先史の時代と石器時代

・人類の歴史上最古の人類は約400万年前、
 アフリカに出現した猿人(アウストラロピテクス)である。

・時が流れ約5万年前、
 現在の人類の祖先、新人(クロマニョン人)がヨーロッパに出現する。

 

400万~1万年前、打製石器を使用していた時代は旧石器時代という。

人々は狩り・漁・採集を行い、外から食料を調達していた。

 

1万年前~5000年前の磨製石器を用いた時代を新石器時代という。

新石器時代になると、
人々は農耕・牧畜を始め自分で食料を調達するようになった。

四大文明

紀元前3000~1500年
農耕に必要な水が豊富にある大河の流域で文明が発達した。


・アフリカのナイル川流域ではエジプト文明が栄えた。
 象形文字・ピラミッドが有名である。

・中東アジアのチグリス川&ユーフラテス川流域ではメソポタミア文明が栄えた。
 有名なのはくさび形文字ハンムラビ法典

・インドのインダス川流域ではインダス文明(遺跡:モヘンジョ・ダロ)が栄えた。
 後にシャカ仏教をひらく。

 

・中国の黄河流域では中国文明
 紀元前1600年ごろが栄え、甲骨文字、青銅器を使用していた。

 殷の滅亡後はが栄え、その後、戦国乱世になる(春秋戦国時代)。 
 ※紀元前500年ごろ、中国では孔子儒教を説いた。孔子の本は『論語』

 紀元前221年にが中国を統一。始皇帝万里の長城を築いた。

 

 しかし秦は15年で滅び、その後、が中国を統一。
 シルクロード(絹の道)でヨーロッパのローマ帝国と交易した。

 ※ローマ帝国には水道橋、コロッセオ(闘技場)などがあった。

 

1世紀初め、イエスキリスト教をひらく。

 

日本の旧石器時代

日本の旧石器時代代表的な遺跡は岩宿遺跡(群馬県)野尻湖(長野県)。

 

縄文時代

1万年前になると、日本の人々は土器を作り始めた。

この時代の土器は表面に縄目がつけられたものが多かったため縄文土器と呼ばれる。


縄文土器が使用された1万年前~紀元前4世紀を縄文時代という。
人々はたて穴住居に住み、貝塚と呼ばれるゴミ捨て場を利用。
また、自然の豊作を祈って土偶をつくった。

縄文時代の代表的な遺跡は三内丸山遺跡(青森県)モースが発見した大森貝塚

弥生時代-300~300

稲作が日本に広まった。稲穂のつみ取りには石包丁が使われ、
収穫した稲を保管するために高床式倉庫が建てられた。
弥生時代は縄文土器にかわり、薄くて丈夫な弥生土器が用いられた。

代表的な遺跡は吉野ヶ里遺跡(佐賀県)登呂遺跡(静岡県)

 

中国が“”の時代には「倭の奴の国王」が使いを送り、金印をもらい

“魏・呉・蜀”の三国時代には「邪馬台国の女王卑弥呼」が“”に使いを送り、
親魏倭王」の称号をもらった。

※このことは魏の歴史書『魏志倭人伝』に記されている。

 

古墳時代(古墳文化)

弥生時代が終わった後、日本は奈良の大和王権(大和朝廷)が日本を支配していた。

古墳時代には倭の5人の王(倭の五王)が中国の南朝へ使者を送った。

また、大王(のちの天皇)・豪族の墓である古墳が多くつくられた。
古墳は前方後円墳という形で、はにわで飾られていた。

また、渡来人が来て「漢字・須恵器・儒教・仏教」が伝わった。

 

飛鳥時代(飛鳥文化)

推古天皇の摂政、聖徳太子厩戸皇子)は、
冠位十二階で身分にかかわりなく役人を採用、

十七条憲法で役人の心得をしめした。
また小野妹子遣隋使として(中国)に派遣した。

 

聖徳太子の死後、蘇我氏が独裁政治を行うようになった。

中大兄皇子中臣鎌足と共に蘇我氏を打倒し、大化の改新という政治改革を行う。
特に大切なのは、全国の土地と人民を全て国のものとする公地公民である。

 

※中大兄皇子のちに天智天皇として天皇に即位する。
※中臣鎌足はのちに藤原鎌足になる←平安時代に繁栄する藤原氏の先祖。

672年

天智天皇の死後、後継者争いが起こる(壬申の乱)。

勝利した天智天皇の弟(大海人皇子)が天武天皇として即位する。

※天武天皇のころの貨幣が富本銭。日本最古の貨幣と言われている。
 その後、708年につくられたのが和同開珎

 

701年
大宝律令がつくられた。
律令(法律)に基づいて政治を行う国家を律令国家という。 
※「律は刑罰」、「令は政治」について定めたもの

朝鮮三国志と日本

4世紀の朝鮮半島には高句麗・新羅・百済の3国があり、争っていた。
日本は百済と交流があった。

 

660年
新羅が唐(中国)と手を結んで百済を攻めた。

663年
中大兄皇子
 (後の天智天皇)は、百済を助けるため、朝鮮に日本軍を派遣。

「新羅・唐」  V.S. 「百済・日本」の戦いになった(白村江の戦い)。

百済・日本は敗北し。百済は滅亡してしまった。

 

戦争に負けた中大兄皇子は「新羅・唐」が日本に攻めてくることをおそれ、
九州に防人をおいて、国を守らせた。

そののち高句麗も「唐・新羅」に挟み撃ちにされ滅亡。
新羅が朝鮮を統一した。

 

奈良時代(天平文化)

710年
律令国家の新しい都として、奈良に平城京がつくられた

律令制度のもとで、国ごとに国司が派遣された。

そして人々に平等に土地を分ける班田収授法という仕組みが整えられた。

班田収授法では6歳以上の男女には口分田が与えられ、死後は国に返還された。

 
「奈良時代の税の種類」
(稲)・(布)・調(特産物)

雑徭(地方で労働を行う)、兵役(都の警備or北九州を守る)

また九州には外交の窓口として、太宰府がおかれた。

 

奈良時代、日本の歴史を書物にまとめようとする動きがおこった。
まず古事記がつくられ、ついで日本書紀がつくられた。
さらに朝廷(政治の中心)は国司に命じて
国ごとに伝説や地理、産物を調べて風土記をつくらせ、各地の様子を記録した。

 

聖武天皇の治世になると人口の増加に対して口分田が不足してきた。そこで、
墾田永年私財法を出して新しく開墾した土地を永久に私有地にすることを認めた。

 

聖武天皇は国ごとに国分寺・国分尼寺をおき、
仏教によって国家の安定をもたらそうとした。

都には東大寺を建て、大仏の建立を命じた。それを手伝ったのが行基

 

また唐(中国)からやってきた鑑真が仏教を広め、唐招提寺をつくった


平安時代(国風文化)

794年
桓武天皇は唐の都長安にならって京都に平安京をつくった。

 

このころ東北では蝦夷(リーダーはアテルイ)が勢力を誇っており、
朝廷は坂上田村麻呂を征夷大将軍に任命し、蝦夷を討伐させた。

 

894年
唐が衰えたため、菅原道真の意見を取り入れ、遣唐使が廃止された。

 

930年代の後半、関東で平将門が、瀬戸内では藤原純友が反乱をおこすなど、
武士が台頭するようになっていった。
なかでも源氏平氏が率いる武士団が有力だった。

源氏は東北であった二度の戦乱(前九年の役・後三年の役)をしずめ
有力な武士団に成長した。

 

朝廷では藤原氏が勢力を伸ばし始める。
一族の娘を天皇の后とし、その王子を天皇にたて、天皇の一族となった。
天皇が幼いときは摂政として、成人してからは関白として政治の実権を
握った。
これを摂関政治という。藤原氏が最も栄えたのは藤原道長
その子頼通のころで、
大規模な所有地である荘園を持ち、繁栄をきわめた。

 

その後、藤原氏に代わり天皇が実権を握るようになった。
白河上皇は天皇の位をゆずった後(つまり上皇となった後)も
強大な権力をもち、政治を行った。これを院政という。
上皇=元天皇 ※院=上皇の家 
 院に住んでいた上皇が政治を行ったから院政

 

平安時代には
 比叡山延暦寺最澄天台宗を、
高野山金剛峯寺空海真言宗を広めた。

10世紀中頃
念仏を唱えて阿弥陀仏を信仰すれば
死後に極楽浄土に生まれ変わることができると説く浄土教がさかんになった。

  

1156年&1159年
天皇と上皇との間で権力争いが起こった。
貴族や武士は二手に分かれて戦いになった“保元の乱”。
その後、源氏と平氏の対立が深まり、再び戦いが起こった“平治の乱”。


1167年

勝利した平清盛は武士として初めて朝廷の最高の地位である太政大臣にまで
のぼりつめた。清盛は兵庫の港(大輪田泊:現在の神戸)日宋貿易を行い、
平氏は「平氏の一族でない者は人ではない」と言われるほど栄えた。

 

1181年~1185年
平氏の天下は長く続かなかった。平治の乱で敗れた源義朝の息子、源頼朝
平氏に対して伊豆(神奈川県)で反乱を起こす。
源氏は各地の合戦で勝利し、壇ノ浦の戦いで平氏を滅ぼした。

平氏の滅亡ののち、源頼朝は朝廷の承認を受けて、
国ごとに守護、荘園や公領には地頭をおいた。

※守護は警察。地頭の仕事は年貢(税)の取り立てである。

鎌倉時代(鎌倉文化)

1192年
頼朝は朝廷から征夷大将軍に任命され鎌倉幕府をひらいた。
「鎌倉幕府の役職や機関」

 執権将軍を補佐
 侍所:御家人の統率 
 政所:財政・一般の政治 
問注所:裁判

 

鎌倉幕府は、将軍とその家来である御家人との主従関係で成り立っていた。
これを封建制度という。

御家人は将軍から領地を保護されたり、新しい領地を与えられるなど御恩をうけ、

そのかわりに将軍に忠誠を誓い、戦の時は将軍のために戦った(奉公)。

 

源氏の将軍はたった3代で途絶えてしまい、

頼朝の妻(北条政子)の実家である北条氏が執権として政治を行うようになった。
これを執権政治という。

 

1222年
源氏の将軍が途絶えたことを好機とみた後鳥羽上皇は朝廷の勢力を回復するため、
北条氏を討つ命令を出した(承久の)。しかし失敗。
後鳥羽上皇は島流しになり、幕府は朝廷を監視するため京都に六波羅探題をおいた。
これにより西日本にも幕府の力がおよぶようになった。

 

1232年
執権になった北条泰時は裁判の基準をしめした御成敗式目を定めた。

1274年&1281年

このころ中国ではフビライ=ハンの元が大きな勢力を誇っていた。

元は2度(文永の役&弘安の役)日本を攻めたが、

日本は執権北条時宗を中心にこれを撃退した。これを元寇という。

 

1297年
元寇で、御家人は多くの犠牲をはらった。
しかし幕府は御家人に十分な恩賞を与えることができず、御家人の不満は高まった。
幕府は御家人を助けるために借金帳消しの徳政令を出した(永仁の徳政令)
しかし、御家人に金を貸す者がいなくなり、御家人の生活はさらに苦しくなった。

 

鎌倉時代、農業では稲作と畑作の二毛作が、商業では定期市が始まった。

 

また仏教が武士や庶民の間にも広がるようになった。

法然浄土宗  親鸞浄土真宗一向宗

日蓮日蓮宗  一遍時宗


中国(宋)からは禅宗が伝わり
栄西臨済宗  道元曹洞宗

1333年
鎌倉幕府の力が揺らぎ始めると、京都の後醍醐天皇は幕府に対し挙兵。

鎌倉幕府は滅亡する。

1334年
後醍醐天皇は建武の新政という新しい政治を始める。

これは公家・貴族を中心とした政治で、倒幕に活躍した武士の不満が高まった。

 

武士の中心、足利尊氏は後醍醐天皇に対して反乱。
京都に新しい天皇をたてた“北朝”。

後醍醐天皇は奈良県の吉野に逃れ、別の朝廷をたてた“南朝”。

北朝と南朝は約60年間も争いを続けた。この時代を南北朝時代という。

 

室町時代(北山文化・東山文化)

1338年
足利尊氏は北朝の天皇より征夷大将軍に任命され室町幕府を開いた。

幕府は各地の守護に強い権限を与え、守護大名がうまれた。
また、将軍を補佐するのは管領である。

 

1392年
3代将軍足利義満の頃には南朝の力が衰え、南北朝の統一が実現した。

また、義満は勘合貿易を行うことによって利益をあげ、金閣を築いた。

※倭寇(海賊)と正式な貿易船を区別するために勘合という合い札を使った。

 

室町時代、
職人や商人達はとよばれる同業者の組合をつくった。
京都では町衆が自治の仕組みをつくっていた。
こうした動きは農村でもおこった。農民の自治組織をという。


「その他の重要なもの」

   馬借:運送業者(馬で荷物を運ぶ)
 問・問丸:船で品物の保管・運搬を行う

土倉・酒屋:高い金利でお金を貸す金融業者

 

農民反乱3種:山城国一揆、加賀の一向一揆、正長の土一揆

※それぞれ
 山城国(京都) であった反乱 
 加賀(石川県)の一向宗(←浄土真宗の別名)の反乱 
 正長という時代に起こった反乱

 

1467年
8代将軍足利義政の後継者争いから、応仁の乱山名氏 対 細川氏)がおこる。

京都は焼け野原となり、幕府の権威は失墜…。

社会全体に身分が下のものが実力で上の者を倒す下克上の風潮が広まった

 

実力のある家臣などは守護大名を倒し、一国の領主となった。
これが戦国大名である。戦国大名は自らの城の下に町を築き城下町とし、
独自の法律である分国法を定め政治を行った。

 

このころ、沖縄では琉球王国が栄えていた。

朝鮮では李成桂が高麗を滅ぼし、朝鮮国ができる。

大航海時代と宗教改革

1400年ごろ
ヨーロッパでは古代ギリシアやローマの文化を
見直そうとする動き(ルネサンス)が起こった。

 

また、ヨーロッパの国王や商人は莫大な富をもたらす金や銀、香辛料を求め
海外に進出するようになった。この時代を大航海時代という。


バスコ=ダ=ガマ:インドへ到達
・   コロンブス:新大陸発見
・    マゼラン:世界一周

※新大陸=アメリカ   
※マゼラン自身は世界一周の途中、フィリピンで戦死する

 

1517年
ドイツのルターらがキリスト教会のあり方に抗議し、
新たにプロテスタントという宗派が生まれた(宗教改革)。
これに対しローマ教皇を首長とするカトリック教会では
イエズス会が創設され、海外にキリスト教を広めようとした。

 

1543年
ポルトガル人種子島鉄砲伝える。

1549年
イエズス会のフランシスコ=ザビエルが鹿児島に到着しキリスト教の布教を開始。

 

日本人はスペイン・ポルトガル人を南蛮人と呼び、彼らとの貿易を南蛮貿易という。

 

1467年の応仁の乱の後、各地で戦国大名が争った時代を戦国時代という。
中でも頭角を現したのが織田信長である。
信長は今川義元桶狭間の戦い(1560年)で破ると、京都に上り、
室町幕府15代将軍に足利義昭をつけた。が、仲が悪くなり京都から追放。
これにより室町幕府は滅亡する(1573年)。

 

安土桃山時代(桃山文化)

最強と言われた武田氏の軍勢を大量の鉄砲で破った(1575年 長篠の戦い)。

仏教勢力とは敵対し比叡山延暦寺を焼き討ちした。
また、本拠地として琵琶湖のほとりに安土城を建設。

城下町では自由な商業を保障する楽市・楽座の政策をとった。
順調に勢力を広げた信長だったが、

部下の明智光秀の反乱を受け京都の本能寺にて亡くなる(1582年 本能寺の変)。

 

信長の死後、天下を統一(1590年)したのが豊臣秀吉である。
秀吉は大阪城を築き拠点とし、各地の収穫高を調べさせる太閤検地

武器を没収する刀狩で武士と農民を区別する兵農分離おし進めた。
また、バテレン追放令を出しキリスト教を禁止した。
その後、
中国(明)を征服するため朝鮮へ出兵(文禄の役・慶長の役)するも失敗する。


江戸時代(元禄文化・化政文化)

1600年
豊臣秀吉の死後、徳川家康関ヶ原の戦い石田三成を破り

1603年
征夷大将軍に任命され江戸幕府をひらいた。

その後、2度の大坂の陣1614年の冬の陣、1615年の夏の陣)にて豊臣氏を滅ぼす。

 

「江戸幕府の役職や機関」

  老中家臣の最高地位    ※大老臨時の最高職

寺社奉行:宗教面
 町奉行:都市の政治
勘定奉行:財政面

 

幕府は全国の大名を、
①  親藩徳川一族
譜代大名関ヶ原の戦い以前からの家臣

外様大名関ヶ原の戦い以後従った家臣
に分けた。
関西・関東といった重要地は親藩・譜代大名を配置し、
九州・東北に
外様大名を追いやった。

 

幕府は武家諸法度を定め大名を統制した。

中でも、大名が1年ごとに領地と江戸を往復する参勤交代は大名の財政を苦しめた。

※京都の公家(貴族)に対しては禁中並公家諸法度を定めた。

大名の領地の組織をとよび、
幕府と藩が全国を統治する制度のことを幕藩体制という。

 

家康は朱印船貿易で外国と交流した、その結果、東南アジア各地に日本町ができた。

反面、日本国内ではキリスト教信者が急増。
脅威に感じた幕府はキリスト教の信仰を禁止する。

 

1637年
反発したキリスト教徒は、3代将軍徳川家光のころ、天草四郎を大将として
九州で島原の乱を起こす。幕府はこれを鎮圧し、絵踏の徹底などにより
キリスト教の取り締まりを強化した。

 

また、中国・オランダ以外の国との貿易を禁止した(鎖国)。
オランダとは長崎出島で貿易した。

 
=====================================

その後、平和な時代が到来。“千歯こき”、“備中ぐわ”などにより農業が発達する。

 

幕府は江戸を中心とする五街道をしき、東廻り航路西廻り航路など海上交通網も
整備され菱垣廻船樽廻船が活躍した。

 

江戸は「将軍のおひざもと」、大阪は「天下の台所」と呼ばれて栄えた。

各藩は大阪に蔵屋敷をおき年貢米や特産物を保管した。

 

対馬藩は朝鮮と貿易
※朝鮮からは将軍がかわるたびに朝鮮通信使が日本を訪れた。

 

松前藩は 蝦夷地(北海道)のアイヌと取り引きを行った
※1669年アイヌのリーダー、シャクシャインが反乱を起こす。


5代将軍徳川綱吉は儒学の祖:孔子をまつるとともに、学問や文化を重んじる
文治政治を目指した。また、生類憐みの令を出して、生き物を保護した。
しかし行き過ぎた政策のため幕府は財政難に陥る。

 

新井白石が登場し、物価を引き下げたり、金銀が海外に流出しないよう

長崎貿易を制限するなど財政の立て直しを図った(正徳の治)。

 

その後、8代将軍となった徳川吉宗は倹約令を出して支出を抑え、

参勤交代を緩めるかわりに大名に米を幕府に献上させる“上げ米の令”を発する。
公事方御定書で裁判の基準を定め、民衆の意見を聞くために目安箱を設置した。
このような吉宗の改革を享保の改革という。

 

吉宗の死後、老中田沼意次が登場。彼は商人同業者の組織である株仲間を公認し、

利益を独占させる代わりに、営業税をもらい財政を立て直そうとした。
また新田開発や長崎貿易にも積極的に取り組んだ。
しかし、1782年に天明の飢饉が起こり、各地で一揆打ちこわしが起こった。

※一揆:農村で起きる反乱  打ちこわし:都市で起きる反乱 

田沼の後、老中となった松平定信は贅沢な生活を戒める厳しい倹約令を出すとともに、
武士の借金を帳消しにする命令を出した。
また、荒れた農村を立て直すため
江戸に出稼ぎに来ていた農民たちに資金を与えて故郷に帰した。

一方、昌平坂学問所をつくり朱子学を学ばせ、逆に朱子学以外の学問を禁止した。

このような改革を寛政の改革という。

 

1800年前後になると
世界最強国イギリス、北方の隣国ロシアなど外国の船が日本に接近するようになる。

1792年
ロシアの使節ラクスマンが北海道(根室)に、
1804年
レザノフが長崎に来航し通商を求めるが幕府は応じなかった。

1825年

外国船の接近に対し、鎖国政策とっていた幕府は異国船打払令を出した。

のちに高野長英渡辺崋山は異国船打払令を批判する本を書き、
幕府に処罰される(蛮社の獄)。

 

このころ天保の飢饉という、農業の凶作が起こる。
1837年

民衆の間に不満が高まった大阪では大塩平八郎の乱が起こる。          

1841年
老中水野忠邦が登場する。
水野は倹約令を出し贅沢を禁止し、人返しの法によって農民を村に帰らせた。
また株仲間の解散を命じ、さらに、
江戸大阪周辺の土地を幕府が直接治めようとする
上知令を出すなど天保の改革を進めた。

 
ヨーロッパで起きた市民革命

1649年 清教徒革命(ピューリタン革命)&1688年 名誉革命
ヨーロッパでは国王が強大な権力を持ち政治を行っていたが(絶対王政)、
イギリスでは酷い政治を行っていた王に対し2度にわたって反乱が起き、
王を倒し、市民が政治を行うようになった。

 

1776年 アメリカ独立
イギリスの植民地だったアメリカはイギリスからの弾圧に抗議して、独立宣言を発表。
その後、アメリカはイギリスとの独立戦争に勝利し完全な独立を手にする。

 

1789年 フランス革命
フランスでは財政難がもとで、国王や貴族に対するフランス革命がおこり

人権宣言が発表された。このような市民たちによる革命を総称して市民革命とよぶ。

 

1700年代後半、
イギリスでは産業革命が起こり、様々な機械の発明によって
綿製品を機械で生産するようになるなど、社会が大きく変わった。

1840年 アヘン戦争
産業革命により高品質の製品を多く生産できるようになったイギリスは市場を求め、

清(中国)に進出するようになった。イギリスは清に植民地のインドでつくったアヘン(麻薬)を
売り付け利益を上げていたが、清は反発。アヘンの貿易を禁止した。

怒ったイギリスは清を攻め勝利。清に不平等な南京条約を結ばせた。
ふがいない清の政府に中国民衆は
太平天国の乱を起こす。

 

1857年
イギリスの植民地インドではイギリスに対してインドの大反乱が起こった。

 

1853年ペリー来航と1867年江戸幕府の滅亡

1853年
アメリカの黒船に乗ったペリー浦賀にやってきた。

1854年
強大な軍事力を持つアメリカに幕府は、日米和親条約を結び下田・函館を開港。
鎖国は終わった。

 

1858年にはハリス日米修好通商条約を結び、

函館・神奈川(横浜)・新潟・兵庫(神戸)・長崎の5港を開いた。

 

この条約は、外国人の犯罪を日本で裁くことができず(領事裁判権を認め)、

輸入関税を自由に決定する権利(関税自主権)のない、不平等条約だった。

 

幕府が条約を結んだことに対して全国で尊王攘夷運動が起こる。

※尊王(天皇を敬い)攘夷(外国を打ち払う)

それに対し、
条約を締結した大老の井伊直弼は反対勢力を次々と処刑(安政の大獄)するも
反発した浪士たちに暗殺される(桜田門外の変

 

1862年
薩摩藩は藩の行列を乱したイギリス人商人を殺傷し(生麦事件

イギリスとの戦争になった(薩英戦争

 

1863年 
長州藩は攘夷を実行して下関海峡を通る外国船を砲撃

→イギリス・フランス・アメリカ・オランダの連合艦隊によって下関が攻撃される


外国と戦争した薩摩と長州はその強さを痛感し、攘夷をあきらめ、倒幕を決意する。

薩摩藩と長州藩は犬猿の仲だったのだが、
土佐藩(高知県)の坂本龍馬仲を取り持ち薩長同盟を結ばせた。

倒幕はまぬがれないと悟った15代将軍徳川慶喜は政権を朝廷に返した(大政奉還)。

 

薩摩藩の西郷隆盛らは王政復古の大号令を出して、天皇の政治に戻すことを宣言。

これに不満を持った旧幕府軍は明治政府軍と戦争を起こす(戊辰戦争)も敗北する。
※戊辰戦争の始まりの戦いが京都で起こった鳥羽伏見の戦い