60: 無名武将@お腹せっぷく 2010/02/15(月) 21:20:07
世祖武皇帝中太康元年(庚子,西暦280年)

春,正月,呉は大赦した。
杜預は江陵に向かい,王渾は横江に出て,呉の鎮、戍を攻めたたところ,向う所で皆克った。二月,戊午,王濬、唐彬は丹楊監の盛紀を撃破した。呉人は江磧に於いて要害となる処には,並んで鉄鎖を以って之を橫截していた;又た鐵錐を作した,長さは丈餘で,江中に暗置し(隠れるように配置し),以って舟艦を逆い拒もうとしたのである。

王濬は大筏數十を作した,方百餘歩,草を縛って人と為し,甲を被せて仗を持たせると,水を善くす者を令て以って筏を先行させた,鐵錐に遇うと,錐は輒ち筏に著わされて而して除去された。又た大炬を作った,長さ十餘丈,大なるものは數十圍ともなり,麻油を以ってそれに灌がせると,船の前に在させた。

鎖に遇うと,然るに炬が之を燒き,須臾にして,融液となって斷絶された,是に於いて船は礙す所無くなった。庚申,王濬は西陵に克ち,呉の都督である留憲等を殺した。壬戌,荊門、夷道の二城に克つと,夷道監の陸晏を殺した。杜預は牙門の周旨等を遣わして奇兵八百を帥させて泛舟させ夜に渡江させ,樂郷を襲った,旗幟を多く張りたて,火を巴山に起てた。

呉の都督であった孫歆は懼れて,江陵督の伍延に書を与えて曰く
「北より來たる諸軍は,乃ち江を飛び渡ってきた。」

周旨等は樂郷の城外に伏兵していた,孫歆は軍を遣わして王濬を出て拒もうとし,大敗して而して還った。周旨等はそこで伏兵を発して孫歆の軍に隨って而して入ったが,孫歆は覺らなかったため,直ちに帳下に至り,孫歆を虜にして而して還った。

乙丑,王濬は呉の水軍都督の陸景を撃ち殺した。杜預は江陵に進み攻め,甲戌,之に克つと,伍延を斬りすてた。是に於いて沅水、湘水以南から,交州、廣州に於けるに接するまで,州郡は皆が風を望み印綬を送りつけてきたのである。杜預は節を杖にして詔を稱え而して之を緩撫した。凡そ斬獲する所となった呉の都督、監軍は十四,牙門、郡守は百二十餘人となった。胡奮は江安に克った。

乙亥,詔がくだった
「王濬、唐彬は既にして巴丘を定めたなら,胡奮、王戎と共になり夏口、武昌を平らげ,流れに順いて長騖し,直ちに秣陵を造せ。杜預は當に零、桂を鎮め靜め,衡陽を懷輯すべし。大兵の既にして過ぎたれば,荊州の南の境は固められようから當に檄を傳えて而して定むべし。杜預等は各おの兵を分けて以って王濬、唐彬に益してやり,太尉の賈充は屯を項へ移すように。」

王戎は參軍であった襄陽の羅尚、南陽の劉喬を遣わし兵を將いさせて王濬と合わさって武昌を攻めたところ,呉の江夏太守の劉朗、督武昌諸軍の虞昺は皆降った。
虞昺は,虞翻之子である。
61無名武将@お腹せっぷく 2010/02/15(月) 21:46:40
杜預は衆軍と会議した,或るもの曰く
「百年之寇なれば,未だ盡く克つ可からざるものです,方(まさ)に春水が生ぜんとしておりますから,久しく駐まることは難しいでしょう,宜しく來たる冬を俟ち,更めて大舉を為すべきです。」

杜預曰く
「昔樂毅は藉濟して西へむかい一戰して以って強齊に並びたった,今や兵威は已にして振るわれている,譬えるなら破竹の如し,數節之後には,皆刃を迎えれば而して解けてしまい,復た手を著す處など無くなろう。」
遂に群帥に方略を指し授け,建業へ逕造することとなった。 

呉主は王渾が南下したと聞くと,丞相の張悌、督丹楊太守の沈瑩、護軍の孫震、副軍師の諸葛靚を使て衆三萬を帥させて渡江して逆戰させようとした。
牛渚に至ると,沈瑩は曰く
「晉が水軍を蜀に於いて治めること久しい,上流の諸軍は,素より戒備など無く,名將は皆死んでしまい,幼少が任に當っている,恐らくは御ること能うまい。
晉之水軍は必ずや此に於けるに至ろう,宜しく衆の力を畜(たくわ)えて以って其の來たるを待つべきだ,之と一戰し,若し幸にも而して之に勝てば,江西は自ずから清められよう。今渡江して晉の大軍と戰い,不幸にして而して敗れたなら,則ち大事は去ってしまおう!」

張悌曰く
「呉の將に亡びなんとするは,賢愚の知る所であり,今日のことに非ず(昨日今のことではない)。吾が恐れるは蜀兵が此れに至らば,衆心が駭れ懼れてしまい,復た整える可からざることになることだ。今渡江するに及べば,猶も戰いを決す可きものとなる。

若し其れ敗れ喪われても,同じくして社稷に死すのだから,復た恨む所とて無くなろう。若し其れ克ち捷てば,北の敵は奔り走(のが)れよう,(彼我の)兵の勢いは萬倍となる,便じて當に勝ちに乗じて南へ上るべし,之に逆らい道に中るにさいし,破らざるを憂いず。

若し子の計の如くすれば,恐らくは士衆は散り盡きてしまい,坐したまま敵の到るを待つこととなろう,君臣倶に降り,復た一人とて難に死す者が無いなど,亦た辱しからざらんか!」
62無名武将@お腹せっぷく 2010/02/15(月) 21:56:39
三月,張悌等は江を濟り,王渾の部將で城陽都尉の張喬を楊荷に於いて圍んだ。 
張喬の衆は才七千ほどで,柵を閉ざして降ることを請うてきた。
諸葛靚は之を屠ってしまおうと欲したが,張悌曰く
「強敵が前に在るからには,宜しく先ず其の小を事えるべからず,且つ降りしを殺すは不祥である。」

諸葛靚曰く
「此屬めらは以って救いの兵が未だ至らず,少なき力ゆえ敵せざるため,故に且つは偽って降ってみて以って我らを緩ませんとしているもので,真に降伏したに非ず。若し之を捨ておいて而して前へすすめば,必ずや後の患いと為りましょうぞ。」

張悌は從わず,之を撫して而して進んだ。張悌は揚州刺史である汝南の周浚と,陳(陣)を結んで相對した,沈瑩が丹楊の鋭卒、刀楯五千を帥していたため,三沖の晉兵は,動けなかった。沈瑩が引き退くと,其の眾が亂れた。將軍の薛勝、蔣班は其の乱れに因って而して之に乘じたため,呉兵は以って次つぎに奔り潰え,將帥は止めること能わなくなった,張喬が後ろより之を撃って,呉兵を版橋に於いて大敗させた。

諸葛靚は數百人を帥して遁れ去り,張悌を過ぎ迎え使まんとしたが,
張悌は去ることを肯わなかったため,諸葛靚は自ら往きて之を牽き曰く
「存亡というものは自ら大數の有るもの,卿一人が支える所に非ず,奈何故(何故に)自ら死を取らんとするのか!」

張悌は涕を垂らし曰く
「仲思よ,今日是れこそ我が死す日なのだ!且つ我は兒童と為りし時に,便じて卿の家の丞相に識られ拔擢される所と為って,常に其の死を得ざるを恐れてきた,賢者の知顧をえたものだとの名声を背負うことになったからだ。今や身を以って社稷に徇じられるのだ,復た何ぞ道ならんか!」

諸葛靚は再三にわたり之を牽きつれようとしたが,動かなかったため,乃ち涙を流して放りだし去った,行くこと百餘歩して,之を顧みると,已にして晉兵に殺される所と為っていた,並んで孫震、沈瑩等七千八百級が斬られたため,呉人は大いに震えることとなった。
63無名武将@お腹せっぷく 2010/02/15(月) 21:59:38
初め,詔書では王濬を使て建平に下りきたれば,杜預から節度を受け,建業に至れば,王渾から節度を受けることとなっていた。
杜預は江陵に至ると,諸將に謂って曰く
「若し王濬が建平を得たなら,則ち流れに順い長驅させよ,威名は已にして著われているのだ,宜しく我に於ける制約を受け令むるべからず;若し克つこと能わざるなら,則ち節度を施すことを得るような縁るべなどもとより無くなろう。」

王濬が西陵に至ると,杜預は之に書を與えて曰く
「足下は既にして其の西籓を摧(くじ)かれたからには,便じて當に建業を逕取すべきです,累世之逋寇を討ちほろぼし,呉人を塗炭に於けるより釋(すく)いだし,軍旅を振るわせて都に還るも,亦た曠世の一事ではないですか!」

王濬は大いに悅び,杜預の書を表呈した。
張悌が敗死するに及び,揚州別駕の何惲は周浚に謂って曰く
「(呉の丞相たる)張悌が全ての呉の精兵を舉げておきながら此れに於いて殄滅してしまったため,呉之朝野には震懾せざるものなど莫くなっております。今王龍驤(※龍驤将軍である王濬のこと)は既にして武昌を破り,勝ちに乘じて東下してきており,向う所輒ち克ち,土崩之勢いが見えております。
 
謂わんとするのは宜しく速やかに兵を引きつれて渡江し,直ちに建業を指すべきということです,大軍が猝至すれば,其の膽氣を奪うことでしょうから,戰わずして禽える可きこととなりましょう!」

周浚は其の謀を善しとし,使いして王渾に白させることとした。
何惲曰く
「王渾どのは事機に暗く,而して欲すのは己を慎み咎を免れんとすことですから,必ずや我に從わざることでしょう。」

周浚は固く使いをやって之を白させたが,王渾は果たして曰く
「受けし詔命は但だたんに江北に駐屯し以って呉軍に抗すようにとの令であって,輕がるしく進ま使まざるものであった。貴州は武なりと雖も,豈に能く獨りで江東を平らげえようか!今は命を違えて,勝ったとしても多いとするに足りまいが,若し其の勝たざるなら,罪を為すこと已にして重くなろう。
且つ詔には龍驤を令て我が節度を受けさせよとある,但だたんに當に君に舟楫を具えさせ,一時にして俱に濟らんとすのみとしよう。」

何惲曰く
「龍驤どのは萬里之寇に克ち,既成之功を以ってして來たりて節度を受けるのですが,そのようなことは未だ之れ聞かざることです。且つ明公は上將と為っております,見えれば可として而して進みましょう,豈にいちいち詔令を須つこと得るべきでしょうか!今此れに乘じて渡江すれば,十全にして必ず克つものです,何をか疑い何をか慮って而して淹留したまま進まざるのですか!此れ鄙州の上下が恨恨とする所以ですぞ。」
しかし王渾は聽きいれなかった。
64無名武将@お腹せっぷく 2010/02/15(月) 22:06:01
王濬が武昌より流れに順って建業へ徑趣した,呉主は游撃將軍の張象を遣わし舟師萬人を帥させて之を御がせんとした,張像の衆は旗を望むと而して降ってしまった。王濬の兵甲は長江を滿たし,その旌旗は天を燭らし,その威勢は甚だ盛んとなって,呉人は大いに懼れることとなった。

呉主之嬖臣であった岑昏は,傾險諛佞を以ってして,位を九列に致し,功役を興すことを好んだため,衆が患い苦しむところと為っていた。晉兵の將に至らんとするに及び,殿中の親近數百人が叩頭して呉主に於いて請うて曰く
「北軍は日ごと近づいておるのに而して兵は刃を舉げずにおります,陛下には將た之を如何せんか?」

呉主曰く
「何故か?」

對して曰く
「正しく岑昏を坐すのみです。」

呉主は獨り言った
「爾が若かば,當に奴隷を以ってして百姓に謝すべきだというのか!」

衆は因って曰く
「唯!(それだけです)」

遂に並び起って岑昏を収めた。呉主は駱驛して追い止めんとしたが,已に之を屠ってしまったあとであった。 陶浚は將に郭馬を討とうとして,武昌に至ったところで,晉兵大いに入るを聞いたため,兵を引きつれて東へ還った。

建業に至ると,呉主は引見し,水軍の消息を問うた,對して曰く
「蜀の船は皆小さいものです,今二萬の兵を得て,大船に乗って以って戰ったなら,自ら之を破るに足ることでしょう。」
是に於いて衆を合わせ,陶浚に節鉞を授けた。明くる日當に出發すべきとなると,其の夜,衆の悉くが逃れ潰えてしまった。 

時に王渾、王濬及び琅邪王の司馬[人由]は皆が近境に臨んでいた,呉の司徒の何植、建威將軍の孫晏は悉く印節を送り詣でて王渾に降ろうとした。
呉主は光祿勳の薛瑩、中書令の胡沖等の計を用い,使者を分け遣わして書を渾、濬、伷に於いて奉じさせ以って降らんことを請うた。

又た其の群臣に書を遣わして,深く自らに責を咎めて,且つ曰く
「今大晉が四海を平らげ治めんとしている,是れぞ英俊が展節之秋であろう,勿以移朝改朔,用損厥志。」使者が先ず璽綬を琅邪王[人由]に於いて送った。壬寅,王濬の舟師が三山を過ぎると,王渾は信書を遣わして王濬を要して(軍事行動を拘束して)暫く事を論じて過ごそうとしてきた。

王濬は帆を挙げ直ちに建業を指すと,返報して曰く
「風が利ろしいゆえ,泊まるを得ませんな。」

是日,王濬の戎卒は八萬となっており,方舟は百里になんなんとし,鼓噪して石頭に於いて入っていった,呉主の孫皓は面縛して輿櫬し,軍門に詣でて降ってきた。王濬は縛めを解き櫬(かせ)を焚きすて,延請相見。 
其の圖籍を収めてみると,克ちとった
州は四つ,
郡は四十三,
戸は五十二萬三千,
兵は二十三萬であった。
65無名武将@お腹せっぷく 2010/02/15(月) 22:12:08
朝廷は呉が已に平げられたと聞くと群臣は皆が慶賀し壽(ことほぎ)を上らせてきた。帝は爵を執って涕を流して曰く
「此れは羊太傅の功である。」

驃騎將軍の孫秀は慶賀せず,南を向いて流涕して曰く
「昔討逆(将軍孫策)さまが弱冠にして一校尉を以って創業せられたものを,今や後の主が江南を挙げて而して之を棄てさってしまう,宗廟も山陵も,此れに於いて廃墟と為ってしまおう。悠悠たるかな蒼天よ,此れ何をか人たらんか!」

呉の未だ下らざるや,大臣は皆が以為らく未だ輕がるしく進む可からずとしたが,
獨り張華のみは堅く執って以為らく必ずや克ちましょうとした。

賈充は上表して稱えた
「呉の地は未だ悉く定む可からず,方に夏になれば,江、淮の下流地域は濕くなるため,疾疫が必ずや起こりましょう,宜しく諸軍を召して還らせ,以って後圖と為さしむべきです。張華めを腰斬すると雖も以って天下に謝すに足らざることですぞ。」

帝曰く
「此れは是れ吾が意であって,華は但だたんに吾と意見を同じにしているだけだ。」

荀勖が復た奏上し,宜しく賈充の表の如くすべしとしてが,帝は從わなかった。杜預は賈充が罷兵を乞う奏上をしたと聞きつけ,馳せて表し固く爭わんとした,使いが轘轅に至ったところで而して呉が已に降った。賈充は見通しが外れたことを慚じ懼れ,闕に詣でて罪を請うたが,帝は慰撫して而して不問とした。
 

四月,甲申,詔あって孫皓に爵を賜り歸命侯とした。 
乙西,大赦し,改元した。大いに酺すこと五日。使者を遣わし分けて荊、揚に詣でさせ撫慰させた,呉の牧、守已下は皆更め易えることせず,其の苛政を除くこととし,悉く簡易に従うようにとしたため,呉人は大いに悅んだ。

滕修は郭馬を討って未だ克てずにいたおり,晉が呉を伐さんとしていると聞き,衆を帥して難に赴かんとした,巴丘に至ると,呉亡ぶと聞き,(衣服を)縞素にして流涕し,還ると,廣州刺史の閭豐、蒼梧太守の王毅と各おの印綬を(晋へ)送って降らんことを請うた。孫皓は陶璜之子の融を遣わして手づからの書を持たせて陶璜を諭すと,陶璜は涕を流すこと數日,亦た印綬を送って降った。帝は皆其の本の職に復させた。 

王濬之東下するや,呉の城の戍は皆が風を望んで款附してきたが,獨り建平太守の吾彦だけは城を嬰して下らず,呉が亡んだと聞いてから,乃ち降った。帝は吾彦を以って金城太守と為した。





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荒井桂
致知出版社
2018-06-29