほど英雄が生まれるからな
アメリカとかイギリスはソフトバンクみたいに
圧倒的な人海戦術で潰すから英雄は生まれない
>>25
アメは戦意高揚の為に英雄行為をでっちあげる事をたまにしよるな
存在しない日本艦を撃沈したニュースを発表したりとか
玉音放送後宇垣とかいう偉いさんが飛行機で特攻した話聞いて
そんな人でも飛行機飛ばせるもんなんやなぁって思った
>>28
宇垣が飛ばしたんじゃなく2人乗りやぞ

ついでに沖縄戦での話やで
>>33
えぇ…パイロットさん不憫杉内
あの人は大砲屋だからほとんど飛行機の事は知らんで
そもそも将官で飛行機の操縦出来るなんてほとんどおらんけどな
確か一人おったぐらいちゃうかな?

これが米軍なら空母の指揮とるならパイロットの資格取れなんやけど
ただしピンチヒッターで機動部隊指揮官になったスプルアンスは例外
マンフレート・フォン・リヒトホーフェン
1892年5月2日 - 1918年4月21日

第一次世界大戦のドイツ陸軍のパイロット。
撃墜数は80機。
もともと騎兵であったが、大戦では
彼の想像した騎兵が旗を持ち前線をかける姿は自殺行為となってしまい、
伝令兵となってしまった。

そのため、彼は「前線を見たい」という事でパイロットになったのだが、
「飛行士が何をしているか知らなかった」とのこと。

最初のうちは偵察飛行をするなどしていたが、
「飛ぶコツを突然に覚えた」とのことで、
1916年9月に初めて撃墜すると翌1月まで16機、
さらにスコアを伸ばし50機目に到達した際には皇帝陛下から祝電が送られた。

彼の機体は赤く塗装され、またその振る舞いから
「レッドバロン」と言われるようになったが、
1918年4月21日にイギリス空軍の放った一発の銃弾が彼の身体を貫いた。
享年25歳。
>>37
やっぱ才能って大事だわ
ハインツ=ヴォルフガング・シュナウファー
1922年2月16日 - 1950年7月15日

第二次世界大戦のドイツ空軍パイロット。
撃墜数は121機で、全てが夜戦によるスコアである。
第1夜間戦闘航空団第2飛行隊に配属されると、
夜戦仕様のメッサーシュミットBf110で活躍。

1942年に実戦を迎え、1943年に第4飛行隊の中隊長に就任すると
1944年10月には夜戦のみで100機の撃墜スコアを達成した。
これに伴い、柏葉・剣・ダイヤモンド付騎士鉄十字章を授章している。

1945年には19分で7機撃墜するなどして、
終戦時には121機までスコアを伸ばしていた。
彼の所属していた基地がサン・トロンであったことから、
連合国の兵士たちに「サン・トロンの幽霊」と呼ばれるようになった。

戦争を生き抜いた彼であったが、1950年に自動車事故で亡くなっている。
享年29歳。
>>41 
ドイツ軍のパイロットってやたら事故で死んでいる気がする 
バルクホルンとかマルセイユとか
>>43
葬式に向かう最中に事故死とかさすがに笑えん
笹井醇一
1918年2月13日 - 1942年8月26日

第二次世界大戦の大日本帝国海軍のパイロット。
撃墜数は27機が公認だが、共同撃墜数は187機に上る。

戦争が始まる直前に台南航空隊(台南空)に配属され、
1942年にはラバウルに進出する。
中隊長に就任した彼の部下には、太田敏夫や西沢広義、坂井三郎などがいた。

ラバウルで着実に戦果を挙げ、リヒトホーフェンの撃墜数を目指していたという。
しかし、米軍海兵隊のマリオン・ユージーン・カール大尉との一騎打ちに敗れ、
撃墜された。享年25歳。

カールはその後飛行教官になるが、
常にこの時の一騎打ちで見せた笹井の諦めない姿勢を
教え子たちに強く説いていたという。
エイノ・イルマリ・ユーティライネン
1914年2月21日 - 1999年2月21日

第二次世界大戦のフィンランド空軍のパイロット。
撃墜数は94機だが、特筆すべきことは
彼は全ての戦闘の間に被弾したのが7.7㎜機銃一発であったことである。
しかも、それは当たったというよりかすったという状態で、
塗装が剥がれた程度の被害でしかなかった。

まず冬戦争がはじまるとフォッカーD-21で2機撃墜し、
継続戦争でアメリカが製造したF2Aに機種が変わるとスコアを一気に上げる。
この機体で34機撃墜させたが、1度の出撃で3機撃墜を3回達成させている。

ちなみに、F2A通称バッファローはクソ機と評判であり、
アメリカが処分に困ってフィンランド軍に押し付けたものであった。
その後フィンランドがドイツ支援を受けたため、
メッサーシュミットBf109に変わるとスコアをさらに伸ばした。

戦後は空軍を退役し、各地で軽飛行機による航空ショーに出演していた。
享年85歳。なお、兄貴も人外。
無傷の撃墜王くっそカッコいい
エーリヒ・ハルトマン
1922年4月19日 - 1993年9月20日

第二次世界大戦のドイツ空軍パイロット。
撃墜数は352機。一撃離脱戦法でスコアを伸ばした。

1940年に空軍に入隊し、1942年に東部戦線に配属されるが、
初出撃では彼をサポートしようとした味方機を敵機と勘違いし、
逃げ回って燃料切れで不時着するという失態を犯す。

1か月後に初めて撃墜するが、落ちていく敵機に見とれてしまい、
機体が巻き込まれて墜落してしまう。
そんな彼であるが病気療養中に自分自身にあった戦法を研究した結果、
格闘戦を避ける一撃離脱戦法を編み出した。

その後、驚異的なスピードで撃墜数を挙げたが、
彼はそれを誇ったことよりも僚友を一人も死なせなかったことを誇っていた。

彼の機体メッサーシュミットBf109に
黒いチューリップ風のマーキングをしたことから、
ソ連軍から「黒い悪魔」と称された。

ソ連占領地で敗戦を迎えると、上官の即刻英米軍への降伏を良しとせず、
部下・隊員家族・避難民全員を伴って移動し、米軍に降伏した。

だが、彼はソ連に引き渡されると10年以上の抑留を受け、
彼の性格は変わってしまったという。
その後、西ドイツ空軍に入隊した。自動車事故とは無縁の生活を過ごし
(本人もそのあたりを意識していた)、1993年に病死している。
享年71歳。
>>51
ハルトマンおもろいやんけ
アドルフ・マラン
1910年3月24日 - 1963年9月17日

第二次世界大戦の南アフリカ出身イギリス空軍所属のパイロット。
撃墜数は27機。
1924年から3年間は船乗りであった。そのため「セイラー・マラン」と呼ばれた。
1940年に初めて戦闘に参加し、2か月後に
ドイツ空軍エースのヴェルナー・メルダースを撃墜、負傷させている。

彼が唱えた空戦の十則は、イギリス空軍の手本となった。
戦後大佐で退役し、南アフリカに戻っている。享年53歳。

「マランの空戦十則」
1.敵の白眼が見えるまで待て。
 確実に敵を視界に捉えたならば、1~2秒間の短い射撃を行え。
2.射撃の間は何も考えるな。身体を引き締め、両手で操縦桿を握り照準に集中せよ。
3.常に警戒を怠るな。
4.高度は戦闘の主導権を握る。
5.常に旋回し攻撃のために正対すること。
6.即断せよ。君の戦術がベストでなくとも、即時行動に移るべし。
7.戦闘空域で30秒以上水平飛行をするな
8.対地攻撃を行う際は、上空援護のために僚機を必ず残しておくこと。
9.空戦においては「先制攻撃」「積極果敢」「規律」「チームワーク」が重要である。
10.素早く突っ込み強烈なパンチ、そして逃げろ。
ジョージ・F・バーリング
1921年12月6日 - 1948年5月28日

カナダ出身でイギリス空軍及びカナダ空軍に所属したパイロット。
撃墜数は31機だが、彼の理論によると少し減るらしい。
他人に打ち解けることはせず、
「スクリュー・ボール(奇人・変人)」と言われた。

彼はまずカナダ空軍に入隊を希望したが、学歴の問題で入れなかった。
そのため、自力で飛行ライセンスを取得したが、
冬戦争がはじまるとフィンランド空軍に入隊しようとしていたらしい。
だが、これは父親の反対でダメになった。

その後、どうにかこうにかしてイギリス空軍に入隊。
1941年からスコアを稼ぎ始める。
彼の方法は機銃の射程外から偏差射撃で敵機を撃墜する方法だが、
規律違反は日常茶飯事、敵機を見つけると勝手に編隊から離脱して
単独で空戦を始めるという問題児ぶり。

そのため、ドーバー海峡から追い出されてマルタに左遷される。
ここでの空戦は一匹狼の彼のスタイルに適しており、
マルタでは23機撃墜した。
ただし、撃墜未確認機だったものが公認される時に彼はそれを拒否したが、
上官に無理矢理認めさせられている。

その後再びイギリス本土に戻るが、1944年春に一線から退けられてしまう。
射撃学校の教官になった彼は、学校長のマランと喧嘩に明け暮れ、
カナダ空軍に追い出されてしまう。
しかしここでも馴染めず、その年の10月に退役処分を受けた。

1948年にイスラエル空軍に入隊したが、
その2週間後に操縦する機体が故障により墜落し死亡した。
享年26歳。
リディア・リトヴァク
1921年8月18日 - 1943年8月1日

モスクワ出身の赤色空軍女性パイロット。
撃墜数は11だが、10とも12とも言われている。

元々パイロットであったが、独ソ戦が始まると空軍に入隊。
その際、飛行時間を水増ししていたらしい。
最初は婦人部隊に派遣されるが、その後男性部隊に配属になっている。
1943年に初撃墜。中型爆撃機Ju88を撃墜し、
さらに護衛のメッサーシュミットBf109を撃墜した。

Bf109のパイロットはドイツ空軍のエースパイロットであったが、
脱出に成功し捕虜となっている。
自分を撃墜した人間を見たいとの要望に赤軍は彼女を会わせたが、
彼は最初は冗談だと思っていた。
しかし、彼女が語る空戦の状況から、彼は彼女に撃墜されたことを悟ったという。

その後、砲兵の観測気球撃墜に対する戦術方針を提案するなど、
「生まれつきの戦闘機乗り」であったが、ウクライナで撃墜された。享年21歳。

死亡したか、脱出したのかわからず、
そのためにソ連邦英雄の称号に授からなかった。
彼女の機体の整備員であった者が、36年かけて彼女の所在を探し、
埋葬されていた彼女の遺体を発見したことで、
ソ連邦英雄の勲章が1990年に授けられた。

彼女の乗機には白百合が描かれており、
ソ連では「スターリングラードの白百合」と呼ばれていたが、
欧米では白薔薇と紹介されている。
劉粋剛
1911年2月 - 1937年10月26日

満州出身の中華民国空軍のパイロット。
撃墜数は確実11機、不確実2機。
複葉機で日中戦争を戦った。
1937年に戦争がはじまると、その年だけで13機撃墜し、
その姿から三国志の人物を取って「空の趙子龍」と呼ばれた。

特に基地を奇襲した九六式陸上攻撃機を僚機とともに小隊を全滅させたことで、
彼の名が知られるようになった。
しかし、移動中の不慮の事故のために死亡した。享年25歳。
ハンス・ヨアヒム・マルセイユ
1919年12月13日 - 1942年9月30日

第二次世界大戦のドイツ空軍パイロット。
撃墜数は158機。
1940年にバトル・ブリテンで初出撃初撃墜をすると、
1か月後には5機撃墜を達成しエースになっていた。

その後7機までスコアを伸ばした後、北アフリカに派遣される。
1941年の初めは撃墜されてばっかであったが、
その後偏差射撃を得意として撃墜数を稼ぐ。

やがて10分間に8機撃墜、1日に17機撃墜、1ヶ月に54機撃墜と人外に。
やがて「アフリカの星」、
第3中隊の14号機であることから「黄色の14」と呼ばれるようになった。

しかし、その彼は1942年、護衛任務から帰投中に機体が故障し墜落。
享年22歳であった。
穴吹智
1921年12月5日 - 2005年6月

第二次世界大戦の大日本帝国陸軍パイロット。
撃墜数は51機。「ビルマの桃太郎」や「運の穴吹」などとも呼ばれていたが、
彼が好んだのは「白色電光戦闘穴吹」であり、自称すらしていた。
戦前に配属されると、戦争がはじまり各地を転戦。

1942年に隼を飛ばすようになると、「吹雪」と名付けて撃墜数を増やしていった。
その中にはギアを格納し忘れながら戦い、
ハリケーンを2機撃墜しているものまである。

1943年に新たに隼を受け取るとこれを妻の君子から「君風」と名付ける。
その機体でB-24に体当たりするなどしているが…。
戦後は警察予備隊に入隊後、
自衛隊にてヘリコプター飛行隊長にもなっている。
享年83歳。
>>69
なんで体当たりして生きとんねん
>>73
末期の日本軍にはそんな奴らがゴロゴロいたし多少はね?
>>78
あんなんゾンビやんけ

ちなみに舩坂さんが開いた書店ってまだあるらしいな
ハンス・ウルリッヒ・ルーデル
1916年7月2日 ? 1982年12月18日

第二次世界大戦のドイツ空軍パイロット。
ただし、急降下爆撃機のパイロット。なのに9機も撃墜している。人外。
「ソ連人民最大の敵」とはスターリンが名付けたものである。やはり人外。
詳しいことはアンサイクロペディアが詳しい。簡単に言うと人外。

ちなみに被撃墜数は30回。負傷してもすぐに戻ってくるぞ!イワン涙目。
戦後はA-10を開発に携わっている。あんな設計思想するなんてやはり人外。
そんな彼も1982年に病で亡くなっている。
享年66歳。
ニルス・カタヤイネン
1919年5月31日 - 1997年1月15日

第二次世界大戦のフィンランド空軍のパイロット。
撃墜数は35機。冬戦争時はまだ訓練生であったため、活躍は継続戦争以降になる。
配属先での最初の飛行から昇降舵や着陸脚が壊れるなど、
不運はこの時から始まる。

撃墜時に被弾するなどしていたが、彼は無事であった。
しかし機体は無事で済まない。修理に出される。
で、機体が戻ってまずはテスト飛行。そして機体がひっくり返る。
そんな事を起こしたら、あいつは機体をよく壊すということで
爆撃機任務に命じられる。

不満を持ち、戦闘機乗りへの復帰を望むも認められず、
さらに態度が悪いという事でハンガーの掃除係に命じられる。
すでにエースパイロットなのに。

そんな状態であったが、無事復帰。いや無事じゃなかった。
メッサーシュミットBf109を受領すると、
最初のテスト飛行でエンジントラブル、2回目では機体がバラバラに。
しかし生き残る。やばい。

さらに7月にスコアを伸ばしていく中で被弾し、
戻る最中に気化したガソリンを吸ってしまい意識を失って滑走路に衝突。
そのスピードは時速500km/hで、機体は勿論バラバラに。

だが生き残る。そんなことから彼は
「ついてない」ともそんな状況なのに生き残ったことから
「ついている」とも言われている。
戦後は市役所の公務員であった。
享年77歳。
あれやな、ストライクウィッチーズを思い出すな
>>72
フィンランド大使館は全て把握している模様
>>75
駐日フィンランド大使館のtwitterクソ吹いたwww